片方には百の命、もう片方には諸悪の根源
姫野を信じて眷属達の真下を走り抜けた翔だったが、どうやら作戦は成功したらしい。
恐怖心を打ち消す意味も込めて無我夢中で走っていた翔は、そのことを胸ポケットで鳴り響いたスマートフォンの着信によって理解した。
着信を確認すると相手は大熊のようだ。翔は急いで通話ボタンを押す。
「翔か! 姫野の電話が切れちまったからこっちにかけた。そっちは今どうなってる!」
通話を開始すると少し慌てたような大熊の声が聞こえてくる。
そのため翔は現状を出来るだけ簡潔に話し、自分自身は悪魔の潜伏先と予想される市民会館に突入する旨を大熊に伝えた。
「なるほどな。だいたい理解した。その状況なら姫野の奴、天太玉命の力を使いやがったな。.......無茶しやがって」
「無茶って、もしかして捧げるものがとんでもないってことですか? まさか目玉とか魂とか」
翔はパトロールの途中で姫野が自らの魔法の代償について話していたことを思い出した。そして力を借りたい神によってはとんでもない代償を要求していることも。
「いや、天太玉命の力は一切の干渉を許さない、完璧な結界を作り出す魔法だ。この力で自分ごと奴らを隔離したんだ。けれど、あいつは一つの魔法を使ってる間は他の魔法を使えない。使い魔達を足止めすればするほど、あいつは中で嬲られることになる」
「そんな!?」
翔はあの時の言葉が、彼女にそこまでの無茶を強いるものだとは思っていなかった。そんな状況なら放ってはおけないと姫野の元へと戻ろうとする。
「止めろ! 姫野は今この時も、お前が悪魔を討伐してくれることを信じて足止め役を買って出てるんだ! 姫野の気持ちを無駄にする気か!」
「っ!」
しかし、翔の行動を先読みしていたかのように、大熊に静止の言葉をかけられた。
その言葉はまさしく正論だった。それでも感情的に姫野の元へと踏み出そうとしていた足を、理性の力で必死に抑えた。
「すいません大熊さん......」
「......気にすんな。姫野を思って動こうとしたお前を攻めようなんて思っちゃいねぇ。それにお前は今からが本番だ。なんせ十中八九、悪魔と対峙することになるんだからな」
「わかってます。でも神崎さんが必死に時間を稼いでくれてるんだ。俺だって覚悟は決まってる!」
「......無茶はすんな。無理だと感じたら迷わず逃げろ。命があれば悪魔を討伐するチャンスはまた訪れる。お前達悪魔殺しが死んじまったらそれこそ悪魔の被害は格段に増えるんだからな」
「はい、これでも武道経験者ですから。引き際は見極めてるつもりです」
「本当は応援を間に合わせたかったんだが、承認をまたどっかの部署が止めてるらしくてな......本当にすまん。それと通話は繋ぎっぱなしにしといてくれ。戦いの中では無理だろうが逃げ出すときにアドバイスを出すくらいなら出来るかもしれん」
「了解です。それじゃあ、突入します!」
「あぁ、頼んだぞ」
そう言って翔は話を切り上げると通話モードのまま胸ポケットにスマホをしまい、市民会館に突入した。
「なんで誰もいないんだ......?」
翔が市民会館に入って初めて感じたのは、恐ろしいほどの静けさだった。
普段の市民会館であれば、受付の人間はもちろん、会場の準備をする作業員やイベントを楽しむために訪れた観客等で賑わっているというのに今日に限って人っ子一人いない。
「まさか、この会場にいた人間全員がもう犠牲になったんじゃ? ......急がねぇと」
言葉とは裏腹に、翔の動きは緩慢でどこから攻め込まれても対処出来るような慎重さに満ちていた。
彼は先ほどの眷属達との対峙によって、自身の魔法に対する認識がとんでもなく甘いものだったということに気付いていた。
眷属達の魔法は、おそらく一定のキーワードをトリガーに発動するものだったが、そのどれもがたった一手で翔と姫野の選択肢を奪い取り、追い込むことに成功していたのだ。
そんな眷属達を束ねる悪魔の魔法が、彼らの魔法より生易しいものであるはずがない。だからこそ翔は焦る心を必死に落ち着かせ、周囲の安全を確かめながら歩みを進めた。
「落語の公演会は二階の大ホールか。ふっー....よし!腹を括れよ天原翔!」
受付近くの案内板にて、現在も落語公演が行われている場所を確認する。
高い確率でその場所には諸悪の根源である言葉の悪魔がいるはずだ。
野望に邁進する者とそれを止めようとする者、向かえば必ず戦いになる。
この戦いで全ての決着をつけるために翔は覚悟を決め、階段を駆け上がると、大ホールの扉を蹴り開けた。
「なんだよ、これ......」
扉の先には異様な光景が広がっていた。
地面に転がる人、人、人。そのどれもがうめき声を、あるいはそれすらもあげられないのか身体を丸めて縮こまり、皆一様に腹部に手を当てて苦しんでいた。
何らかの魔法によるものだろう、その被害者の数は多く。軽く見るだけでも百人はいる。
大勢の人間達が殺虫剤を吹き付けられた虫のように地面をのたうち回る光景を見ていられず、翔は壇上へと目をやった。
すると、公演を行っていた演者の代わりに、なぜか黒子が中央に用意された座布団の上に綺麗に正座で座っている。
黒子の方も、先ほどの強行突入によって彼の存在には当然気付いていたようだ。傍らに置いてあった身に覚えのある拡声器を口に当てると、翔に話しかけてきた。
「まさか一一と二言を突破し、逆に彼らを足止めする状況を作り出すとは。本当に私の戦いというのは、予想外の不幸ばかりで嫌気がさしてきますよ」
黒子は空いている左手を頭に当て、心底悩んでいるといった声音で愚痴を吐く。
「そのメガホンを握ってやがる時点で疑う余地はねぇが、一応聞いとくぜ。お前が言葉の悪魔か?」
「えぇ。言葉の悪魔、音踏みのカタナシと申します」
悪魔は特に含みもなく、自分の正体を語ってみせた。
「無駄だろうけど一応言っとくぜ、この人達を元に戻せ。そうすりゃ見逃してやる」
翔の話を聞いたカタナシは一瞬硬直した。そして彼の言葉のを理解できたのか、今度は大声で笑い出す。
「はっはっはっ! なんと! 許すと!? 悪魔殺しが悪魔を見逃したら、代わりに何を殺して見せるのか!? それだけで一本噺が書けましょう!」
芝居がかった言葉の内容は、回りくどいのも合わさり翔には理解しがたかった。しかし、嘲笑されていることだけはわかった翔は、ぎりりと奥歯を噛みしめた。
「......あぁ、そうかよ。俺の提案は笑っちまうような的外れな提案ってことか。ったく、神崎さんに常識知らずなんて言ってられねぇじゃねぇか。なら、ぶっとばすだけだ!」
市民に余計な被害を出さぬためと、悪魔殺しから余計な痛手を負わぬため。双方のメリットを考えて提案した内容を笑い飛ばされた時点で、残された選択肢は戦いのみ。
自分の魔法世界への無知を自嘲しながらも、翔は木刀の切っ先をまっすぐカタナシへと向けた。
「一つ言っておきましょう。あなたがそのつもりでも、こちらに戦う義理は無いんですよ、ニンゲン。時に疝気の虫をご存知ですか?」
「疝気の虫? なんだそりゃ?」
こちらの提案を笑い飛ばしておきながら、まだ話は続けるつもりなのかと翔は心の中で毒づいた。
しかし、時間を稼げば大熊が要請してくれている応援がこの場にたどり着いてくれる可能性が高い。そのため、会話を途切れさせぬよう素直に質問に答えることにした。
「それは行幸! こちらにも一欠片の幸運は残っていたようだ。なぁに、知っていたとしてももう手遅れですが。ちょっとした保険を掛けただけですよ」
カタナシは声を弾ませながら、懐から包丁を取り出して地面に落とす。そして、続けて懐に手を入れるとまたしても包丁が姿を現した。そうした動作を十数回繰り返しただろうか。カタナシの足元は刃物で埋め尽くされていた。
「戦う義理は無いとか言っていた割には、物騒なもんをゴロゴロと放り投げてるじゃねぇか。気が変わったのか?」
「いえいえ、これは戦うための道具ではありません。さぁさぁさぁ皆々様! 腹に巣食う虫の鼓動に、ほとほと困り果てておいででしょう! 心優しきお医者の私が、潰す準備は整えました! 狙いを定めて一突きに、それで痛みとはおさらばです!」
カタナシが握っていた拡声器が本来の用途で使われ、芝居がかった言葉がホール中に響く。
そこで変化が起こった。弱弱しいうめき声をあげて、のたうち回るだけであった観客たちが、よろよろと壇上に向かって歩き始めたのである。
「さて。ニンゲン百人ぽっちの命と引き換えに、悪魔を見逃す提案をする心優しいあなた様は、この状況をほっとけるでしょうか?」
そう言うとカタナシはやることは終えたとばかりに、座布団から立ち上がり舞台袖に向けて歩き出す。翔が止めなければ、そう遠くないうちに見失ってしまうだろう。
「......そういうことか。ちくしょう!」
そう叫ぶと翔は壇上を飛び降り、刃物と観客たちの間に壁として立ちはだかった。
カタナシが直前に話した芝居がかったセリフと現在の光景。それによって翔も理解が出来た。
翔が市民会館にたどり着いた時点ではカタナシの魔法は完成してなかったのだ。いや、わざと完成直前の状態を保っていたというべきか。
言葉の悪魔陣営にとって、螺旋型魔法陣を完成に近づけるということは、それだけ人間陣営の捕捉スピードを速めることに直結している。きっと近い内に逃走すらままならなくなることを理解していたのだろう。
だからこそ彼らは勝負に出た。自らの魔力を消費して魔法陣を作成するのと同時に、犠牲者達をそのまま肉の盾として用いることで逃走の一助にすることを計画していたのだ。
もし逃走を図るカタナシを止めるために翔が動けば、観客たちは自分自身の腹部を刃物で切り裂き多数の死者が出るだろう。
嫌らしいのは先ほどのセリフを少し修正して、例えば腹部の痛みの原因はあいつのせいだとでも言ってしまえば、翔のような甘い人間でなくとも肉の盾として使えるということだ。
だが、わかったところで翔が取れる選択肢は一つしか残されていなかった。人命救助に動くしかなかった。翔はカタナシの手の平で見事に踊らされてしまったのだ。
「お願いだぁぁ! その包丁を渡してくれぇぇぇぇ......」
「痛みが治まらないの。お願い、お願いだからその包丁を渡してぇ......」
「駄目だ! あいつの言ったことはでたらめだ! 使うな、使ったって治らないんだ!」
群がる観客を寄せては押し返し、寄せては押し返し、何度も包丁から遠ざける。しかし、その度に観客たちは数と勢いを増して、翔の後ろにばら撒かれた包丁へとたどり着こうとする。
「それでは別れのご挨拶を。っと思ったのですが、どうやら悪魔殺し殿はお忙しいようですね。でしたら挨拶は会釈のみで済ませることにしましょう。どうか二度と顔を合わせないことを祈っておりますよ」
そう言うとカタナシは舞台裏へと姿を消した。
「ふざけんなぁぁぁ! このクソ野郎ぉ!」
翔はこの状況を作り出した悪魔に対してあらぬかぎりの罵倒を放つが、すでに悪魔は姿を消していた。
そして悪魔が姿を消したことで魔法も解除されるといったご都合主義は存在しないらしい。観客たちは苦しみの声を上げながら翔の後ろにある包丁めがけて歩みを続ける。
「邪魔をするなぁぁ!」
元は穏やかな老紳士であったであろう男性が、鬼といっても過言ではない憤怒の表情で彼を抑える翔の腕に爪を立てる。
「ぐうぅぅぅ......!」
この落語公演の演者の一人であったのだろ青年が、脂汗を流しながら翔を押し倒すべく足に噛みつく。
「痛ってぇ! っ、すんません! けどさすがにそれは我慢できねぇ!」
翔は二人をできるだけ優しく弾き飛ばした。だがそんな彼らの隙間を埋めるように後から後から観客達は絶えず押し寄せる。
自分の命にさほど危険はない。されど終わりのない絶望的な状況に、翔は不謹慎ながらまるでゾンビ映画の終盤で死者の町に一人取り残されたかのようだと感じた。
そしてどれだけ奮戦しようとも、たった一人で百人規模の人間の波を抑えきることは出来ない。
翔が油断していたわけでも、観客達の動きが劇的に良くなったわけでも無い。ただ当然の帰結として、ある時限界が訪れた。
翔の腕をすり抜けるように一人が抜けだした。翔の股下を這いつくばる格好で一人が抜けだした。そうして抜け出した者達に注意を払ってしまったことで、さらに大多数の人間達が抜け出してしまった。
抜け出した者達は奪い合うように包丁へと手を伸ばす。
「駄目だ! あいつの正体は邪悪な悪魔だ! そんな奴の言葉を信じるな! やめろおぉぉ!」
翔がこれから起こる惨劇を想像し、あらん限りの叫び声をあげた時だった。
ホールの扉が勢いよく開かれ、スーツ姿の男達が中へと入ってきた。
男達は一様にボール状の物体を握りしめており、急いで翔や観客が集合している場所へと近づくと、その場へ向けてボールを投げ込んだ。
人や地面に触れるとボールははじけ飛び、中に入っていたのだろう赤色の粉末が周囲に拡散する。粉末は観客達が触れたり吸い込んだりした瞬間にその効力を発揮し、観客達は糸が切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちていく。
(もしかして大熊さんが呼んでた応援が間に合ったのか......)
決壊した人の波によって揉みくちゃにされていた翔だったが、どうにか這い出し周囲の確認を行う。
このタイミングで言葉の悪魔陣営がわざわざ観客の止めを刺すために戻ってきたとは考えにくい。なぜならそんなことをすれば、わざわざ戦いを回避した相手と激高した状態でぶつかることになるからだ。
だからこそ翔は、大熊の呼んでいた日魔連の応援が間に合ったのだと肩の力を抜いた。
入り口付近を見れば、すでに担架を用いて近くの観客達から外へと運び出している。これなら安心だ。そう思い、翔が心を落ち着けようと深呼吸した時だった。
「んげふっ!? がはっ! ごほっ! げほ、げほ、げほっ!」
翔の気管を今まで体験したことがないほどの衝撃が襲い、咳が止まらなくなった。そして咳をする度に喉の奥の痛みと熱は増していき、さらに咳だけでなく涙と鼻水も止まらなくなる。
「がは!? ごほ、ごほ! な、なんだ、ごれ、げほげほ!」
まさかこれは日魔連の応援ではなく、やはり言葉の悪魔陣営の策略だったのかと考えた時だった。
「翔、お前のおかげだ。よくやった。それと遅れちまって本当にすまなかった」
そう言って、なぜかゴーグルとマスクをつけた花粉症患者のような姿の大熊が姿を現したのだ。
「ごほ、ぐまさん! どうして、こご、っ! ごほごほ!」
「無理すんなよ。この宙を舞ってる粉末、全部唐辛子なんだ。だから喋れば喋るほど辛くなるぞ。ほらお前の分のマスクとゴーグルだ。詳しい話はここを出てからにするぞ」
そう言って大熊はひょいと翔を持ち上げるとホールから出ていこうとする。どうやら自分は多数の人命を守ることが出来たらしい。
翔は安堵の心が芽生える一方で、退場シーンが唐辛子で顔がぐちゃぐちゃの上に、俵担ぎで運び出されるのはなんともかっこ悪いなと思った。
疝気の虫(古典落語の演目の一つ。人の腹の中で暴れる虫を言葉巧みに騙し、弱点の唐辛子を用いて退治する噺)
面白いと思っていただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。