強き絆は血か縁か その一
「くっ、覚悟はしてたけど、酷ぇ匂いだ......」
「そうだね。ボクは血の悪魔の関係者だから大丈夫だけど、普通の人間からしたら匂いだけでも辛いよね。
翔、ほら」
「悪ぃな。ありがとう」
ニナに手渡されたスカーフを顔に巻き、最低限の臭気対策を図る。
突入した血の魔王の結界内部。招かれざる客である二人を手始めに歓迎したのは、結界内部に充満する濃密な血の臭気であった。
例え鼻からの呼吸を止めてもなお漂う、錆びた鉄のような独特な血の香り。それだけでも、翔にこの結界の持ち主が誰であるかを再認識させるには十分な歓迎だった。
「それにしても......何だよこの光景......悪魔に乗っ取られた土地ってのは、こんなにも替わっちまうってのかよ」
慣れたのか、はたまた麻痺したのか。どちらにせよ臭気が気にならなくなった翔が、次に目についたのは周囲の光景だ。
赤、紅、朱。右を見ても左を見ても、目には必ず何かしらの赤色が入ってくる。
真っ赤に染まった水。赤色の塗料をぶちまけられたかのような地面。紅葉が始まったかのような色の葉を付ける樹木に至っては、幹すら赤茶色に変色していた。
「そうだね。お師匠様に聞いたことがある。悪魔が現世の土地を支配すると、その土地を自分の住みやすい環境に変質させていくって。
今この結界内部は、魔界にある血の魔王の国そのものになっているんじゃないかな?」
「なるほどな......世界規模の模様替えを行ってるってことかよ。デザイナーとしては落第点だな」
「ふふっ、ほんとだね。我が家のリフォームにも、ここの業者だけは依頼しないよ」
陽気な会話。観点を変えれば、一見緊張感の感じられない会話を二人は続ける。けれどもお互いにこの会話が空元気であることは分かっている。
万全の準備を整えたとはいえ、失敗が許されないという条件はプレッシャーとなってのしかかってくる。
そのため、明るい言葉を崩さない。追い詰められても泣き言は口にしない。この二つを合言葉にしようと、事前に二人で決めていたゆえの会話だった。
「っ!翔、息を殺して......」
不意にニナが真剣な顔で、近くの茂みに身を隠すよう翔に指差した。彼も瞬時に意味を理解し、茂みに隠れ、気配を殺す。
「グルルルルル......」
「ガァッ、ハァハァハァ....」
二人が結界内部に侵入するために空けた穴。そこに歩み寄る影があった。致命傷に見える大きな傷口、乾燥しきった骨と皮ばかりのミイラのような体躯。彼らこそがカバタによって作られた使い魔の一種、終わりを知らぬ者達だった。
「あれが、血の魔王の使い魔......」
初めて見るその醜悪な姿に、翔の眉間にシワが寄る。
「うん。あれが血の魔王に殺された生物の成れの果て。量産型使い魔、終わりを知らぬ者達だよ」
「抜き取って、同一化させて、配下にする、だったよな?」
「そうだね。血の悪魔は血液を支配して、肉体を支配して、最後に魂すら支配する」
二人は急ごしらえと言っても、その急場をしのげるだけの準備はしてきたのだ。それは戦闘における二人の連携や、血の魔王を討伐する際の戦略だけでは断じてない。
血の魔王率いる血の悪魔達の魔法原理。彼らの根源を理解するための知識も頭に叩き込んでいたのだ。
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時は遡り、昨日の深夜。昼間に激闘を繰り広げ、夕食後も互いの連携を確かめ合った激しい訓練の後。翔はラウラから血の悪魔という存在についての説明を受けていた。
血の魔王を討伐するための準備を重ねていたニナと違い、翔は血の悪魔という存在を、伝承で語られる吸血鬼の亜種程度という認識でしか理解していない。
もしかすると、この認識の差異によって致命的な失敗を犯すかもしれない。それを危惧した翔がラウラに提案したことによって起こった臨時の講義だった。
「最初に断っておくわ。私はディーのように説明上手じゃないし、そもそも血の悪魔についても、ディーから聞かされた内容の一部を私なりに解釈した程度に過ぎないわ。もしかすると、無用の長物になるかもしれない知識よ。それでもいいのね?」
「はい。お願いします」
「ならいいわ。それなら奴らの魔法について解説しておきましょうか」
そう言ってラウラは二つのグラスを取り出し、片方には水のみを。もう片方には水と白い粉末を混ぜた液体でグラスを満たした。
「一つのグラスを血の悪魔、もう一つを......獣にでもしましょうか。
さぁ、あなたなら目の前の獣の魔力を奪い、支配するにはどうするかしら?」
「えっと......その白い粉入りの水と普通の水は、混じり合うけど、それまでは全く別の液体だと考えていいんですよね?」
「そうね。そう考えて構わないわ」
「触っても?」
ラウラがくいっと顎で指す。好きにしろということだろう。
「それじゃあ、こうします」
翔が粉入りの液体を、水のみの液体に数滴零した。
「こうすれば普通の液体も粉入りの液体になってしまい、相手を支配することができると思います」
翔の考えは単純だ。血の悪魔の魔力が少しでも混じってしまえば、その獣の血液は血の悪魔と同一のものとなってしまう。自分の血液を操ることなど、血の悪魔にとっては造作の無いことのはずだ。こうやって、獣を支配しているのだろうと。
彼の考えは彼自身が認知していないにも関わらず、ワイン樽に一杯の泥水を落とせば樽の中身は全て泥水になってしまうというマーフィーの法則の一例そのものだった。
「なるほどね。けど私はこの獣が魔力を使えないなんて一言も言ってないわよ。
この程度の魔力で、魔法抵抗を抜くことが出来るのかしら?」
「あっ......」
先ほどの考えは、魔法に対して抵抗力を持たないからこそ成立する理論だ。魔力を操る術を知っていれば、体内の異質な魔力など真っ先に排除しようとするだろう。
そもそも、そういった異質な魔力に対する抵抗力によって、翔は血の魔王との戦いへの助力を求められたのだ。
「正解はこうよ」
「ええっ!?」
そう言うなり、ラウラは獣のグラスを血の悪魔のグラスにひっくり返した。
本来であれば、水は溢れだしてしまうはず。けれどもおそらく彼女の魔法によって水は溢れださず、おまけに液体同士が勝手に攪拌を始めて、二種類の水は完全に混じり合ってしまった。
「ちょ、ちょ、ちょっと!ラウラさん!このグラスの液体って、血液なんですよね!?
こんなことをしたら支配する前に、動物なんて死んでしまう決まってるじゃないですか!」
いくら全ての液体を混ぜ合わせるのが手っ取り早く確実といっても、血液を抜き取られてしまったら獣は簡単に死んでしまう。
目の前の大戦勝者であれば話しは別かもしれないが、そんな暴論が通ってしまうのは翔には納得がいかなかった。
「そうね。死んでしまうでしょうね」
「そうですよ!」
「それが何か問題なの?」
「はえっ?」
「血液を抜き取られて一度は死ぬでしょう。けど、その血液を瞬時に戻したら?
生前のように血液を循環させ、臓器を無理やり動かし、脳に栄養を行き渡らせたらその獣は死んでると思う?」
「そっ、それは......」
「これが血の悪魔の魔法よ。相手の魔力を呑み込んで、自分色に染め上げる。そしてその後に戻すことによって、絶対服従の下僕を作り出す。
回復と傀儡。血の悪魔の根源はここにある。忘れないことね」
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目の前の獣達も、血の魔王に魔力と血液を根こそぎ吸い取られたのだろう。そしてその後に、最低限動くことが出来る程度まで、血液を戻された。
もちろん目的は慈愛の精神に目覚めたことによる蘇生などではなく、己の傀儡を作成するためだ。
彼らの瞳は乾ききっており、知性などは感じられない。意思があるまま無理やり服従させられていない事だけが、唯一の救いだろう。
「数は三体。司令塔はいない。どうするニナ?」
「そうだね。彼らはここら一帯の巡回を命令されている個体だと思う。もし、血脈の討伐に失敗したら、逃走時に襲い掛かられることになるだろうね」
「倒すか?」
この場は敵のホームグラウンド。何が起こるか分からない。ならば、危険なものは排除してしまうに限るとばかりに、翔が交戦案を持ち出した。けれど、そんな翔の提案に、ニナは小さく首を横に振る。
「やめとこう。倒し損ねれば、それだけで作戦が破綻してしまうかもしれない。それに」
「それに?」
「ボク達は血の魔王を討伐するために来たんだよ?血の魔王の討伐失敗前提の行動なんて、後ろ向きが過ぎるじゃないか」
「......そうだな。ニナが正しいよ」
「うん。それじゃあ彼らが通り過ぎ次第、動きだそう」
「分かった」
(今の俺達じゃ、お前達を血の魔王から救ってやることは出来ない......けど、絶対に血の魔王を討伐して、ふざけた支配から救ってやるからな)
ニナに見抜かれこそしなかったが、翔は実際に目にした血の悪魔の使い魔に大きなショックを受けていた。殺し、奪い、死後も休むことを許されずに魔王のために働かされる運命。その扱いに大きな憤りを感じていていたのだ。
今は救うことは出来ない。けれども絶対に救ってみせる。小さくなっていく使い魔達の背中に、翔は心の中でそうつぶやくのだった。
その後、二人は作戦通り、使い魔が付近を通り過ぎた後に移動を開始した。
この時翔は晒すべきだった。使い魔を見た際の自らの胸の内を。
この時ニナは気付くべきであった。使い魔程度の討伐をわざわざ提案した翔の心情を。
本来はラウラの説明によって生まれることがなかったはずだった認識のずれ。けれどもダンタリアによってわざと生み出された認識のずれ。
この時に生まれた小さな小さな認識のずれが、後に自分達をどれほどの窮地に追い込むことになるか、今の二人には想像すらできなかった。
次回更新は6/25の予定です。




