古今の行く末は盤上の中で その三
「さぁ、大物が針に引っかかった。私というエサが食いちぎられないよう、せいぜいがんばってくれたまえ」
「言われなくても分かってるわよ! 無能なアンタは、木の洞にでも引っ込んでなさい!」
遥か地平線の向こうから、見慣れた極大の魔力反応が迫りつつある。その速度は迅速。気付いた頃には地平線の向こうだったその姿は、すでに極小の黒点として視認出来るほどにまで近付きつつあった。
前日に悪魔祓いらしからぬ醜態を見せてしまったマルティナは、されど今日は地に足を付けて堂々とした振る舞いを取り戻しているように思える。
自前の心の強さゆえか。それとも此度の作戦に、全幅の信頼を置いているためか。マルティナは前者であると答えるだろうが、真実は両者の混ぜ合わせが故である。
「増やすわ」
「任せるよ」
短い会話による意見交換。それだけで一人と一体の思考は統一される。けれども、そうこうする内に、打倒すべき襲撃者ラウラ・ベルクヴァインはもう目の前だ。
まだマルティナ達は視認こそされていないだろうが、相手は大戦勝者一の広範囲魔法の使い手。下手に動き出しただけで、逃げ出す事が許されない範囲魔法が一帯に降り注ぐ事になる。
現在のダンタリアは魔法の一切を禁じられ、肉体も見た目相応の脆弱性を持った戦力外。そんな存在を、流れ弾が容易に想像出来る戦場に立ててしまって良いのか。いや、もちろん許される訳が無い。
だからこそダンタリアは、マルティナに言われた通り隠れ場へと避難していた。そもそも、この山地にダンタリアは潜伏すらしていなかった。
ダンタリアがラウラに姿を見せた時から、彼女を陥れる作戦は始まっていたのだ。
「行けっ!」
周囲一帯から真紅の波が噴き出した。正体はもちろんニナの使い魔。警察犬と名付けられたこの使い魔の能力は、指定した魔力をどこまでも追いかけるという単純なものだ。
全てが終わった後に文句を付けられるかもしれないが、ラウラの魔力を指定出来ているのは、ダンタリアが朝方眠っていた彼女から髪の毛を一本拝借してきたため。戦場なら僅かな魔力の揺らぎでも覚醒するラウラだが、信頼した者達の前だとここまで鈍感になってしまうのだ。
だが、いずれにせよラウラに襲い掛かっているのは使い魔。本来なら曇模様の使い魔でも対処可能であり、大本たるラウラの歯牙にもかけない矮小な存在。しかし、それはあくまで使い魔が小型の場合の話。通常のニナが生み出せる限界のサイズであった場合の話である。
「チッ......」
舌打ちと共に大きく後ろへ転移したラウラは、そのまま連続転移を行い、冷静に使い魔の特性を見極め始めた。その間も警察犬は、愚直にラウラを追いかけ続ける。ただただ真っすぐ、大波がラウラを飲み込まんと山間で津波を起こし続けている。
どう考えても、人一人の血液では賄えないレベルの大津波。しかし、それはあくまでニナ一人の魔法に頼った場合の話だ。この場には模倣の始祖魔法を身に宿すマルティナという悪魔殺しがいる。
彼女の手にかかれば、ニナの使用可能な血液は何倍にも増大する。その膨大な血液を用いて生み出した使い魔は、圧倒的格上の使い魔である曇模様すら、不意打ちなら制圧可能な程の強大な使い魔に生まれ変わらせたのだ。
「焦って連絡が来ないって事は、ひとまず成功したようだね。どれくらい持ちそうだい?」
「一分、いえ、数十秒が限界よ。効果の確認は終わったから、さっさと下山するわ」
「うん。そうしてくれ」
そしてマルティナの首にかかった簡素なポシェット。その中にあるスマートフォンこそが、この作戦を安定させるためのカギとなる。
「大戦勝者達の傍には、いずれも魔力反応に敏感な悪魔が付いている。下手に連絡用魔道具を使用すれば、それだけで存在を感知されてしまう危険を秘めている。でも、彼女達が敏感なのは、あくまで魔力反応に対してだ。肉声を乗せる先が電波であれば、案外気付かれ難いものさ」
そう言って護衛者側に手渡されたのが、先ほどのポシェット。加えて端末内に突っ込まれたのが、複数人が通話可能な会議アプリ。後はハンズフリーで通話を始めてしまえば、それぞれの動きは手に取るように伝わってくる。
あいにく立案者のダンタリアはスマートフォンを所持していなかったため、彼女のは翔からの借り物だ。その翔も役割は大熊の足止めのため、通話による細かい連携は必要としない。
距離も気にせず両手も塞がらない文明の利器が、前日までには無かった護衛者側の連携を生み出す。単純でありながらも強力な一手。碌な整備もされていない山道を急いで駆け降りるマルティナは、効果を実感すると共に、その発想に至らなかった自分を心の中で叱咤した。
「えっと、マルティナの方は上手くいってるんだね? それなら、そろそろボクも動き始めるよ」
ポシェットから、遠慮がちな声が響き渡る。
「そうね。お願いするわ。でも、そっちはあくまでも麗子の動きを見計らってよ。ここを見抜かれた所で、大本に支障は出ない。だけど、危機感を持たれるリスクすら、除外出来るならやって損は無いもの」
「うん。それじゃあマルティナの準備が出来たら、もう一度連絡をお願い。そこからボクが動けるタイミングを連絡するから」
「分かったわ。それと、カンザキ。そっちも準備を始めときなさい。ラウラさんを討伐出来るかは、あなたにかかっているんだから!」
「ええ。私も移動を始めるわ。デュモンさん、使い魔の張り替えはよろしくね」
「大丈夫、姫野と合流次第始めるよ」
大戦勝者の預かり知らぬ裏で、着々と作戦の準備は進められていた。彼らがこの流れを読み解くには、今はまだ圧倒的に推理のピースが足りていなかった。
次回更新は5/31の予定です。