邂逅、そして目覚め
「やっべぇ、急がねぇと!」
段々と沈んでいく夕日を横目に、翔は全速力で学校を目指す。
翔の学校は夜間の警備はセンサーのみで常駐警備員等がいない。
そのため、職員室にいる最後の職員が施錠して帰ってしまうと、その後に入ったりしたら大騒ぎになり別の意味で退学になってしまう可能性が高い。
さっさと学校に電話をかければいいだけなのだが、この時の翔は焦っているのはもちろん、日中の補習も散々だったために、宿題を忘れたなどと言った日にはいよいよ老教師からも見捨てられるのではと思っていたのだ。
そして、そろそろ日が完全に沈んでしまうかといったタイミングで、翔は学校に到着した。
昼間は別学年の補習や部活動の練習で賑わっていた学校も、そのどちらも終わりを迎えたためかひっそりと静まり返っている。
しかし、教師全員が帰ってしまったわけではないようで、学校の正門は開いたままだった。
「ぜぇぜぇ......た、助かった!」
翔は安堵と共に一度息を整え、今度は小走りで自分の机のある三階に向かって走った。
そして学校に入ったタイミングで彼は違和感を覚えた。
一階にある職員室に教師がいなかったのだ。
通常であれば、この時間に残っている教師は仕事を片付けるために職員室にいるはずだ。それを予想して職員室をこっそりと通り抜けようとしていた翔は肩透かしを食らっていた。
最後の見回りをしているとしてもおかしい。
夕日が差し込む教室はまだしも、廊下や階段は電気を付けなければ薄暗く、足元がおぼつかないほど暗くなっている。だというのに、廊下や階段には一切の電気が灯っていなかったのだ。
違和感を感じながらも、やるべきことはさっさと終わらせてしまおうと階段を上がりきった時だった。
「はぁ!?」
目指していた教室からドーンというすさまじい爆音と共に、大小様々な欠片が混じった粉塵が舞ったのだ。
そのあまりの現実感の無さに翔の思考は一瞬停止する。そして再起動したタイミングである一つの考えが頭をよぎった。
「おいおい、まさかヒーターが爆発したんじゃ......」
翔の高校は予算の都合でエアコンに切り替えられなかったためか、未だに灯油で動かすヒーターが設置されていた。
それが爆発したのであれば大事だ。そして教室に備え付けてある机や椅子に燃え移ったりしたら大惨事である。
教室の現状を確認する意味も込めて、翔は急いで現場に向かった。
そこで翔は、あまりの現実感の無さに頭が考えることを放棄する、本当の意味での思考停止を経験した。
教卓側から教室を見ると、そこに女性と思われるナニカが宙に浮かんでいた。
ナニカと表現したのは、もちろん何の支えも無く5センチ程度宙に浮かんでいる点もあるが、一番の理由はソレがあまりにも場違いな格好をしていたからだ。
服装は着物。しかも袖や胸元には別の色の生地が見えており、平安時代の十二単のように何枚かの着物を重ね着しているように見える。
顔には能等で使われるオカメの面。髪は腰の長さまで伸びていて、右手にはなぜか拡声器。どう考えても学校という場所にはミスマッチな恰好だった。
人間は本当に動揺すると、目の前の問題から目をそらすように周囲から情報を求めようとする。
この時の翔も意味もなく目を動かし、この状況を自らの知る理屈で説明するための情報を求めようとしていた。そこでふと、オカメ面が顔を向けている教室の奥側が気になり翔も目を向けた。
そこには複雑な文様の描かれた札を胸の前に浮かばせ、そこから発生したバリアのような球状の膜の中に入る神崎姫野と補習を担当してくれていた老教師の姿があった。
老教師のほうは姫野の後ろに倒れており、意識も無いのかピクリとも動かない。姫野の方は札に両手を添えてオカメ面を見つめながらも、何かに耐えるような表情をしていた。
その光景を目にした瞬間、翔は思考が回復する前に本能で体が動くのを感じた。
オカメ面が何者であろうとも、姫野自身がこの非現実的な光景に一役買っていようとも関係ない。
翔は女性老教師を守るように立つ彼女の姿だけで、どちら側につくかを判断した。
そして踏み出す足にあらん限りの力を込めて走り出し、オカメ面を後ろから羽交い絞めにする。
「先生を連れて逃げろ!!」
そして姫野に向けて叫んだ。
「駄目、あなたこそ逃げて」
しかし、肝心の姫野は翔の行動に目を見開き、制止の言葉を口にする。まるで翔の行動が常軌を逸した凶行のように。
そして羽交い絞めをされた張本人も、黙ってされるがままのはずがない。
「おやおやおや、ニンゲンがまだ残っていたとは驚きました。しかし、これは僥倖。あなたが守らなければいけないモノがまた増えましたねぇ、悪魔殺し?」
嘲るような口調でそう口にすると、がっちりと羽交い絞めにしていたはずの両腕がするりと抜けた。
(なんだと!? 脇からしっかりと抑え込んでたはずだ。まるで骨も関節も無いみた......)
翔の思考は最後まで続かなかった。
オカメ面が手にもっていた拡声器、その持ち手の底を裏拳の要領で喉に叩き込まれたからだ。
普段の翔であれば対処できる急所への攻撃。しかし相手の文字通り人間離れした動きによって晒した隙は、手痛い反撃として返ってきた。
癇癪を起した子供に放られた人形のように、何度も回転しながら、無様に廊下の壁に叩きつけられる。
「ごっ......かは......」
喉を打ち付けられた激痛と衝撃により、呼吸ができなくなる。
必死に口をパクパクと動かすが、体は本来の機能を忘れてしまったかのように言うことを聞かない。酸欠により視界の隅が暗くなってくる。
それでも意識を手放さないよう両手の爪を手の平に食い込ませ、その痛みによって必死に意識を繋ぐ。
「ほぉら、あのニンゲン、釣り上げられた魚のようにのたうち回っていますよぉ。もしかしたら喉が潰れてしまったのかもしれませんねぇ? 早く助けないと手遅れになりますよぉ」
姫野はその言葉を聞かされても動かなかった。いや、動けなかった。
自分が動けば札の防御が消える。そうしたら老教師を守る壁は無くなりオカメ面は姫野をさらに追い詰めるだろう。
そして翔の知らない場所で、これまで姫野はオカメ面を追い、そのたくらみを所々で潰してきた。
口調こそ優しいが、内心は腸が煮えくり返っているだろう。
姫野が倒れれば二人は助からない。交戦前に呼んでいた応援が駆け付けるまで自分は倒れるわけにはいかない。しかし、目の前には救える命がある。
姫野は選択を迫られていた。
姫野の葛藤の横で、翔もまた薄れゆく意識を繋ぎとめるために必死にもがいていた。
同時にオカメ面の言葉こそ聞き取れなかったが、自分の軽率な行動によって状況を悪化させてしまったことだけは理解していた。
(失敗した......このままじゃ神崎さんは先生を守りながら、俺にまで注意を向けなきゃいけなくなる。そうしたらあのバケモンはそれを最大限に利用しようとする。それだけは駄目だ......それだけは!)
あふれ出したアドレナリンによって一時的に痛みこそ引いたが、ヒュー、ヒューと明らかにおかしな呼吸音を響かせる自分の喉に苦笑する。
自分は助かるかわからない。助かっても大きな後遺症が残るかもしれない。それなら自分の行動の後始末くらいは自分で付ける。
その自罰的思考を実現化するため、翔はずりずりと這いつくばりながらもオカメ面に向かって移動していた。
(抑え込まれたら、うっとうしく感じる程度には人間に似た思考を持ってやがるんだ。その綺麗な着物に反吐を塗り付けてやる!)
翔が自分の最期を決めるかもしれない選択をした瞬間だった。
(問、この声が聞こえているでしょうか?)
頭の中で、抑揚の一切無い女性の声が響いた。
遂に頭がおかしくなったかと思い、体の自由が利かなくなる前に行動を起こさねばとさらに力を籠めようとする。
(否、酸欠により多少思考が短絡的になっていますが、持病、遺伝、魔法による脳の異常はありません)
さらに頭の中で声が続いた。しかも自分の思考に論理的な理由を添えた形でだ。
(お前は誰だ?)
そこで翔は質問を続ける。
(私は_の悪魔、__の___。あなたへの手助けと、私自身の望みのためにあなたに契約を持ち掛けに来ました)
都合のいい場所のみにノイズが走り聞き取れなかったが、明らかに自分では浮かばないような答えが頭の中に浮かんでくる。
(悪魔だと?ならこの場を切り抜ける代わりにそのあと魂を頂戴しますってか?)
(否、悪魔殺しの契約後、魂を徴収することは禁止されています。あなたが悪魔を討伐したときに悪魔が現世に零す魔力。その魔力の一部を貰う代わりに、ニンゲンの魂を魔法を使うことに適した形に調整する。それが契約の大部分となります。)
その返答を聞いた瞬間、翔の中で答えは決まった。
(いいぜ。その契約、結んでやるよ)
この自称悪魔の言葉が全て嘘かもしれないという可能性は、無駄でしか無いため考えるのを止めた。
仮に嘘だとしてこの後魂が取り立てられるとしても、神崎さんに遺言を話すくらいは許されるだろう。
自分の見る目が無かった場合の可能性は押しつぶし、全てを賭けた。
(問、まだ契約の説明を終えていませんが、よろしいのですが?)
それに、わざわざ契約の詳細を語って聞かせようとする態度そのものに好意がわいた。ここでこの話を蹴ってしまったら自分は必ず後悔する。
(そんな状況じゃないしな。あとで時間がある時に説明してくれよ)
いっそ気楽な気持ちになり、そう答えた。
(肯、あなたの今後の人生が、輝かしいものにならんことを)
その言葉が終わった瞬間、翔は胸の奥に熱が灯るのを感じた。
その熱は段々と温度を増していき、末端まで行き渡っていく。
手足を通った後にはケガは嘘のように消え去り、喉を過ぎた時には痛みと苦しみは綺麗さっぱり消え去っていた。
そして、右手にはいつの間にか青白く光る木刀が握られていた。
下手に火の玉を出したり魔法の鎧やらを用意せず、使い慣れた相棒を用意してくれたあの声に感謝した。
そして翔はオカメ面に向けてもう一度走り出した。
「今度はてめぇが吹っ飛べぇーー!!」
これまでのうっぷんを全て叩きつけるかのような、型もへったくれも無い、片手のみを用いた突き。それをオカメ面の横っ面に繰り出したのだ。
また懲りずにやられに来たのだろうと、油断していたオカメ面の体が青白い木刀を見るなり強張るのが見える。
「なっ、まさか悪魔殺しに......」
オカメ面の言葉は最後まで続かなかった。
面の額部分に強かに突きを喰らい、教室の窓を突き破り落下していったからだ。
「嘘......天原君も悪魔殺しに?」
同時に姫野の方は安堵と驚きを織り交ぜた声音で、翔の分からない言葉をぼそりと漏らす。
「ごめん神崎さん、迷惑かけた!先生は無事か!?」
翔は簡単な謝罪と共に、これだけの騒ぎにも関わらず倒れたままな老教師の安否について尋ねた。
「大丈夫。眠らせているだけ。ここが落ち着いたらすぐに専門の機関で治療をするわ」
「よかった......なら、こっちも決着つけようぜ能面野郎!」
翔が吹き飛ばした窓の外。そこから額部分の小さなヒビ以外これといった外傷の無い姿で、またもオカメ面が宙に浮かんでいた。
初めて見た時も教室に浮かんでいたのだ。
予想は出来ていたが、それでも地面から5センチ程度しか浮かべないのであれば先生を避難させる時間はあったのに。そう思い小さく舌打ちをする。
「いやぁ、いやいやいや。本当に酷い目に遭いましたよ。そちらのお邪魔虫が出てくることは想定通り。けれども突いた藪から蛇どころか熊を出してしまうとは思いませんでした」
「そりゃ残念だったな。何の準備も無しに熊に出会っちまったんだ、さっさと逃げ出した方がいいんじゃないか?」
翔はオカメ面が自分に注意を向けるように挑発をした。
事態は好転した。自分は常識の範囲外の化け物から熊と表現されるような存在になったらしい。
けれどもそんな自分の突きが、目に見えるダメージは面のヒビのみと考えると油断は全くできない。
気持ちを引き締めるために木刀を握り直し、姫野と老教師に注意を向けられないように挑発を続けようとした翔であったが、事態は思わぬ方向へと動く。
「ふむ、一理ありますね。二体の悪魔殺しに近づいてくる複数の魔術師の気配。目的は達成できましたし退散させてもらいましょうか」
「本当に逃げんのかよ」
「もちろん、そうさせていただきますよ。ですが能面呼ばわりは少々不快ですので最後に名乗っておきましょう。私は言葉の悪魔、音踏みの眷属二言と申します。それでは、これ以上顔を合わせることがないこと祈っていますよ。おっほっほっほ!」
笑い声と共にオカメ面二言の姿が下へと消える。
翔は急いで窓に近寄り下を覗くが、すでにその姿は無かった。
それを確認すると一気に力が抜ける感覚に襲われ、思わず座り込んでしまった。その際に木刀からも手を放して床に置くと、木刀の輪郭が朧気になっていき最後には消えてしまう。
「天原君」
その光景を驚きと共に見つめていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると姫野が真剣な目でこちらを見つめている。翔が気を抜いている間にバリアは消したらしく、少し離れた位置に老教師を休ませていた。
「お疲れ。もしかしなくてもこの力の話だよな?」
「ええ、あなたが授かったその力、それに関わる戦いの話を伝えておきたいの。もちろん事故みたいな形で力を得てしまったのはわかってる。強要はしないし今日のことを忘れて静かに暮らしたいと言うなら、サポートもするつもりよ」
姫野が気遣いの意味も込めて、逃避の選択肢を用意してくれたことが翔にも分かった。それを理解した上で翔は首を横に振る。
「心配してくれるのはありがたいけど大丈夫だ。それに神崎さんがあんな化け物と戦っているときにそれを忘れてぬくぬく暮らすなんて、親友達にばれたらボコボコにされちまう」
「仲がいいのね。それじゃあ応援が到着次第、移動でいいかしら?」
「ああ。それと応援ってもしかして、あのオカメ面......二言......だったかの言ってた複数の魔術師ってやつか?」
「ええそうよ。悪魔に対抗する人間達の組織。日本魔法連盟、省略して日魔連のメンバーよ」
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