104話 5月7日 広がる噂
「……ファルシナさま? どうかなさいましたか?」
ディアナが、そよ風に声を乗せるかのように、そっとファルシナに話しかけると、ファルシナは、一瞬はっとうろたえた後で、こくりと息を飲み込んだ。
「いえ、何でもありません。わたしてっきり、フィクトル様は風の属性のみお持ちだと思っていたので、水も扱えると伺って驚いてしまいました。お騒がせして申し訳ありません」
狼狽したあととは思えない、しっかりとした口調で言い切って、ファルシナはスカートのすそをつまむと、ライルへ、そしてクライヴとディアナへ向けてひざを折る。
詫びを終え、ファルシナが顔をあげた時には、すでに落ち着きを取り戻したように見えた。
でも、ディアナだって、内心飛び上がりたいレベルでびっくりしていたのだ。いや、するところだったのだけれど、ディアナ以上にファルシナが驚いたので、むしろそっちに関心が向いてしまっただけで。
……だって、ゲームのクライヴは風の属性しか持ってなかったんだもん………。
でも、今ここでそれを言うわけにはいかない。そんな話をしたところで通じるのはみのるライルだけなのだ。
そう思って、ディアナはぐっとこらえる。
「…でも、わたしも驚きました。以前、クライヴさまの属性は風だけだと、うかがったように記憶していたので」
確か、婚約後に行われた両家の顔合わせの時にも、クライヴが水属性持ちだとは教えてもらっていない、はず。
「ああ…、ディアナと婚約した時は、水の魔法は生活レベルでしか扱えなかったんだよ。だから父上もあえて触れなかったんじゃないかな。でも今は、初級の魔物くらいなら倒せるよ」
「まあ、そうでしたか」
なるほど。おそらくクライヴの父は、隣国とのにらみ合いを続けているサルーイン領に必要なのは、攻撃ができる魔法だけと認識していたのだろう。だから、顔合わせの時にも、生活レベル…日常生活で使う程度…の魔法よりも、学園内どころかすでに国内でも屈指の力を持つ風の魔法の方を、アピールしたのだ。だがしかし。
「水魔法が使えるなんて、とっても貴重ですね! 遠征した時、水の補給が簡単にできますっ」
そう。遠出をして魔物討伐にあたる時、一度にコップ一杯を出すレベルでもかなり重宝される。水さえ自前で出せれば、野営する場所がかなり選べるようになるからだ。
クライブの父親の治める領地は、王都に近く、魔物が出る区域でもないので、実戦の経験がほとんどないのだろう。
……それとも、生活レベルの魔法なんて、褒めるに値しないと言っちゃうタイプなのか…………まあ、どっちでもいいや。
クライヴはいずれサルーイン領のお婿さんになる身。フィクトル家で能力が冷遇されていようが、気にする必要などほんのひとかけらもないのだ。
「でしたらわたし、土魔法で簡易のバスタブを作れるようになりますっ。そうしたら、遠征先でもお風呂に入れますねっ」
ディアナは、二人で何かを作れることがうれしくて、声をはずませたのだけれども、クライヴは思案顔で答えた。
「うん。でも、体が成熟するまでは、鍛錬もほどほどにね」
「! ………そうでしたー…」
今の情熱があれば、すぐにでもバスタブが作れる気がした。明日にでもさっそく鍛錬場で試してみようと思っていたディアナは、かくりと肩を落とす。
……うああ~…。早く八月にならないかなぁ~。
こんなにも誕生日が待ち遠しいのは、初めてなディアナだった。
「――――ところでさ、エルカ村に行くんだろ? こんな所で時間食ってていいの?」
「あっ、そうでしたっ」
しょーんと気落ちしているディアナを、一気に現実に引き戻したのはライルだった。
ディアナは、憂いを振り払うかのように、両手をまるくして握り込み、むん、と気合を入れる。
「時間は限られてますもんねっ。早く行きましょう、ファルシナさま、クライヴさま」
「うん」
「そうですね、行きましょうっ」
そうして三人はライルと別れ、厩に向かう。エルカ村に行く時は、マリスの馬車を使わせてもらえることになっているのだ。
「……それで、エルカ村の土は、だいぶ回復したの?」
「はいっ。あとすこしでおいしい大根が作れるくらいになりますよっ」
「大根?」
「あ、いえ…」
ディアナがかの地に植えるのは大根なのだと、勝手にはりきっているのを知らないクライヴは首をかしげ、ファルシナは何かを言いかけて口ごもり、視線をあさっての方向に向けた。
「……!」
「…ただ、実際に大根を植えるのは、秋の方がいいと思います。今年はこれから気温が高くなるでしょうから。ね、ファルシナさま」
先日エルカ村の住民と話していた内容だったので、ファルシナにも同意を得ようと話を振ったのだけれど、ファルシナは思いつめた表情で一方をじっと見据えていた。
そこには、悪役令嬢Bことベアトリスと、悪役令嬢Eのイルマ、そして数人の女子生徒がいる。女子生徒たちは、名前こそ知らないものの、寮で何度か見かけたことはある。
その彼女たちは、こちらに顔を向けて、何やら話していたようだったけれど、ディアナとそしてクライヴが視線を向けると、誰からともなくそそくさと立ち去って行った。
どこか気まずような雰囲気をかもしだしていたことからも、楽しい話でなかったことは見当がつく。
「……ファルシナさま」
ディアナがそっと名前を呼ぶと、ファルシナはさみしそうに眼を伏せた。おそらく、ベアトリスたちがしていた話の内容に、覚えがあるのだろう。そしてそれは、ディアナも知っていることだった。
……ファルシナさまは、人の婚約者を誘惑するような人じゃないんだけどな……。
悔しくなって、ディアナが口もとをゆがませていると、となりにいたクライヴがため息をついた。
「……申し訳ない、オランジュ嬢。先日おれが君に声をかけて、すこしの間一緒に歩いたことが、悪い噂になってしまったようだ」
「いえ、そんな…」
クライヴの謝罪に、ファルシナは首を振って答える。
「だって、ディアナ様のことが心配で、様子が聞きたかったのでしょう?」
「そうなんだけどね…」
「だったら、わたしたちが気に病む必要なんてありません。堂々としていましょうよ」
ねっ? とかわいらしく同意を求めるファルシナに、クライヴはぎこちなくではあるけれども、うなずいて見せた。
とりあえず一件落着? と思いつつも、ディアナには見過ごせない点があった。
「あの、クライヴさま」
「何?」
「えっと、もしかして、クライヴさまには、エトフォートさまたちの会話が聞こえていたんですか?」
そうなのだ。ディアナたちとベアトリスたちの間には、五メートルほどの距離があった。その距離で、ひそひそ話をされていたら、普通は話なんて聞こえないはず。少なくとも、ディアナには聞こえていなかった。ファルシナは、ベアトリスたちの表情から、何となく会話の内容を察したようだったけれど、クライヴにははっきりとわかっていたようだし。
そんな、ディアナの謎を、クライヴはあっさりと肯定した。
「ああ。聞こえていたよ」
「えっ…!」
……うそん! クライヴさまの聴覚、半端ないんですけどっ……!!
「え、ファルシナさまは聞こえていましたかっ?」
「いいえ、わたしはまったく。ただ、この間の噂が流れているのは知っていたので………」
「そう、ですか。ですよね…」
もしかして、自分だけ聞こえていなかったのでは? とほんの少しだけ疑いを持ってファルシナに聞いてみたけれど、返って来たのは予想通りの回答だった。
よかった、と息をつきながら、ディアナは考える。
………クライヴさまに内緒ごとするの、大変かも。……まあそれは置いておいて。
「でも、どうしましょう…。そんな噂がどこまでも広がって行くと、ファルシナさまの名誉に傷がついてしまいます…」
貴族社会は意外とせまい。いったん悪評が立ってしまえば、信頼を回復するのは難しいのだ。
……こっちには、アルテアさまもいて下さるけれど……。
ヘタをすればアルテアすらも、悪女に加担する公爵令嬢として指をさされてしまうかもしれない。しかもその要因を作ったのは自分のようだからますます困る。
………何か、いい対策はないかな……。
ディアナが、眉間にしわをよせて考えていると、ふいに右手を大きな手に握り込まれた。
「ひえっ」
思わず変な声が出てしまい、空いている方の手で口をふさぐ。
「すみません…」
「おれもごめん。驚かせたね」
バツの悪さを感じながら、クライヴを見上げると、クライヴも眉をへの字にしてディアナを見つめていた。
「いいえっ、いえ、おどろきはしましたけれど……手をつなぐこと自体は、その………」
この世界では、婚約者と言えども婚姻前の接触は最小限がよいとされているため、どんなに仲がよくても手を繋いで歩くまでしか、基本は許容されない。
キスどころかハグですらはしたないとされている中での手つなぎは、今を生きるディアナにとって、相当ハード-ルが高い行為なのだ。
だからと言って、嫌という訳では決してない。むしろうれしい。その意思を伝えるために、ディアナは、クライヴの手をきゅうっと握り返した。
そしてそんなディアナの気持ちは、無事クライヴに伝わったらしい。
クライヴは、ゆっくりとした動作でディアナの耳に口を近づけると、そっとささやきかけて来る。
「………じゃあ、すこしの間、このまま歩こうか」
「……はいっ!」
それは、噂を払拭するための行為でもあるのだろう。けれども、クライヴの熱くなっていく手に、彼の本心がある気がしたディアナは、クライブの申し出を飛びきりの笑顔で受けるのだった。
次回のタイトルは『進化』です。
黒いのが獲物を狩る表現がありますので、苦手な方は飛ばしてください。
みのり「ねえねえみのる。この黒いの飼っても平気かな?」
みのる「……居た場所に返してきなさい」




