強き絆は血か縁か その二十七
「ちっ、また垂れてきやがったな......」
流れだした鼻血を強引に拭い、淡く青い光を放つ十字の檻を眺めるのは翔。この光景を作り出した張本人だ。
現在彼はぬかるんだ地面に腰を下ろし、体内の魔力が急速に失われていくのをされるがままにしている。一見すれば、ニナにカバタの討伐を丸投げしたかのような恰好だ。
そんな恰好をとるのはなぜか。答えはこの結界の維持こそが、血の魔王カバタとの最終決戦で彼が与えられて役割だからだ。
カバタはニナとの戦闘中に根源魔法邪儡の血樹の力を使い、あろうことか肉体の完全再生をやってのけた。
例えどれだけの手傷を与えようとも魔力と血液さえあれば再生してしまう肉体。そして周りには無尽蔵とも思えるカバタの魔力と彼が数多の命から奪い取った血液。翔とニナはこのまま二体一を続けたとしても勝率は限りなく低いことを悟った。
だが二人はあきらめなかった。ニナが一つの作戦を閃いたのだ。
この場から魔力と血液を消し去ることは出来ない。けれどもカバタにそれらを活用させないことは出来る。翔の新たな奥義、擬井制圧 曼殊沙華なら。
作り出した結界によりあらゆる魔力を遮断したことで、カバタは目と鼻の先にある大量の魔力を活用できなくなった。しかし、曼殊沙華では、仮初とはいえカバタの肉体内に残る魔力は消し飛ばすことが出来ない。
つまり、魔法に頼らずカバタを討伐できる人材が必要だった。だからこそニナは囮役を買って出たのだ。自身の血液さえあれば、彼女の攻撃は全て致命の一撃になりうるのだから。
翔も援軍に向かおうと思えば、向かうことだけは可能だ。だが、結界に大量の魔力を消費され、何もしていないのに鼻血が吹き出す今の彼が加勢したところで、戦力としての見込みは薄く下手をすれば足手まといになる可能性だってある。
だから翔は加勢しないことを決めたのだ。相棒を信じて、結界を一秒でも長く保たせる方を選んだのだ。
「結局今の俺は傍観者だ。いくら支援したからと言って、ニナの戦いそのものには何の介入も出来ない傍観者だ。でも、あの時と同じで無事を祈ることは出来る。勝利を願うことは出来る。ニナ、頑張れ!絶対に負けるな!頑張れぇぇぇ!!!」
少年は結界内の相棒に向けて、あらん限りの声で叫んだ。
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「ここは、ボクの部屋?」
カバタとの最終決戦。相打ちのような形で意識を失ったニナが目を覚ますと、そこは見慣れた自室だった。
「あれ?」
しかし、よく見ると所々に違和感がある。異様に低い視界、随分と懐かしく感じる家具、そしてとある事件を折に処分したはずの二段ベッド。けれどどうしてそれらに違和感を持ったのかが自分でもよく分からなかった。
「あっ!ニナ!ここにいたのか!探したぞ!」
「えっ......兄さん?」
突然の声に振り向くと、銀髪に銀の瞳。一見すると少女のように整った顔をしたニナの兄、セドリックが立っていた。
「どうしたんだよ?まるで幽霊にでもあったみたいな顔をして。いくら可愛い妹でも、そんな顔をされちゃ悲しくなる」
「えっ、あっ、あれ?ごっ、ごめん兄さん」
いつも目にしているはずの兄の顔。だというのに去来した感情は、押しつぶされそうなほどの懐かしさだった。どうしてそんな感情を抱いたのか分からない。
「それに、いつから兄さんなんて大人ぶった呼び方をするようになったんだ?いつもみたいにお兄ちゃんって呼んでくれよ」
「あっ、うん。そうだね。ごめんねお兄ちゃん。何かボク混乱してて」
「アハハッ。ボクって何だよボクって。お兄ちゃんのまねっこか?全く、可愛いやつめ」
混乱が続くニナの頭をセドリックは優しくなでる。それだけでニナは泣き出しそうになった。やはり、どうしてそんな感情を抱いたかは分からないままだった。
「お兄ちゃんはどうして私を探していたの?」
「あっ、そうだった。父さんと母さんが、今日は天気がいいから庭でバーベキューをしないかって言っててさ。肉は焼き始めてるから早くニナも呼んできて欲しいって。ほら、窓を見てごらん」
「あっ......」
窓から眺めた先の庭では、父と母が仲睦まじく肉を焼き、食器を取り分けていた。二人はニナに気が付くと、笑って手を振ってくれる。ニナの胸に、言葉に出来ない郷愁がこみあげてくる。
「ほら、父さん達が呼んでるよ。早く行こう」
セドリックがニナの手を引いた。
「あ、あれっ?私は......ボクは......」
心が早く行こうとニナを囃し立てる。同時にもう一つの心が行ってはいけないとニナの足を縫い留める。
どうしてそんなに焦らせるのか。同時にどうして大好きな家族の下に向かうことを拒むのか。やはり分からない。思い出せない。
「どうしたんだい?はは~ん。さては兄さんを困らせるつもりだな?そういうことなら僕だけ先に父さん達の所に向かっちゃおうかな~?」
悪戯っぽい顔を作り、セドリックが一人で両親の所に向かおうとする。
「ま、待って!」
離れていこうとするセドリックの手を、ニナは必死に握り返そうとした。
その手を放してしまったらもう永遠に兄と、両親と離れ離れになってしまう気がして。だが、ニナの手が兄の手を握り返すことは無かった。彼女の袖を背後から引く者がいたからだ。
「えっ......ひっ!」
ニナが振り返ると、そこには銀の毛並みを持った狼がいた。狼の口にはニナの袖先が咥えられており、彼がニナを引き留めたことは明白だった。
屋敷の中には不釣り合いの光景。襲われると思ったニナの口から悲鳴が漏れる。
「ニナ、どうしたんだい?早く行こう」
「だ、だって、お兄ちゃん!狼が!」
妹の緊急事態だというのに、兄はまだのんきに自分を昼食に誘っている。一歩間違えれば自分が狼の昼食になってしまうというのに。
「狼?何のことを言っているんだい?そんナことよリも早く行コうよ」
「えっ?」
ニナの言葉を聞いてもなお態度を改めない兄のおかげで彼女も気が付いた。兄には狼が見えていないのだと。
「なんで......どうして......」
混乱を重ねるニナの頭。先ほどまでは幸せな家族との記憶に違和感が生まれることを自ら拒んでいた。しかし、今は大好きな兄に対する違和感が次から次へと生み出されていった。
(おかしい。この光景は何かがおかしい。この記憶は何かがおかしい。だって私の家族は、だってボクの家族は......)
その時ニナの頭に雷が落ちたかのような衝撃が走った。同時に思い起こされたのは一つの言葉。
(「犬は飼い主にされるがままだけれど、狼は檻の中でも何よりも家族を大切にする」)
「そうだ......全部思い出した」
自身を引き留めた銀狼の姿と尊敬すべき師匠の言葉が合わさったことで、ニナは全てを思い出した。
自分がカバタとの最終決戦に臨んでいたこと。自分が相打ちのような形でカバタとの精神対決を挑んだこと。そして何より目の前の光景が当の昔に失われて久しい記憶だったことを。
「あぁ。だからボクは懐かしく感じて泣きそうになったんだ。この光景がもう二度と手に入らない景色だから」
「ほら。ニナ、行こう。みんな待ってるよ?」
兄の形をしたナニカが、なおもニナを誘うように手招きする。だが、ニナはもうその手を掴もうとは思わなかった。兄の手を掴んだ先は、破滅へとつながっていると確信していたから。
そして、この光景全てが、血の魔王によって仕組まれた茶番なのだと理解したから。
「ずっとボクを見てくれていたんだね」
もはや必要ないと兄に背を向け、振り返った先の狼に声をかける。ニナは狼の正体にも見当がついていた。
「ここは精神の世界。ボクの魂が反映された世界だ。そんな世界でボクに干渉できる存在はただ一つしかない。君がボクと契約した魔獣だったんだね」
悪魔殺しの契約は契約者の人間と悪魔の魂が混じり合うことで成立する。
通常は魔法の才能が無い人間のサポートにかかりきりとなり、悪魔が人間側に干渉することはほぼ不可能だ。しかし、契約者の意識が何らかの理由で深層心理に触れる機会を得たのであれば別である。
彼らと契約者は一心同体。契約者の死は契約している悪魔の死を意味する。そのような場で、契約者の肩を持たない方がおかしいと言えるだろう。
正体を看破された狼は咥えていた袖を離すと、兄がニナを呼んでいる方向とは正反対の場所に数歩歩いていくと、その場で綺麗におすわりをした。
「何をして......まさか、どっちを選んでも良いって言ってるのかい?」
この精神の牢獄の出口が分かるのなら、さっさとニナを引っ張っていくだけでいいはず。だというのにニナを呼び続ける兄と対比する位置に座る狼は、全ての選択をニナに委ねているように見える。
一般的に魂の扱いがそのまま強さに繋がる精神世界では、人間より悪魔の方が圧倒的に有利だ。
そんな世界からニナを助け出したいのであれば、先ほど通り彼女の袖口を引っ張って案内するだけでいいはず。しかし狼はそれをしなかった。まるで、空虚でありながらも満ち足りた幻想世界と、正しくありながらも辛く厳しい現実世界のどちらを選んでも良いと行っているようにニナには見えた。
いくら魔界におけるカーストの最底辺である魔獣と言えど、何よりも優先すべきは自分の命のはず。だというのに狼は、己の命を平気でニナの手に委ねてしまった。あり得ない光景だった。
「そっか。お前は優しいんだね」
きっとこの場で兄の手を取ってしまえば、現実世界のニナの身体は筆舌に尽くしがたい末路を辿るのだろう。だが、裏を返せば意識だけは何の不自由もないまま、魔力尽きるその時まで幸福の世界で暮らせるかもしれない。
「ニナ、頑張れ!絶対に負けるな!頑張れぇぇぇ!!!」
「翔の声......!」
一瞬だけ頭をよぎった甘い破滅。けれどもそんな感情は、こんな自分を最後まで相棒だと言い切ってくれた誰かさんの声でかき消されてしまった。
ずっと苦しかった。一度だって期待した高みまで昇れたことは無かった。それでも抱いた感情は苦しみ一色では無くて、人生は捨てたもんじゃないって思わせてくれる人がたくさんいた。
そんな人達を残したまま、自分一人が幸福に溺れたまま逝くなど許せなかった。
ニナは選択した。その結果だとばかりに、いまだにおすわりのままでいる狼の背を優しくなでる。
「本当はお前のことがずっと嫌いだった。ボクから魔法の可能性を奪ったお前を何度も恨んでいた。魂で繋がっているお前にもこの感情は届いていたんだろう?」
狼はおもむろに立ち上がり、トコトコとさらに数歩前に歩き出す。ニナの言葉など気にしていないとでも言っているようだった。
「本当にボクはたくさんの人に迷惑をかけてばっかりだ。ボクはこれからの人生をかけて、そのたくさんの借りを返していかなくちゃいけない。だからボクを連れてってくれ、大切なもう一人の相棒」
その言葉を聞いた狼は、ニナを無視して歩きだしてしまった。勝手について来いということだろう。
「ふふっ、お前も含めてボクの周りは優しい人達ばっかりだ。兄さん、それにお父さんとお母さん。偽物だって分かっているけど、それでも幸せだった頃のみんなをもう一度だけ見れて嬉しかった。辛くても苦しくても、ボクはもうちょっとだけ頑張ってみるよ」
そう言って、ニナは狼へ追いつこうと走り出した。最後まで彼女は振り向くことはしなかった。
次回更新は10/6の予定です。




