99話 5月5日 前世夢話・自転車に乗って。
みのりは、全速力で走っていた。
雲一つないすっきりと青空を見上げるヒマもなく、高くそびえたつ塀のまわりをひたすら進む。
ホームルームが始まるまであと十分。目の前の塀の向こうには我が学び舎があるというのに、校門がひとつしかないせいで、大回りを強いられている。
いや、そもそも朝寝坊してしまった自分がいけないのだけれども、今はそんなことをなげいていてもしかたがない。
力の限りに走り続けて、何とかチャイムが鳴る前に学園に滑り込みたいのだ。
だがしかし。家から全力疾走をしてきたみのりの体は、電車に乗っている間休憩したものの、すでに限界を迎えていた。
息は絶え絶えだし、足にはうまく力が入らない。
それでも、あとすこし、と必死に手を振り走るみのりのを、自転車に乗った生徒たちが、軽快に追い抜いて行く。
自転車で行けばまだ間に合うと、余裕な様子の彼らを見て、みのりはやるせない気持ちになった。
………今日はもう遅刻しちゃおうかなぁ……。
いつもまじめだから……たぶん。たまに遅刻したところで、そんなに怒られることもないだろう。………たぶん。
そう思って走るスピードを落とそうとした時、また自転車が一台、みのりの横を通り過ぎようとしていた。
制服からして、同じ学園に通う男子生徒だろう。
………ああいいさ、そうやってみんなみんな、さっさとわたしを追い越して行けばいいのさ。
みのりがくさくさしていると、その自転車は、みのりよりもすこし前に出たところで、キキュっとブレーキ音を立てて止まった。
「――――柊?」
男子生徒が振り返り、みのりに声をかける。それは、みのりも良く知る人物だった。
「波瀬…く…?」
ぜいぜいと息を切らしながらみのりが彼の苗字を呼ぶと、波瀬は、自転車をみのりのそばへと寄せる。
「後ろ乗って」
「……へ…?」
突然出された指示に、きょとんとしてしまったみのりに、波瀬が言う。
「今ならまだ間に合うから、後ろに乗って」
「え、え…っ? でも…」
「いいからほら、早く」
波瀬の意図に気づき、遠慮しようと思ったところで、急かすように言葉をさえぎられる。
その時の笑顔がとても自然だったので、みのりが乗ったら、負担になるかもしれないという気持ちが、すうっと消えてしまった。
「……うん、ありがとう」
みのりは、波瀬の申し出に素直に甘えることにして、荷台に腰を下ろす。
「飛ばすから、つかまってて」
「え、どこに…わぁっ」
つかまればいいの? と問う前に、自転車が動き出したので、反動でみのりの体ががくんと揺れる。
あせったみのりは、とっさに手がふれた何かをぐっとつかんだ。
「ふうーっ…」
びっくりした、とひと息つきながら、みのりを助けてくれた何かを見てみる。と。
それは何と、波瀬の腰だった。
「………っ!! わ、あ、ごっ、ごっ、ごめっ…!」
いきなり男の子の腰をつかんでしまった気恥ずかしさと、これってセクハラだよね!! という罪の意識と、せっかく親切に乗せてくれた恩をあだで返してしまった申し訳なさが入り混じり、うまく言葉にできないみのり。
けれども、これ以上のセクハラはすまいと手を放そうとすると、波瀬の心地よい声が聞こえてきた。
「そこにつかまっててもらえると、おれも運転しやすいんだけど」
「は? え? そう、なの…?」
みのりは、おどおどしながら波瀬の背中に問いかける。
自転車に乗りはするけれども、人をうしろに乗せたことのないみのりには、二人乗りの感覚などまったくわからない。
なので、波瀬の言うことだから、と、従うことにした。
なにせ、波瀬には助けられてばかりのみのりなのだ。
高校入試の時に、消しゴムを貸してもらったり、殺人的に込み合っていた購買で、代わりに買い物をしてくれたり。三年生で同じクラスになってからは、よく会話もするようになったし、他の友だちも一緒だけれども、放課後、最寄り駅まで一緒に帰ったり、時には喫茶店に立ち寄ったりもする。
そんな風に波瀬と共に過ごす時間を、みのりはとても大切にしたいと思っていた。
「………ありがとうね、波瀬」
感謝の気持ちが、自然と口からこぼれた。
けれども、自転車をこぐ波瀬には聞き取れなかったらしく、「なに~?」と聞かれる。
なので、今度は口を大きく開けて、波瀬の耳に届くように言う。
「ありがとお~!」
すると波瀬は、ちらりと後ろを向いてみのりを見やると、ほんわかと笑った。
「どういたしまして~!」
「…っ」
みのりは、波瀬の、どこか小さな子供のような印象が垣間見えるその笑顔が好きだった。
それを朝から、しかも至近距離で見てしまった喜びに、波瀬の腰にふれる手が、じんわりと熱を帯びるのを感じるみのりだった。
次回のタイトルは『待ち人との会話』で~す。
ライル「あいつ…あんなとこで、何やってんだ………」




