2話 4月1日 誰かエイプリールフールだと言って。
メイサが応接間から出て行ってからほどなくして、ディアナは意識を取り戻した。
気を失っていたのは、ほんの30秒ほどのことだろう。
「……っ…」
ディアナは、やさしいカーブを描くダークブロンドの眉をくにゃりとゆがませ、細い体をぷるぷると震わせる。
その表情は、まるで、自分の体の何倍もある獣に壁際まで追い詰められて、今にもあむあむと食べられようとしている子うさぎのよう。
今、ディアナの顔を見るものがいたら、思わず駆け寄り頭をなでなで、ほおをすりすりしたくなること請け合いだったけれども、残念なことに、まだメイサが戻ってくる気配はなかった。
「……………」
ディアナは、カーペットに細い手をついて立ち上がると、フラフラと歩き出す。
行く先には、つい先ほどまで座っていたソファーがある。
けれどディアナは、クッションの利いたふかふかのそれに座ることはせず、座面に顔をうずめてカーペットに膝をついた。
仮にも貴族、しかも、将来は辺境伯のサルーイン家を継ぐことが決まっている少女がしていい所作ではない。
けれど、思わずやってしまったのは、突然思い出してしまった記憶のせいだ。
そして、ソファーがやわらかくてもふもふなのが悪いのだ。
ディアナはそう決めつけると、白い頬をもにもにと座面に押し付ける。
……気を失っている間に、頭の中にいろいろ思い浮かんだけれども……あれというのは、いわゆる、わたしの前世、というやつなんだろーか…?
雷が家のすぐそばに落ち、まさに地が裂けたのではないかと思わせるほどの大音量と、目を開けていられないレベルのまばゆい光に包まれた時、ディアナの頭の中に、次から次へと色々な映像が流れ込んで来た。
六畳間の部屋のベッドの上に寝転がって、ぴこぴことゲームをしているシーンから始まり、両親と双子の弟の家族四人で、二メートル四方もない小さなテーブルをはさんで夕御飯を食べるシーン。そこで母親にお箸の持ち方が上手になったと褒められて、えへへと照れる……黒目黒髪のわたし。
……あれは確かにわたしだったけれども……目の色がちょっと違うし、髪の毛の色なんてもっとだ。前世のわたしが暮らしていた国では、金と茶がまざったような髪の子なんて、混血でないかぎりいなかったし。
あと見えたのは高校の校舎。学区内ではそこそこの大学進学率を叩き出す私立校だったが、トップではなかった。
ちなみに弟は、学区内で一番レベルの高い高校に通っていた。お勉強はもちろんのこと、運動神経もよくて、挙句の果てには顔も整った九頭身スタイルと、神さまは気に入った子には二物も三物も与えるのね、と認識しざるを得ない、それは見事なできばえだった。
まあ、難をあげるとすれば、何を話していても一言から二言多いのと、ディアナ…の前世が買ってきたアイスやらお菓子を、勝手に食べてしまうところか。
……期間限定の桃ソーダ味アイスを食べられた時は、さすがにわたしもあばれたなー。だって、せっかく期末テストが終わったら、ご褒美に食べようと思って冷凍庫に入れておいたのに、いつの間にかなくなってるんだもん。そりゃあ、普段比較的温厚な……(たぶん)…わたしだって、怒り狂うってものよ。うん。
犯人は、お前だろうと、涼しげなお顔でソファにふんぞり返っている弟に詰め寄ると、罪の意識などまったくない様子で、「ごちそーさん」と返って来て。そこでさらにむかむかむかと怒りが込み上げてきたので、やつのシャツの襟もとをぐっとつかんで、首がかくんかくんと揺れるレベルで、ゆっさゆっさと振ったのだ。
だって、ディアナは、あらかじめ、弟の分も買っておいていたのだ。それなのに、二本ともなくなっているとはこれいかに。そりゃあ食べたからだ、まちがいなく。みのりが楽しみにしていたごほうびアイスは、弟、みのるのお腹の中で栄養になってしまったのだ。
……そうだ、みのり。わたしの前世の名前、柊みのりだ。でもって、弟がみのる。わあ、思い出したっ。双子の姉弟で、みのりとみのる。弟と名前が一文字ちがいっ。……小学生のころは、よく名前のことでからかわれたなー。姉弟で一文字しか名前がちがわないなんて、お前の両親ずいぶんてきとうだなー、とか。でも、わたしはあの名前好きだったんだよなー。一文字しかちがわないなんて、すっごく双子っぽくて。みのりとみのる。音の感じもかわいいしね。
そんなことを思いつつ、ディアナはさらに前世の映像を思い出そうと集中する。
……そうだ。高校の映像も見たんだった。
高校生活は、とても充実していた。ドジっ子なディアナ…みのりをいつも気にかけてくれる女友だちが二人と男の子がひとりいて、毎日楽しく過ごしていた。
……名前は……ええと、何だったかなー。………………………うん、思い出せない。名前どころか顔すらもぜんぜんわからない。家の中とか、校舎とか、景色はくっきり見えたけれども、人物像だけは、ぜんぶぼやけてたんだよねー。霞がかったみたいに。
弟の顔もそうだった。双子のみのりより、はるかに整っていたという記憶はあるけれど、具体的にどんなだったかと聞かれると、答えることができない。頭の中にいる両親やみのるやお友達の顔を思い出そうとしても、ひねりだした姿はやっぱりかすんでいて、はっきりしないのだ。
まあ、前世の記憶なんて、そんなものなのかもしれない。
でも、ディアナには、どうしても思い出したい記憶がある。
それは、ベッドに寝転んでぴこぴこ勤しんでいた恋愛シュミレーションゲーム、「イリュージアの光」のことだ。
ディアナは、ころころと頭を座面に転がしながら考える。
……イリュージアの、光。
それは、伯爵令嬢の女の子が、学園の中で、恋に勉強に勤しむ、いわゆる恋愛ゲームだった。
……ゲームの舞台は、イリュージア魔法学園…。でもって、わたしがこれから通う予定の学園の名前も、
イリュージア魔法学園……だったりする。
ゲームの中では、魔力を持つ者は、出自を問わず学園に通うことが決まっていた。そして、今、ディアナのいるこの世界も、法律によって同様に定められている。
……あと国名…、今、わたしがいるのはフロンド王国。ゲームの王国名も、まったく同じ……。そしてクライヴさまのお手紙に書いてあった第二王子のライルさまは、ゲームの攻略対象者……だったように思う。ていうか、それを言うならクライヴさまだって思いっきり攻略対象者なんですよ。さらに言ってしまえば、わたし、ディアナ・サルーインは、ゲームで逆ハーレムルートに進んだ時に登場する、悪役令嬢Dという、たいへん微妙な役割を持っているのだよ。くすんすん。
ディアナは、涙目になりながら、ゲームのディアナ・サルーインの役どころを思い出す。
ディアナ・サルーインは、逆ハーレムルート以外なら、悪役令嬢A、公爵令嬢のアルテアの腰巾着のひとりに過ぎない。顔だって鼻と口しか描かれない、一般的……いや、むしろちょっとぞんざいな扱いを受けている、典型的なモブキャラだ。
何故なら、個別ルートの場合、七人いる攻略対象者の婚約者は、常に悪役令嬢Aのアルテアが務めるから。
でも、逆ハールートに入ると話は変わる。七人の攻略対象者のうち、五人に婚約者がいる設定になり、その婚約者たちが、入れ替わり立ち替わり、時には手を組んで、ヒロインにさまざまな嫌がらせをしかけるのだ。
……それぞれの婚約者の名前は、たしか、アルテア、ベアトリス、シーラ、ディアナ、イルセ……。名前の頭文字を取ってみると、ABCDE……。ゲームでは、この順番が悪役令嬢たちの位の高い順でもあったっけ………。ABCDEって、ゲームやってた時は、わかりやすいと思っていたけれども、今考えるとちょっとてきとう感がいなめませんよ、ゲーム制作者さん。わかりやすい、って理由だけで名前をつけられちゃったわたしの立場が切ないよ……。
なんて風に、ディアナが、少し思考を外したところで悲しんでいると、応接間の扉がばたんと開いた。
「お嬢さま…!」
ソファの座面につっぷしているディアナを見て、メイサが慌てて駆け寄ってきた。
ディアナは、自分が悪役令嬢の一人かもだったり、名前もぞんざいにつけられたものかもしれない、とやさぐれているだけなのだけれども、メイサがそんな事情を知るはずがないのだ。
「お気づきになられましたか。どこか痛いところはありませんか?」
「だいじょうぶぅ…」
いたわるように問いかけてくるメイサに、ディアナは力なく答える。
どこも痛くはない。けれども、何も知らないメイサに、ゲームの製作サイドさんの扱いがひどいの…! とうったえるわけにもいかず、心の中はもやもやだった。
そんなディアナの態度をどう取ったのか、メイサは、いつもよりもすこしやさしい口調で言った。
「とりあえずはソファに横になりましょう。クロース先生をお呼びしましたから、お体を診ていただきましょうね」
「………はぁい」
正直、体はどこも痛くはない。でも、今はソファに座る気力もない。
だって、ディアナは、ゲームの攻略対象者の一人である、公爵子息クライヴ・フィクトルの婚約者なのだ。だとすれば、この世界はすでに、逆ハーレムルートに向かって進んでいるということになる。
……もしも、もしもだよ…? ゲーム通りにヒロインがばばーんと出張って来て、逆ハーレムルート攻略に成功しちゃったりなんかしたら………。
その時は、ディアナこと悪役令嬢Dは、悪役令嬢Aが呼び出した魔物、サタンオークに棍棒で殴られた上、まるっと食べられてしまうのだ。
食べるシーンは画面にこそ出て来ないけれど、可愛らしく着飾った令嬢たちを骨ごとむさぼる、ばりぼりぐちゃびちゃという音は、ヘタなB級ホラーよりもよほどリアルだった。初めて耳にした時は、みのりも震えあがってしまったし、ネットの攻略サイトの掲示板でも、大きな話題になった。
捕食される画像がなくてよかったと、心から思ったのを覚えている。
……令嬢たちの名づけはてきとーなくせに、そーいうところはこだわる製作スタッフ。わざとか、わざとなんですか。
メイサに支えてもらい、ソファに横になりつつ、ディアナは遠い目をする。
プレイ中、骨を砕くような音がしっかり流れて来た時には、背筋が凍るものを感じたし、悪役令嬢たちがちょっとかわいそうかと思った。
でも、悪役令嬢AからEのヒロインいびりは、かなり陰険でヒドかったし、何より、ヒロインをひどい目に遭わせようと召喚した魔物に自分たちが食べられるんだから、まあ、自業自得と言えばそうだったのかもしれない。
でも、今はみのり=ディアナなのだ。この世界では、自分がまぎれもない悪役令嬢Dなのだ。
今から半年後、自分が魔物にばりぼりごりぐちゃと食べられてしまうかもしれないとわかっていて、平静でいられる人間がいるのだろうか。
いるかもしれない。けれどもディアナには無理だ。無理なのだ。そこは自信を持ってはっきり言い切れる。
……自慢することじゃないけれどもねー……。
ディアナは、自分に訪れるかもしれないお先真っ暗くらな未来を想像しかけるだけで、まるで、蛇に襲われ、壁際に追いつめられた子ねずみのように、ぷるぷると震え出してしまうのだった。