男人禁制の国アマズ・ハイネ ⑥ 黒影騎士
門を抜け、森へ向かって走る。
森というのは、この国を訪れる前――ちょうどクロルが転移させた場所らしいというのがわかった。
そこに到着するまでの間、リナは簡潔に説明する。
数日前に黒影騎士がこの国を襲った事。
多くの魔物を従えている事。
奴は何度致命傷を食らっても決して倒れず、あまつさえ怯むことさえなかったということ。
さらに『金髪碧眼の男を差し出せ』と要求していたこと。
まさにゼノを狙ってのことだ、とアンジェリーナは直感していた。
森に近づくにつれて、傷つき倒れている女たちの影がちらほら増えていく。だがソレに構っている暇などない。リナは痛々しいくらいに悲痛な表情を浮かべながら、それでも下唇を噛んでそれを堪え忍び、アンジェリーナの先導を続ける。
やがて辿り着いた先――その木々が増え始めた場所に至った瞬間、たまらず顔をしかめるほどの濃い血の臭いがあたりに充満しているのがわかった。
月が鈍く世界を照らしている。
ちらほらと残っている雪に、湿った土。
枯れた木々の隙間から漏れる月光は、赤く染まった地面を照らしている。
周囲には数人の女たちが、多量の血液を流して倒れている。
一人は腕を喪失し。
また一人は首から先を失い。
また一人は胴体以外の全てを失くしていた。
そしてその先に、黒い甲冑に身を纏った一つの存在があった。
鉄仮面は十字に切れ込みを入れており、その隙間からは紅い輝きが迸っている。
全身から漏れる黒い霧のような何かが、甲冑の隙間から熱された蒸気のように放たれていた。
それを視認した瞬間、二人は思わず足を止めていた。
まるで突き刺さるかのような冷気が全身を駆け抜けたかのように、肌が粟立つ。こいつは危険だ、逃げろ――本能が喚くのを力で抑えつけ、アンジェリーナが一歩前に出る。
「貴様が黒影騎士……とやらか」
ソレは右手に握っていた何かを軽く放るように捨てる。鈍い音を立てて転がるものは、目を見開き悲痛を叫ぶ女の頭だった。
アンジェリーナの紅い瞳が鈍く輝く。
こいつがこの惨劇を巻き起こしている。以前ゼノをフラムの件で非難した事があったが、そんな事など比べ物にならぬくらいの悲劇。凄惨極まりない事態。
何の縁もゆかりもない国だ。だが、だからと言ってこれを目の当たりにして黙っていられるほど非情ではなく、冷血でもない。
全身に熱が篭もる。堅く握った拳が、今まさに振りかぶろうとした瞬間。
「なんだ、また女か」
まるでそんな彼女にすら興味が無いような、冷めた言葉が返ってきた。
そのただ一度の台詞で、アンジェリーナの目の前は真っ赤になった。脳が茹だり、怒りに染まる。
ただそれとは対照的なほど、彼女の行動は冷静そのものだった。
みなぎった力を腹の奥底に溜める。溜めた力を即座に解放――すると全身は、竜に変異した時のようにその容貌を変える。
鱗が瞬く間に全身を覆い尽くす。腕と足はまさに竜のソレに変わり、そして後方から頭を飲み込むような形で展開する兜が顔を包み込む。うねる角は側頭部から伸び、どことなく神々しい雰囲気を醸し出す。
翼はなく、その代わり背部の衣服を引き裂いて突出した二本の紅い骨。頭の後ろに手をのばすようにして引き抜かれたそれは、先端に鋭い刃を備えたニ槍と成す。
「女だよ。だがその女が、貴様を殺す」
「怒っているようだな、何故だ?」
「……気が狂っているのか? 貴様が人の命を奪っているからだろうが」
「お前の身内の連中か?」
「違う」
「なるほど、全くの他人を殺されても怒るのか。それがヒトなのか」
まるで場違いな、子供が親に疑問を問うような口調だった。落ち着いているとも言えるが、そもそもその男の声に感情というものの一切を感じることが出来なかった。
こいつは何者だ。一体どこから来て、何故ゼノを狙うのか。
フラムに関してもそうだ。これが、深淵の使徒というものなのか?
だとしたらなんという――恐ろしいほどに不気味な奴なのか、とアンジェリーナは思う。
故に、彼女が踏み込む一歩目に迷いなどなかった。
強く地面を踏み込み、重心を移動させ、蹴り飛ばし――黒影騎士へ肉薄。
同時に鋭い穂先が、寸分の狂いなく、瞬断の隙も見せずにその胸元に深く突き刺さった。
纏われている甲冑は薄い金属で、容易くその破片を周囲に散らす。
だが、
「……ふっ」
その先に、それ以上の手応えはなく。
またその刹那に、男から漏れた短い呼気と共に槍はその手に掴まれていた。
「ちっ」
だが未だ無防備なことには変わりが無い。アンジェリーナはさらに鋭く槍で頭部を貫いた。
攻撃は成功して、また砕けた鉄仮面の破片が吹き飛ぶ。中から瘴気のような黒い霧が漏れる――ただそれだけだった。
アンジェリーナはまた短く舌を鳴らして、掴まれる前に槍を引く。また片方も鋭く手首を捻ると簡単に拘束から逃れ、手元へと戻ってきた。
「怯まないとは聞いたが、木偶の類か?」
やや後方に控えたままのリナへ問いかける。だが彼女はその出来事に戸惑ったまま、言葉は返ってこない。
木偶……いわゆる魔導人形だ。どこかに術師が控えていて、遠隔的に目の前の黒影騎士を操っている。あるいはある程度の命令を刻み込む事で自律的に稼動させているのだ。弱点であるコアを破壊するか、術師を無力化するしか動きを止める手段はない。
もし後者ならば流暢に話すことなどない筈だし、ましてや疑問を呈することなど無い。ならば前者だと考えて良いだろうが……いずれにしても厄介なことだ。朝になって逃げるということはやはり、夜ならば身を隠すのに都合がいいという事なのだろう。
さらにこれほど血の臭いを蔓延させているのは、臭いから己の位置を察知させにくくする為かもしれない。同時に士気を下げ、攻め易くする。
――だが。
己でさえ容易く攻撃が通る程度の敵だ。いくら簡単には死なないとは言え、ある程度の数で行動しているアマズの兵たちがこう簡単に殺されるだろうか?
「まあいい」
考えてもキリがない。答えは目の前に居るこいつを斃せばすぐに出るものだ。
アンジェリーナは腹の奥底から勢いよく息を吐き出し、気合を込める。
闇に輪郭を溶かしかけている黒影騎士を改めて見据えようとした瞬間――音もなく、その拳は眼前へと迫っていた。
「っ――」
目を見開いたまま、思考が硬直したまま、身体は驚くほど素直に攻撃を避けていた。
あと数瞬気づくのに遅れれば直撃していた――兜を掠め、火花を起こす拳を見送りながらアンジェリーナは思う。
だがその機を逃しはしない。アンジェリーナは再度槍を振るい、カウンター気味に腹部に刃を突き刺した。
堅い感触、その後にまるで水の中を通るかのような鈍い抵抗感。
刃でさらに切り落とそうとするより先に、まるで無痛そのものであるかのように黒影騎士は横薙ぎに拳を返してきた。
アンジェリーナは即座に屈んで回避する。だが想定されていたように、振り上がる膝がそれに合わせられた。
一瞬目の中で火花が散る。顔面に打ち込まれた衝撃を後方に逃れながら軽減するアンジェリーナは、槍を引き抜きながら後退。地面を蹴り飛ばし何度か後方転回しながら、身軽に距離をとった。
「つぅ……」
痛みはまだマシだ。兜が無ければ鼻血の一滴でも垂れていただろうが――なんて考える余裕さえ、相手は許さない。
数秒程度の時間を稼げる距離だったはずだ。だがしかし、敵は既に目の前に居て、
「邪魔だな、これは」
知覚より速く、アンジェリーナの兜に両手を掛けていた。
認識より先に、その竜の顔を模す兜がまるで紙細工のように引き裂かれる――その中にあったアンジェリーナは、少しの間、恐怖に頬を抓られていた。
意識が我に返り身体が咄嗟に跳ねたのは、その手が首に触れようとした瞬間だった。アンジェリーナは即座に後ろへ倒れ込むようにして避け、距離を離す。
だというのに立ち直った瞬間、彼女の腹部に痛烈な拳撃が叩き込まれていた。
「が――ッ」
真横について離れぬ影が振り抜ける拳。アンジェリーナの身体はにわかに浮かび上がり、地面から足を離す。
身体が完全に拳の上に伸し掛かる瞬間、砲弾のような勢いで腕が射出。アンジェリーナは為す術もなく宙空を飛び、離れた位置にあった樹木の幹へ叩きつけられた。
衝撃が纏った鱗の鎧を通してその身を突き抜ける。背骨が軋んで、肺腑から余すこと無く空気が吐き出された。
重力による自由落下を理解して、彼女は倒れずその場に足をついた。だが膝は思っていたように力が入らず、砕けるように跪く。
たった二撃――それで己は敵を二度、殺せたはずだ。敵の二撃は、己を二度叩いただけ。だがこのザマだ。
攻撃が重い。加え、知覚するより先に攻撃が来る。体勢を立て直す暇がなく、故にまともに拳を受け止められない。
悔しい、憎い……そんな感情など忘れ、己の情けなさに頬が痙攣するように浮ついた。
嘘だろう、と思う。
この竜人である己が、こんな訳のわからない奴に。
「弱いな」
頭上から声が降り注ぐ。顔を上げるまでもなく、目の前に突如として現れた二本の足を見れば、それが黒影騎士であることなど容易に理解できた。
「いや、お前は強い。この国にいる誰よりも……一度以上、人間であれば致命となろう攻撃を加えられた者は居なかった」
だが、お前がしたのは、出来たのはそれだけだった。男はまるで、この戦闘が既に終わったかのように感想を漏らしていた。
「お前は強い。だがそれは、常識的に考えて強い……それだけの事」
つまりは常識の埒外に居る存在に対しては、毛ほども通用しないということ。
「常識、ねえ」
ふっ、と全身に力を込める。微笑んだ顔をそのまま怒りの形相に変えて、アンジェリーナは歯牙を剥いた。
「ヒトとはなんぞや? そんな事を聞く奴の常識なんて、たかが知れてると思うけど?」
「む……? そうか、ソレは虚勢だな。実力が及ばぬ相手に口調だけは強く見せ、態度だけは負けないといった具合だな」
「それはどうかな」
挑発になど乗ってたまるか。アンジェリーナは胸の内で悪態を吐きながら、再び黒影騎士から距離をとるように後ろ退る。先程背を強く叩いた木の脇を抜けた所で高く飛び上がった。
視線の先にまだ黒影騎士は存在する。だからそいつ目掛けて両腕を翼のように大きく広げ――胸へ交差させるように勢いよく腕を振り抜いた。
同時にアンジェリーナの手元から射出される凄まじい勢いの槍が、その行動を理解し逃れようとした黒影騎士の両腿に突き刺さり、貫通。そのまま地面に全長の半分ほどを埋めていた。
黒影騎士は鈍く身をよじる。だがその足は、地面から離れる気配がなかった。
その十字に輝く紅い瞳が、未だ宙空に居るアンジェリーナを睨む。
視線が、交錯する。
「ヒトを、侮るなよ」
❖ ❖ ❖
クロルはゼノの残した重い大剣をやっとの思いでかついで、ようやくその扉の前にやってきた。
執務室らしき部屋には誰も居なかった。対面の部屋はどうだろうと思った所で、声が聞こえたのだ。
だから彼女は迷いなく扉を開けて中へ入り、妙にむっと蒸すような熱気を全身で浴びた。
そこは脱衣所だった。広い空間に、棚という棚が壁に埋め込まれている。だがそこは利用されてはおらず、床に二人分の衣類が脱ぎ捨てられていた。
一着は薄手の長着。もう一着は、黒地に渦巻き模様のシャツに麻のズボン。ゼノが着用していたものであり、その奥からゼノの声が聞こえていた。
蒸気のせいで奥はよく見えない。恐る恐るクロルはその浴室に足を踏み入れた時、ようやく彼女はその全貌を認識した。
湯に浸かっているゼノへ、褐色の女がほとんど上肢を被せるような形で抱きついている。瞳は閉じていて、背を向けたままのゼノはまるで念仏でも唱えるかのように何かを語っていた。
「――っ」
悲鳴を上げる事も、呼吸をすることもクロルは忘れていた。
ゼノの声は次第に小さく、やがて止まる……と共に、ゆっくりと頭を揺らしたと思えば、そのまま崩れるかのように勢いよく湯面に顔面を叩きつけていた。
「ぐわっ――はっ、な、何を……じょ、女王! 何故抱きついて……」
ゼノはようやくのぼせた頭で現状を理解する。モカは抱きつくような形でうたた寝をしていて、崩れたゼノによって目を冷ましたようだったがまだ寝ぼけ眼だった。抱きついたまま目をこすり、頭の上の耳をピクピクと痙攣させている。
「ゼノさん」
クロルがそんな彼に声をかければ、その肩があからさまに大きく弾む。もはやなぜ女性化の術が解けているかなど、彼女の興味はなかった。
「なっ、クロル!?」
モカを引き剥がして風呂の中に座らせた後に、ゼノはまだ驚いたように振り返り、立ち上がる。
「――っ!!」
クロルは慌てて彼に背を向け、そうしてゼノもまた己が全裸であることを思い出して、また身体を湯に沈めた。
「ぜ、ゼノさん――黒影騎士が出現したそうです。森の方に……今はアンジュさんが対応に向かいましたが、アマズの方たちも怪我を負っているようで」
「なるほど。アンジュが出てからどれくらい時間が経った?」
「まだ五分ほどですが」
「わかった。僕らも急いで向かおう……女王、そういった訳です。あなたはここで」
「……うむ。ゼノ?」
「はい」
少し甘えるような口調で彼の名を呼ぶモカは、顔を向けたゼノの腕を少し強く引く。そうして近づいた彼の頬に、優しく口づけしてみせた。
「な、にを……?」
「なに、特別な意味などない。この国でのまじないじゃよ……待つ者が居るから必ず帰れ、と」
「わ、わかりました……必ず黒影騎士を倒し、報告に戻りますので」
ゼノは大きく深呼吸をする。気を取り直さなければ、こんな緩んだ思考のままでは戦闘など望めない。
立ち上がり、髪を掻き上げる。湯から出て、適当な布を一枚引き抜いて身体を拭いて、服を着用する。
身体はすっかり温まっているが、外に出ればまた冷えるだろうな――そんな事を考えながら、不思議と心は落ち着いていた。
まだろくに眠ってもいない筈なのに、疲れがとれたような感覚。こんな事態であるのに、これから向かう先への不安が一切無い。
「クロル、待たせた。行こう」
「……はい」
そんなゼノの言葉とは裏腹に、クロルは何かを含ませるように間を開けてから、さながら不承不承といった具合に頷いた。
ゼノは構わず彼女の背から剣を受け取り、己で背負う。
黒影騎士――なんの目的で己を狙うのか。
その答えは、この先に。




