逃げる狩人と追うウサギ その八
「どうやらアマハラ達も上手くやったみたい。終わりね」
その報告をマルティナが耳にしたのは、ちょうどミエリーシを討伐しようとした瞬間だった。
今の彼女は急所を除いたあらゆる部位がズタズタにされており、唯一守り切った頭部と胸部すら地面に叩きつけられた衝撃でダメージを負っている。
もう自分の勝ちは揺るがない。それは事実であり、同時に小さな傲りでもあった。
だが、こうなってしまうのも仕方の無いことだ。本来のマルティナはとにかく負けず嫌い。
そんな彼女が、戦闘中は散々に煽られ、小馬鹿にされ、罠に嵌められ続けたのだ。一言煽り文句でも言ってやらなければ、収まらない激情だったのだろう。
「そうだね~...... 負けた負けた~...... いや~、対峙していた十字は大したことなかったけれど~...... ここの主を甘く見たのが敗因だった~......」
「このっ!」
対するミエリーシも、身体こそボロボロでありながらも、その口の強さはいささかも衰えてはいないようだ。むしろその煽りは鋭さを増し、余計にマルティナの激情を掻き立てるようなストレートな物へと変わっている。
まるであと数十秒、いや数分だけでも彼女をここに釘付けにしたいかのように。
「事実でしょ~......? お前一人の力じゃあ~、何回やったって私には敵わなかった~...... いや~、ニンゲン達の力を甘く見すぎたな~......」
「っ! もういい! 負け犬が何を言おうと、これで終わりよ!」
翔と出会う前のマルティナであれば、このまま相手に乗せられる形で気が済むまで罵倒の限りを尽くしていただろう。だが、今の彼女は大きな敗北によって、幾分かの冷静さを手に入れた。
その冷静さを以て、ミエリーシへ向けて幾本もの槍の衝撃を用意する。後は振り下ろすだけ。そう振り下ろすだけで、この場は決着していたのだ。
大きな衝撃と共に見慣れない巨大な甕が、中央本部の建物の上に出現する前までであれば。
「っ!? なに、あれ......」
翔と異なり、マルティナは魔力感知に長けている。
一目見るだけで他人の魔力の波長を覚えられるし、一度見た波長は忘れない記憶力だって有している。
だからこそ彼女の困惑は人一倍だった。突如出現した甕という時点で、魔法現象であるのは確実だ。問題なのは、その波長が人類側の魔法使い達はもちろん、森羅の悪魔や零氷の悪魔とも異なる波長であったからだった。
揺れるマルティナの心。
そして、この場にはそんな乱れた心を揺り動かすことが得意な、稀代の謀略家が存在した。あと一瞬、無駄な口論で消費した一瞬の時間こそあれば、耳から流れ込む毒素をシャットアウト出来たというのに。
ケラケラと、非常に耳障りな笑い声が響き渡る。マルティナはその声に反応してしまう。
「あ~あ~...... 間に合っちゃったね~......!」
ミエリーシは口を開き、震える手で懐からさぞ大事そうに、液体の入った透明な小瓶を見せつけた。
「それはっ!」
この時マルティナは、もう一度冷静に全体を俯瞰するべきだった。
そうすればミエリーシが具体的な内容を一言も話していないことも、こんな追い詰められた状態から彼女主導で発動する作戦などあり得ないということも、見せつけてきた小瓶には魔力が一筋も籠っていない事だって分かった筈なのだ。
しかし、それを実行するには、まだまだ彼女の心は未熟だった。少女と戦士の中間であった。
「渡しなさい!」
これ見よがしに見せられた小瓶。それがこの魔法の発動に一役買っていると、思い込まされてしまった。奪い取って解析しなければと思わされてしまった。
それこそがミエリーシの置き土産だと気付きもせずに、マルティナはあまりにも無防備に彼女へ近付いてしまったのだ。
彼女の手が届く瞬間を見計らって、ミエリーシは小瓶から手を離す。
当然マルティナは小瓶を追って、腕と目線を下へと移す。そうして小瓶を手に持って初めて、これが何の変哲も無い、ただの香水瓶だということに気付かされる。
「準備ってのは~、あればあるだけ便利な物だ~...... 本当は負ける準備なんてしたくは無かったけれど~、いざとなればやってて良かったって思えるよ~......」
マルティナが視線を上へと持ち上げれば、不意にミエリーシの被っているフードがはだけていることに気が付いた。
緑髪に頭頂部から生える同色の獣耳。そしてその頭の上に立つ、手榴弾を手に持った小型のサル。
安全ピンなど、とっくの昔に引き抜かれている。
「くっ!?」
「せっかく一度見せてあげたのに~...... 私がニンゲンの技術を好むって気付いた癖に~...... やっぱり想像力が足りないね~......!」
ケラケラと笑うミエリーシの声を置き去りにして、凄まじい爆発がマルティナとミエリーシを呑み込んだ。
「あああぁぁぁっ!」
凄まじい破壊の嵐がマルティナへと飛来する。あらゆる部位に向けて、破片という殺意がこれでもかと飛来する。
「うぐっ! げほっ! あぐっ、おえっ.......ゴホッゴホッ!」
身体は今度こそ血塗れ、法衣は白色の部分など残されていない。呼吸をするだけでも激痛が走り、口から流れ出すのは吐き出す空気よりも血の方が多い。
だが、それでもマルティナは生きていた。ミエリーシを討伐するために準備していた模倣魔法を、自身の防御に使用したためだった。その咄嗟の防御が間に合わなければ、自分はこの世にいなかっただろう。
現に爆発犯であるミエリーシは、跡形も無く消滅していた。
まるで勝ち逃げをされた気分だった。マルティナの心が後悔で歪む。
「ガハッ......! ゲホッ......! 行かなきゃ......いけないのに......! うぶっ!? ゲホッゲホッゲホッ!」
自分が手に入れようとした情報は全くの空振りであり、それどころか必要の無い重症まで負ってしまうことになった。
甕はレオニードの私室をすっぽりと覆い、まるで元からその場に存在していたかのように堂々と鎮座している。
もう身体は動かせない。それどころかこの後の魔法のペナルティを考えれば、そのまま即死してもおかしくは無い。けれど、もし生き残れたのなら、このまま五体満足の復帰が叶うのであれば、どんな情報だって持っていて損は無い。
そこでマルティナは朦朧とする意識に鞭を打ち、甕そのものを観察する事に決めた。
見た目、魔力、起こる現象、出現の経緯など、何か少しでも役立つ情報を仕入れようと考えたのだ。
「外壁......傷......デザイン......」
そうして脳裏に強く刻み込まれたのは、二つの事柄だった。
一つは甕からギリギリ見ることが出来る建物の外壁。そこに弾痕と思しき、無数の傷痕が残されていたのだ。しかも、その痕はなぜか甕と同一の魔力と零氷の悪魔の魔力に分かれていることにも気が付いた。
もう一つは出現した甕のデザインだ。甕と言ってもそれは決して質素な物ではなく、むしろ豪奢や神聖と言うに相応しいデザインだ。メインは白、所々に金色の装飾が施されたその甕は、どこか自分の法衣を思わせるデザインでもあった。
(忘れない...... 私は絶対に忘れない......!)
視界の隅から暗闇が迫って来る。もう目を開いていることすら難しいらしい。
次に目を覚ました時に忘れることの無いよう、記憶に刻み込む。いずれ戦うことになるであろう、その仇敵の魔力と魔法を。
そうしてマルティナは意識をゆっくりと手放すのだった。
次回更新は8/31の予定です。