深淵の子 爆焔のフラム ②
結果から言えば、フラムの手当ては心配の必要がまったくなかった。
ベラの自宅に到着する頃には、既に彼の肉体に刻まれていた無数の傷は塞がっており、皮膚に付着していた血液が乾きひび割れているばかりで程度は済んでいた。
意識はまだ戻っていないため、安静を促す為に寝台へ寝かせては見たが、このままで大丈夫かと不安になる。
ベラはひとまず布切れを水に濡らし、良く絞ってからフラムの額に乗せる。その後も慌ただしく動き回っているのを見て、ガンズはため息混じりに声を掛けた。
「少しは落ち着け。お前が慌てたってどうにかなる話じゃないだろう」
すっかり生気に満ちた寝顔のフラムに対して、ベラの顔色は悪く青さを通り越して最早白い。自信なさげな表情も合わさって、今にもこの場から消えてしまいそうな儚さがある。
「で、ですが」
「とりあえずオレはもう要らないだろ、帰っていいか?」
だが、だからといってガンズに関係のある話でもない。余計にこじれる事もあるだろうし、彼女を背負う事をガンズはするつもりはなかった。
事情はなんとなく察している。姉をゴブリンに殺され、ほとんど見ず知らずの男が命がけで助けようとしてくれて、今に至るわけだ。幸いその男は生きているし、異常な事だが傷も残っていない。
ならばやはり、もう用は無いはずだ。
壁に立てかけておいた大剣に手をかけようとした所で、ベラは申し訳なさそうにその広い背中に声を投げる。
「す、すみません……もう少しだけ」
「つってもやることねえし、とりあえずの問題は片付いただろ」
「……そう、ですよね」
彼女は引きつったように笑みを浮かべると、今度は深く頭を下げてみせた。
「お忙しい所ありがとうございました。傭兵さんって言ってましたよね、まだクモッグに滞在するのであれば後日お金を持っていきますので……」
――家の中を見る限り、ここはどうやら女世帯のようだ。親が居るようには見えないから、恐らく姉と二人暮らし、加えて犬一匹なのだろう。
不慮の事故とは言え、その姉を失った。悲しむ暇もなく男の看病をしなければならない。
クモッグから離れこんなヘンピな平野部、森にほど近いここに住んでいるということは訳アリには違いないだろうが――ガンズは短く息を吐くと、気まずげに頭を掻いた。
確かに仕事ならば、用が済めばあとは帰るだけだ。それ以上首を突っ込むのは野暮だし、面倒事に巻き込まれるだけ。
だがこれは仕事などではないし、ましてや放って置いて帰るというのは人としてどうなんだ?
ガンズは大剣に伸ばした手を引っ込めると、手近にあった椅子にどっかり座り込んで、足を組む。
驚いたような、困ったような顔をしたベラに、彼は口を開いた。
「仕事じゃねえからな、金は要らねえよ。んで仕事じゃねえから、首も突っ込んでやる」
余計な首を突っ込んだ結果、未だにクモッグから離れられなくなってしまったのを思い出す。だがまあ、たまにはこんな日もある。どう間違ったとしても、今の彼女に比べればそれよりひどい目にあうことはないだろう。
「座れよ、ゆっくり深呼吸をして、泣きべそをかいてみろ。少し前に笑いながら人を殺す奴と出会ったが、それに比べりゃ泣いてる方がずっといい」
「そう……です、ね」
途切れ途切れに言葉を口にして、よろよろとベラは歩く。ようやくガンズの正面の席についたところで、またぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「元々は、父とニ人暮らしだったんです。父は木こりで、五年ほど前に事故で亡くなりました。結婚しアラリットで暮らしていた姉は、それを聞いて帰ってきてくれました。ですがそのせいで旦那さんとの折り合いが悪くなって、離婚してしまって」
言いながら、ベラはフラムが持ってきた指輪の連なった鎖を取り出し、テーブルに置く。それは同じデザインの二つの指輪だった。
「姉は気にしていないようでしたが、ずっとこれを大切にしてて……結婚指輪だったんです。身体の弱い私に姉は決して弱い所を見せないようにしてたのに……」
話しながら、ベラは目頭が熱くなってくるのを感じる。潤んだ瞳がやがて視界を歪め、間もなくそれが目元から流れ落ちて一筋の涙を流す。それが契機になってしまったのか、双眸から零れた涙は止まる事なく氾濫した川のように溢れ出した。
ガンズはそれが落ち着くのを黙って待つ。腕を組み、ぼうっと寝たままのフラムを眺めながら。
またベラがゆっくり声を発したのは、十分ほど経ってからの事だった。
彼女は赤く充血した目を必死に開いてガンズを見つめていた。それに彼が気づいてから、ようやく口を開く。
「あの人がこの家から去った後、わたしを殺して下さい」
どちらかだと思っていた。ガンズは少し呆れたように肩を竦めてみせる。
クモッグで仕事を紹介してくれと言われるか、あるいはこの世から消し去ってくれと言われるか。金の話をするくらいだから金の心配は無いのだろうが、彼女はまだ若い。これからの事を考えなければならない。
生きていくなら姉に代わる精神的支柱が必要だ。親友と呼べる友人か、あるいは伴侶か。
また長い人生の暇を潰す為の何かが必要だ。熱中できる趣味もそうだし、仕事などがあれば適当だろう。
しかしどうやら彼女はその考えを両断したようだった。
生きていけないと言っている。
精神的に堪えられない。父を亡くし、姉を失い、一人残された孤独を抱いたまま生きていく事を考えるならば死んだほうがマシだと言っているのだ。
確かに、彼女の立場だったらそういった精神状態になる可能性が高いだろう。
「この家にはそうそう人は来ません。たとえここにわたしの死体を放置したところで、発見されたとしても誰も相手にしないでしょう」
「傭兵を快楽殺人者だと思ってんのか?」
言われて、はっとしたようにベラは視線を落とす。眉根を潜めて、また悲しそうな顔で言った。
「す、すみません……そういうつもりで言ったわけではないのですが」
「お前の姉さんは死にたくて死んだわけじゃねえ。なのに生きてるお前が死にてえっつーのはよ、姉さんにも、あの野郎にも、侮辱なんじゃねえのか?」
お前を殺すのは簡単だ、とガンズは言った。剣なんて使わずに、その細い首筋を握りつぶしてやれば苦しまずに殺せる、とも。
ただ、
「後味の悪い仕事はしねえ主義なんだ。オレはあんたを殺さない」
「……わかりました」
そう言ってベラは俯いたまま、また黙る。
放ってこの場を去れば、間もなく彼女は自殺するだろう。
部屋の隅で身体を丸めながら、心配そうに事を見守る犬と視線がぶつかって、ガンズは複雑そうに表情をしかめた。
「――死にたきゃ死ね」
声は不意に、少し遠くから聞こえた。
顔を向けると、フラムはゆっくりと身体を起こして二人の方へ顔を向けていた。
額に乗っていた布を投げ捨てながら立ち上がると、大股で勢い良くベラの前まで歩み寄る。やがて額をぶつける勢いで近づいたと思うと、その抜き身のナイフのような鋭い目つきでベラを睨みつけた。
「助けなきゃ良かったぜ、まったくよ」
捨て台詞のようにそう吐き捨てると、フラムは顔を離してポケットに手を突っ込む。顔は未だ彼女を睨みつけたまま、彼女はまた返す言葉もなく俯く。
ややあってから、彼女は口角を下げ、ぎゅっと何かを堪えるように口元を引き締めたまま顔を上げた。
ゆっくりと開いた口は、少し怒気を孕んだ言葉を放つ。
「甘えてる、んですか? わたしは……?」
「あぁ?」
不意打ち気味の台詞に、フラムは眉根をひそめる。ベラは構わず続けた。
「胸が張り裂けそうです。辛くて、悲しくて、頭がごちゃごちゃで……きっと暫くはこうなんでしょう。そしてわたしはきっと、乗り越えられない。辛いんです……だから」
「甘えっつーかさ」
食い気味に遮られて、ベラは言葉を止める。
呆れたような顔でフラムは頭を掻くと、見下ろした格好のまま彼は続けた。
「どうせおれたちが消えれば勝手に死ぬような奴に言っても意味がねェっつーのはわかるがよ、テメエはただ諦めてるだけだ。意気地がない、それだけの事だ」
「頑張れって言うんですか?」
自棄になっているような口調でベラは言い返す。
フラムは面倒くさそうに嘆息して、頷いた。
「頑張って勇気を出してみろ。一歩前に進め。少しは足掻いてみろ。それでダメなら死ねばいい。人間はよ、そうやってここまで進化して来たんだろ」
「……どうすれば、良いんですか?」
「テメエの頭にゃ脳味噌が入ってねーのかッ」
フラムは苛立たしげにベラの頭を両手で掴むと、大袈裟に前後に振ってみせた。彼女は小さな悲鳴を上げながら手を振り払い、涙目になってフラムを睨みつける。
「自分で考えろって、言えばいいじゃないですか」
「うるせえクソ女」
「なっ、なんなんですか、あなたはそうやって悪態ばかり」
「黙れ。黙って休め。腹が減ったなら飯をたらふく食って寝ろ」
「……食欲が無いです」
「じゃあ寝ろ」
フラムはぶっきらぼうに言い放つと共に、ベラの腕を引いて立ち上がらせる。そのまま先程までフラムが横になっていた寝台へと押し倒すと、雑に布団を彼女にかぶせた。
ベラは対して抵抗することもなくされるがままに横になり、そうして両手で布団を掴むようにして顔を覗かせると、また泣きそうな顔でフラムを見た。
「わたしが寝ている間に帰っちゃうんですか?」
「かもな」
フラムは言いながら、また彼女が座っていた椅子に腰掛ける。頬杖をつきながらベラを眺めるが、その表情は優しさの片鱗もなく厳しく鋭い。まるで寝なければ殺すと暗に言われているようで、ベラは思わずぎゅっと目を瞑った。
そうしてから何かを思い出したように目を開くと、
「名前、まだ聞いてませんでした」
答える義理などなかった。
またあるいは、適当な偽名でも名乗っておけば良かった。
だがフラムは何故だか妙なまでに素直に口を開いて、己を名乗っていた。
「フラム……ただのフラムだ」
「フラム、さん……お休みなさい。色々と、ありがとうございます」
「ちっ」
――今日の自分は様子がおかしい。
目覚めた後は不思議なほどに彼女を助けようと思ったのに、今ではベラが疎ましくて仕方がない。殺したいだとか、消し去りたいだとか、そんな感情はない。ただ関わる前まで時が巻き戻ればいいのに……そんな感覚を覚えていた。
短い舌打ちを聞いた後、ベラは今度は穏やかに目を瞑る。
忌々しいといった表現が正確なほどに表情をしかめたフラムは、しばらくしてから聞こえてきた寝息を捉えると、胸の奥底から深く息を吐いた。
「案外優しいんだな」
「あぁ?」
不意に漏らしたガンズの言葉に、訝しげにフラムは彼を睨んだ。
「誰だよ手前」
「はっ!? 今更かよ!」
困ったように頭を掻いてから、ガンズは続けるように言った。
「あの娘に連れてこられたんだよ、お前を助けろって」
「用は済んだろ」
「帰ろうとは思ったが、帰るに帰れねえだろさすがによ」
「……人情ってやつか」
「ま、そんなもんだな。にしてもよ――ホントにゴブリンを殲滅したのか? あり得ねえだろ、下手な魔物より厄介だっつーのによ、あの数は」
「かもな。だが、いい経験になった」
「志しが高いんだな。カタギじゃなさそうだが、何してんだ? こんな所で」
アラリット公国は世界で二番目に領土の広い国だ。どんな奴が居てもおかしくはない。
だがこの世界で、単独でゴブリンの巣を攻略したというのは聞いたこともない。ゴブリンに関してはただ近づかなければいいという最善の対処法があるからだ。わざわざ危険に身を置く必要は一切無い。
加えて、ゴブリンは一つの巣に数百から千を超える数が棲んでいるという話だ。いくら個が然程の力が無いとは言え、そもそも複数の敵と戦闘を交わす事自体が自殺志願にも等しい。
少なくとも己には無理な話だ。考えながら、ガンズはフラムを見る。
フラムは問われた先から立ち上がり、大きく伸びをした。
「……はぁ――何もしてねェよ、オレは。別にする事もねーし」
言いながらフラムは玄関へと向かう。ガンズは立ち上がり、声を掛けた。
「出ていくのか?」
「さあな」
振り返りもせずにフラムは肩をすくめてみせる。そうしてからすぐに扉を開いて、外に出ていった。
ガンズは無防備に眠ったままのベラを一瞥するなり、大きくため息をつく。
別の意味で厄介な事になっているようだ。ガンズはフラムの後を追うようにして外に出た。
気がつけば、外はすっかり暗くなっていた。
街から離れ灯りもない。見上げた空は暗色に染まっていて、煌めく星々が無数に散らばっている。
大きな満月が辺りを照らし、それを眺めるようにしてフラムは立ち止まっていた。
――空気が透き通っている。
フラムはそう感じていた。
深淵に居た頃は、あれほど澱んだ重苦しい空気を吸っていたというのに。ここにはその気配すらない。
「にしても、なァ」
胸の奥底から呼気を吐き出す。
どうしたものか、と考える。これから先、何を目的に生きれば良いのか。
確かにベラの望みを叶えるために翻弄した時は、ちょっとした英雄感もあって多少気分が良かった。だが今となってはあの精神不安定な女が面倒になって、下手に関係を築いてしまったことに後悔している。
到底、己にあの女の面倒を見ることなど出来ない。
勝手に死ねばいいと言ったが、かといって死なれるのも後味が悪い。とは言え、胸の奥底が少しだけささくれ立つ程度の不快感だが。
そう思案している間もなく、背後で扉が開き、己へ迫る足音を知覚する。
やはり振り返らない彼は、隣に並んだ大柄のガンズを横目で見た。
「お前はここに残ってやれ。出ると言うのなら彼女を連れてってやれ。可哀想だろ」
「手前は何様なんだ?」
「これも何かの縁ってやつだ、いいじゃねえか。彼女もまだ若い、見た目もそう悪くはない。支えてやれよ」
「お節介だな、手前も大概」
「はっ」
ガンズは言われて、鼻で笑う。
フラムは眉間にシワを寄せ、ようやくガンズへと顔を向けて睨みつけた。
「初めて言われたよ、んなこと。だがよ、たまにゃいいんじゃねえのか? 別に急ぐ事もねえんならよ」
「……理解できねェな。何の目的で、何の必要だ?」
「それを作る為に、だよ。何かしら目的や必要に応じて行動するか、その意味を作る為、確認する為に行動するかの違いだろ」
「そういうもんか……?」
「ま、中にゃ必要も、大した目的もなく手を出してくる奴も居るが……そんなのは少数だ」
兎も角だ。
ガンズはフラムを見据えて言った。
「おれに強制力はねえ。だが、あの娘も可哀想な娘だ。悲惨な現実を受け止められず、不幸なまま死なせちまうのはお前だって辛えだろ」
「知らねえよ。どうでもいい」
ぶっきらぼうに首をふるフラムを見て、ガンズは少しさみしげに笑った。
「……そうか」
ま、それも仕方ねえか。ガンズは力なく肩を落として見せ、頷いた。
「どっちにしろ、おれはここを離れる。ま、明日にゃまた様子見に来るけどよ」
言いながらガンズは歩き出す。背中越しに手をあげて別れの挨拶をするが、その背に返ってくる言葉は無かった。
やがてガンズの姿が完全に消えた頃、フラムは小屋の扉を背にゆっくりと座り込む。
空を見上げながら、ふと、ベラの泣き顔を思い出していた。
人間も、案外楽なもんじゃない。
簡単に死ぬし、親しい者に死なれれば感情に惑わされ行動不能になる。
弱く、儚い。
故の魅力があり、だからこそ固執しているのかもしれない。
良いだろう、それが人間というものならば。
己は人間であるからこそ。
あの女を支え、立ち直らせてやろうではないか。
戦うばかりが能ではない。
そしてこれから、人として生きる為に――。
フラムは密かにそう決意する。
見上げたままの空、そこに張り付いた満月は、人であろうと、魔物であろうと、等しく明るく照らしていた。




