前を向いて歩くと決めたから
「翔。君はあの戦いでとんでもない量の魔力を消費して、おまけに多くの傷を負ったんだ。もう少しゆっくりしていったって、バチは当たらないはずだよ」
すっかりと身支度を整えた翔にニナが声をかける。
血の魔王、血脈のカバタとの戦いから一週間。
あれから翔とニナはデュモン家の屋敷で肉体と魔力の回復に多くの時間を費やし、同時に悪魔討伐という果たさなければいけない大義から解放されたこともあって、穏やかな時間を過ごしていた。
けれども消費した魔力も回復し、魔道具のおかげで身体の傷も塞がった。今日が翔の旅立ちの日であり、二人の別れの日だったのだ。
「俺もこっちの生活にようやく慣れてきた頃だったから、残念に思ってる」
「なら」
ニナが一縷の望みをかけて翔を引き止めにかかる。
翔と出会うまで、彼女には同年代の知り合いが全く存在しなかった。それどころか、来る日も来る日も自らの出自に苦悩し、人生に苦悩し、才能に苦悩する毎日だった。
けれども翔と出会って、そんな日は終わりを告げた。翔が前を向いて歩く勇気をくれた。呪われた身体に向き合ってくれた。そして遂には呪いの根源を打倒する機会にまで恵まれたのだ。
どれもこれも翔がいなければ成し遂げられなかった奇跡の連続。彼と別れてしまったら、そんな奇跡の日々も終わりを告げてしまうかもしれない。
だから心では引き留めることが悪いことだと思いつつも、ニナは翔に声をかけずにはいられなかったのだ。
「悪い。あっちから移動する時に、ろくに挨拶回りもしないでこっちに来ちまったからさ。いい加減帰らないとあっちの友人に愛想つかされちまう」
予想通り返ってきたのは否定の言葉。分かり切っていたことながら、ニナの胸にチクリと針を刺されたような痛みが走る。
「......そっか。それじゃあ仕方ないね」
「あぁ。今度来るときは、何事もなくゆっくり出来るように予定を組んでくるよ」
「......うん」
翔とニナは悪魔殺し。人々を悪魔の手から守るために生まれた、人類サイドの最大戦力だ。
今後顕現してくるだろう悪魔は、血の悪魔を遥かにしのぐ強国の代表者達。そして自分達はそんな化け物達と矢面に立って戦うことが宿命付けられている。
そんな災禍の中でゆっくり過ごせる時間を作る。それがどれだけ難しいことか目の前の恩人は理解しているのだろうか。いや、仮に理解していたとしても実現に向けて最大限努力してくれるに違いない。
だって目の前の彼は外様の悪魔殺し。自分の出自を聞いても嫌な顔一つしない、優しく純粋な一般人なのだから。
「......ねぇ、翔」
それでもこのまま別れてしまえば、次に会うときはお互いの葬式かもしれない。そんな可能性を想起してしまうと、こんな定型的な別れで終わることがニナは嫌だった。
「ん?」
「これっきりで君とお別れかと思うと、寂しい気持ちが溢れてくるんだ」
「ニナ?」
「もう少しだけ君と一緒にいたい。もう少しだけ君と話をしていたい。そう願ってしまうんだ」
「ニナ......」
自分の言葉が翔に迷惑をかけてしまっていることは、ニナ自身よく分かっている。けれど、せめて別れの寂寥感を塗りつぶしてくれるほどの幸せな思い出が最後に欲しかった。
ニナは一度だけ勇気を振り絞ることを決めた。
「ねぇ、翔。君の国の文化とはニュアンスが異なることは分かってる。あの時も、あの時も、ボクを落ち着かせるために無理をしてくれたことは分かってる。それでも無理を承知でお願いしたい。もう一度だけボクを抱きしめてくれないかい?」
そう言ってニナはおずおずと両手を前方へと伸ばす。後は翔の気持ち次第だとでもいうように。
「えっ......えぇっ!?」
一方、選択権を委ねられてうろたえるのは翔。
確かに翔はニナのことを何度か抱きしめた。しかし、彼も立派な思春期男児。彼女は気付いていなかったのだろうが、行動自体がその場の勢いに任せてしまった要素が大きく、不意に思い出すたびに翔は気恥ずかしさでもだえ苦しんでいたのだ。
そんな行為を今一度お願いされた。勢いなど存在しようもないこんな場所で。目の前の少女は手を広げて待ちわびている。逃げることなど到底許される場面ではない。
「わ、わかった。ほら、ニナ」
「んっ!」
広げた腕に少女が飛び込んできた。
瞬間、感じられるのは柔らかさ。武道に身を捧げてきた自分とは似ても似つかない感覚が全身に伝わってくる。
次に感じられたのは甘い香り。香水など使っていないはずなのに、鼻腔がニナという少女一色に染め上げられる。
最後に感じたのは目の前のニナの表情。この瞬間を待ちわびていたとでも言っているような、幸福な顔で翔にされるがままになっている。
(落ち着け!落ち着け落ち着け俺!ニナは戦友で相棒、間違っても恋人なんかじゃない!ここで勘違いなんかしてみろ、帰りの飛行機で死にたくなるのは自分だぞ!)
彼女が欲したのは思い出。間違っても自分と付き合いたいなどという恋愛感情では無いはずだ。そう心に言い聞かせながらも、どうやっても目の前の美少女から目が離せない。
恋愛感情をこじらせたストーカーの話を聞くたび、どうすればそんな愉快な勘違いに繋がるのだと馬鹿にしていた。しかし、この日彼は理解した。自分だけに向けられる女性の笑顔に、男は逆らうことが出来ないのだと。
「ねぇ、翔」
「勘違......ど、どうした!?」
脳内でそんなどうしようもない葛藤と戦っていた翔だったが、不意にニナに話しかけられることで正気に戻った。
「きっと今後の人魔大戦は激しさを増してくる。ボクなんかとは比べ物にならないほど強い翔でさえ、どうしようもない相手が現れるかもしれない」
「......あぁ」
真面目な顔で語るニナを見て、所々が緩んでいた翔も真剣な表情を作りなおした。
「だから約束してほしいんだ。君一人でどうしようも出来ないくらい追い詰められたら、迷わずボクを呼ぶって」
「どういうことだよ?」
「ボクは君がいたから生きられた。君がいたからこそ血の呪いを断ち切ることが出来た。君には返しきれないほどの恩を借り受けてしまった」
「そんなこと_」
「優しい君ならそんなことないって言うだろう?だからだよ。ボクも君が困っていたら助けたい。どれだけ苦しい戦いになろうとも参戦したい。貸し借りなんて関係ない。ただ君の友人のニナとして、君の助けになりたいんだ」
「ニナ......」
それは卑怯だろうと翔は思う。翔は自分自身が狙われたのであれば、仕方がないと思うしニナの助けもきっと求めはしないと思う。
だが、翔には守りたいものがたくさんある。知り合い、友人、生まれ故郷、新たに知り合った魔法使い達。果たしてそれらが一斉に狙われた時、自分と共闘してくれるだろう姫野だけで守り抜くことが出来るだろうか。
難しいに違いない。その時きっと自分はニナに助けを求めてしまう。彼女を死地へと誘ってしまう。彼女には彼女の守りたいものがあるはずなのに。
大義ではなく友情によって、悪魔殺しではなく友人として。そう言われてしまったら、無碍にするほうが彼女を傷付けることになる。だから翔は卑怯だと思ったのだ。
「......約束は守る。だからニナも約束してくれ。困ったら俺のことを呼んでくれるって」
「うん。......ねぇ、翔」
「うん?」
「友人として君のことが大好きだよ」
「なっ、なぁ!?」
「ふっ、ふふふ、どうしたの?顔が真っ赤だよ?」
「帰る!もう真っすぐに帰ってやる!ニナ、元気でな!困ったことがあったらすぐ電話しろよ!あっちについたら連絡するからな!」
「うん、本当にありがとう。いってらっしゃい!」
どぎまぎする彼の顔を真正面から見れたという収穫。今のところはこれで満足しておこうと思うニナだった。
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すっかり見えなくなってしまった翔の影を探すかのように、名残惜し気に窓のフレームを撫でるニナ。その隣には執事のモルガンが控えている。
「よろしかったのですか?」
主人を気遣う遠回しの言葉。しかし、それが何を指すかをニナは理解していた。
「うん。今のボクじゃ、翔の重荷にしかならない。そんなボクが告白してしまったら文字通り重いだけの女になってしまうだろう?」
翔との思い出は全てが初めてだった。
同年代の初めての友人。初めての戦友。初めての理解者。そして初めての恋。
留めようとしても後から後から溢れてくるこの想い。吐き出してしまうのは簡単だった。
けれど、吐き出した先にあるのは果たして幸福なのか。
自分は翔に支えられてばかりだった。何度も何度も心を支えられ、何度も何度も戦いでは足を引っ張り、そして別れの瞬間だって彼に迷惑をかけてしまっていた。
こんな自分が翔と恋仲になってどうする。ずっと翔に気を使われ続けるだけで、彼にいらない重圧を押し付けてしまうだろう。
「だからボクには自信が必要なんだ。翔の隣に立っても許されるって思えるほどの自信が」
今の自分には全てが足りない。だからニナは想いを告げず、別れることを決めたのだ。
次に会うときは悪魔殺しとしても、一人の人間としても、そして翔を想う女性としても成長した自分を見せるために。
「だからですか?」
「うん。ボクは今までずっと逃げ続けていたから。一番身近な家族からでさえ」
ニナは振り返り、一つの扉の前に立った。そこは彼女が以前翔を案内した、母親の部屋だった。
「症状が改善に向かう可能性はもちろんございます。しかし、同時にお嬢様自身が言っていたように、急激に悪化する可能性もございます」
「分かってる。けどボク自身が、いや、私が決めたの。前を向いて歩いていくって」
一歩踏み出した彼女の服装は、いつもの中性的服装ではなく白一色のワンピース。薄い化粧まで施していることもあって、いくら髪型がショートカットといえども、彼女を男性に見間違う人はいない。
そう。彼女は母親に自分を認識させることを決めたのだ。過去と向き合うことを決めたのだ。
「......例えどのような結果になろうと、最後までお支えします」
「ありがとうモルガン。じゃあ行ってくる、わね」
ぎこちなさの残る女性口調を使いながら、ニナは扉を開いた。
「久しぶり。お母さん」
新しい自分の人生を始めるために。
次回更新は10/14の予定です。




