空の旅路
扉のように開くガラス戸を開いた先は、思っていたよりずっと広いバルコニーだった。
子供が軽く走り回っても十分なほどで、そこには小さなテーブルと対になる椅子が設置されている。
そこから見える景色は実に広大だ。眼下に広がる町並み、その先には広い茶褐色の大地と、大きな山の連なりが広がっている。少し右に顔を向ければ、高く聳えるグラン火山も近くに拝めた。
「そこの子、その男を後ろに向かせて」
アンジェリーナは言いながら外套を脱ぎ捨てる。その下、白い薄布の衣類一枚になっていた彼女は、それさえも簡単に脱いで見せる。さらにはズボン、次いでショーツまでもを脱ぎ捨て、彼女は裸身をむき出しにした。
クロルは慌ててゼノの腕を掴んで見せるが、彼はわかってると言わんばかりに既に後ろを向いていて、肩をすくめていた。
それからクロルは改めて彼女に視線を戻す。そこの子、と言われたのが少し気になって、彼女は自分の名前を告げた。
「く、クロルです。クロル・ルッカです」
「ああ、そう。我はアンジェリーナ・ブロッサム……みんなはアンジュって呼ぶわ。じゃあクロル、よろしくね」
特段興味なさげに返事をしながら、アンジェリーナの肉体の変容は既に始まっていた。
四肢に張り付く鱗がその範囲を広げていく。同時にその背、内側から骨が隆起し始めて、やがてそれは大きな翼になった。
身体は数倍にも巨大に膨れ上がり、ややあってから――バルコニーを手狭にするほどの大きな翼竜のものに変わっていた。
「クロル、我が脱いだ服をしまっておいてくれる?」
頭部に対の角を生やしたアンジェリーナは、その真紅の瞳をぎょろっとさせてクロルへ顔を向けた。
クロルはその姿に物怖じもせず、頷きながら彼女の脱いだ衣類を簡単に畳んで胸に抱く。
「はい……すごいですね、アンジュさん」
「へえ、怖くないの?」
「とんでもないです、とっても綺麗で、カッコイイと思います!」
「そう……ありがと」
クロルがそんな感想を漏らしているのを聞いて、事が済んだかとゼノは振り返る。
視線の先に巨大な竜の姿を認めて、ゼノは「はあ」と感嘆の声を上げながら腰に手をやった。
「大きいね」
「……お前の感想は、それだけか?」
「え? ああ、うん……ははっ、なんだい? 褒めてほしいのかい?」
じとりと睨みつける瞳を見て少し考えたゼノは、合点がいったように笑ってそんな台詞を口にした。
アンジェリーナはそこまで聞いて短く舌を鳴らすと、
「お前はいずれ、ぶち殺す」
「そう怒らないでくれよ、アンジュ」
「お前はそう呼ぶな!」
言いながら、彼女はその身を這いつくばるように低くする。翼と、その長く太い尾を床にへばりつけ、顎をバルコニーの柵に引っ掛けていた。
「良いから背に乗れ」
「はいはい……じゃあクロル、行こうか」
「はい!」
ゼノは一切気も使わずにドカドカと尾に足を掛けてその背まで進んでいく。少しした所で立ち止まり、慣れず転びそうになるクロルに手を差し伸べてた。
クロルをやや抱き寄せるようにしながら、その翼の付け根の先、太い首筋あたりに彼女を跨がらせるようにして座らせる。ゼノはその後ろについて、「どうどう」と声を上げながらぺちぺちと翼を叩いてみせた。
「鞍がついてないから少し座りづらいね」
安定もしていないし、彼女が人を乗せなれてないのならば最悪落ちる可能性すら考えなければならない。
そんなゼノの歯に衣を着せない発言に気を悪くしたアンジェリーナは、構わずにそのもたげた首を持ち上げ、身体を立ち上がらせる。
それにあわせて大きく揺れる肢体に振り落とされないように、二人はしがみつく。
やがて翼を大きくはためかせたアンジェリーナは、そうして床を強く蹴り飛ばしてバルコニーから外へと飛び込んだ。
ゼノはにわかに浮かび上がった身体を竜へと押し付けるようにしながら、上肢を捻って振り返る。手を上げてバルコニーの奥、その室内に居るドレイグ卿へと別れを告げた。彼は窓際に立っていて、それに応じるように手を振って三人を見送っていた。
猛烈な風と激しい揺れに吹き飛ばされそうになりながらも、やがて山を超えるほどの高度にまで達すると風に乗ったのか、竜の飛行は安定し始めた。
あれほど蒸していた暑さが途端に消え去って、肌寒ささえ感じる。
ゼノの眼下、遥か下方を覗き込むと小高い程度の山がひどく小さく見えた。ノスランティへ向かう旅人らしき影、商人の荷馬車らしき姿も、豆粒ほどの大きさだ。
あまり見ていると吸い込まれて落ちてしまうんじゃないかなんて錯覚を覚えて、ゼノは顔を上げた。
クロルはちら、と下を見てから固まって、ややあってから遠慮なくすぐ後ろのゼノに身体を預けるようにして寄りかかっていた。
「大丈夫かい?」
「い、いえ……こ、こんなに高い所は、初めてなので……」
「だよね、僕も初めてだよ」
身体の震えが衣類越しに伝わる。非常にこの高さに恐怖を覚えているようだ。
ゼノはクロルの肩に手を置き、安心させるように言葉を続けた。
「大丈夫だよ。ここから落ちないように僕が支えてるし、仮に落ちてしまっても、アンジュが拾ってくれるから」
「アンジュと呼ぶな、ロステイト――だけど、その男の言うとおりだよクロル。それに我は人を背に乗せた以上、何があっても落としたことはない。逆に、たとえその男がどんな不埒な事を言い出したとしても、我のプライドが落とす事を許してくれないのが難点だけどね」
ふふ、と彼女は笑ってみせた。
そんな風に慰めの言葉を交互に告げていくと、やがてクロルは安心してきたように深い呼吸を何度か繰り返して落ち着きを取り戻す。
「お二人とも、ありがとうございます……」
言いながら、乱れた髪を片手で風の流れに従うように整える。ふう、とまた息を吐いて、改めてゼノに寄りかかった。
「すみません、しばらくはこうして居て頂けると……」
「気にしないでいいよ。君がしたいようにしていてくれればいい」
「ありがとうございますっ」
申し訳なさそうにお願いをするクロルに微笑み返すと、彼女は嬉しそうにニコっと笑った。
あどけない笑顔だった。空に一輪の花が咲いたようだ――そんなキザったらしい台詞は胸にしまいながら、ゼノはクロルの向こうにある竜の頭へと話しかけた。
「アマズ・ハイネに向かいたいんだ。行き先を伝えるのが遅れてしまって申し訳ないが」
「方向は合っているから構わないが――アマズ・ハイネ、ねえ? 死にに行くの?」
男人禁制の国、アマズ・ハイネ。サラ・マグダードが教えてくれた情報によると、その国の女王が白銀竜の鱗を用いて作り出した首飾りを所持しているらしい。
簡単にゼノが説明すると、それでも何か思うところがあるのか、アンジェリーナは否定的に言葉を返した。
「ただの噂話だろう? 数年前に女王が死んだとしても、あんな僻地だ。情報が流れなかったとしても不思議ではないし……とうの昔に紛失していたり、あるいは壊れてしまっていても、まあ仕方のない話もあるけれど」
「その可能性はある。だけど、僕らはどんな細い糸でもそれを辿っていかなきゃいけないんだよ。たとえそれが途中で切れていたとしてもね」
「それは別にお前一人なら、我も文句も言わずに、お前の無駄な話も聞かずに済んだまま向かえる。ただお前はその子を連れて過酷な旅を続けるようだ――」
「わ、私は……!」
アンジェリーナの言葉に対して食い気味に反発するクロルを抑えて、ゼノが返す。
「アンジュ。君が僕をどう評価しても構わないが、クロルはそんな生半可な気持ちで着いてきているわけじゃないよ。危険も承知で、傷つくことも恐れず立ち向かう力と意思を持っている……もちろん、そうならないようにクロルを守るのが、僕の役目なんだけどね」
あの時は、クロルに助けられてしまったが……二度とあんな目には合わせたくない。最も、彼女が恐怖に心を魅入られてしまわなければ、どうにか出来る力は持っているはずだ。
少なくとも泣きべそをかきながらも、フラムに対抗出来ていたというのはそういう事だ。
「それにね、アンジュ」
「うるさいな、ブロッサムさんと呼べ」
「君ほど強い奴がクロルの心配をしてくれるのは、僕にとっても心強いことだよ。ありがとう」
「なんだ……? 本当に死ぬのか?」
当惑したように言うアンジェリーナの表情は、ゼノからは見えない。見えたとしても竜の表情を読み取る事は彼には出来ない。だからそれを冗談めかしく言っているのか、本気で心配したのかわからないが、ゼノは前者だと受け取って返答した。
「死んだら、クロルの事を頼むよ。ブロッサムさん」
「む……」
返しづらい言葉を投げられ、アンジェリーナは言葉に詰まる。
ゼノもその様子を見て、言葉のチョイスを間違えたな、と首を傾げた。そんな事を言っていると、今度は本気で心配そうな顔のクロルがゼノへと振り返っていた。
「もしかして、まだ怪我が良くなってないんですか……?」
「ごめん、そんなつもりで言ったわけじゃないよ」
「本当ですか?」
「うん。クロルも僕の心配も嬉しいけど、自分の事も気をつけないと」
「はい……でも、今度戦うときは一緒ですよ! 私は魔術師です、あなたの援護をする事で力が発揮出来るんですから」
「ああ、そうだね。君の力があると思って戦うのなら、それほど頼もしいことはないよ」
「……ゼノさんは、みんなにそういう風に言ってないですか?」
クロルは試すように、どこか疑うように上目遣いでそう問う。
ついさっき似たような事をアンジェリーナ相手に言ったような気がするから否定するのも少し気が引ける――だが、クロルがそんな事を言い出すのも珍しいとゼノは感じた。
先日から心配を掛けすぎてしまったせいだろうか。確かに彼女は術師として優秀で、弱音も吐かずにここまで着いてきてくれている。
だが彼女はまだ十六歳の子供だということを、ゼノは今になってようやく思い出した。
今クロルが縋れる保護者はゼノだけだ。そんな想いがあるのだろう、とゼノは理解する。
「クロル。短い期間だったけど、既にいろんな人に僕は助けられてる。クモッグでも、グラン・ドレイグでも……」
「ガンズさんや、エルさんたちですね」
「うん。その前にもいろんな人が居たし、きっとこれからもそうかもしれない。逆に、気に食わず追い払おうとする人も居るかも知れない。大変な時、そんな人たちが今一緒に居れば……そんな事を、思わなかったわけでもない」
「はい……」
「だから君がここに居てくれるっていうのは、それだけで僕の心の支えになってるんだ。どんな事があっても君から離れる事はないし、君が傷つく事を考えると胸が痛くなるんだ。きっと君が居なければ、今ここに僕は……」
「ぜ、ゼノさん」
「ん?」
言葉を遮られ、思いに馳せていたゼノの視線がクロルの顔に戻る。
気がつけば彼女の顔はなんだか妙なほどに真っ赤に染まっていて、熱っぽく見えた。
「も、もう大丈夫ですので……わかりました、ごめんなさい、勘弁してください」
声は震えていて、彼女は前に向き直ってからゼノの方へ顔を向けなくなってしまった。
掴んでいる肩越しに、彼女の拍動が強くなっているのが伝わる。
「口先だけの男じゃなければいいけど」
ぼそっと呟いたアンジェリーナの声に、ゼノはむっとして反論しようとした時。
眼前に広がるいっぱいの蒼色に、ゼノは頭の中に浮かんでいた文句が全て塗りつぶされてしまっていた。
――赤茶けた大地が途切れ、目に痛いくらいの大海原が広がっている。
日差しに反射してキラキラと輝く水面に、鼻の奥がつんとするほどの磯臭さに今更気がついた。
「わあっ」
今泣いたカラスではないが――途端に笑顔でいっぱいになるクロルの横顔を見て、ゼノは思わずふっと笑みをこぼした。
アンジェリーナが居なければ、この景色を見て感動することも出来なかっただろう。
悪態をつきあう者同士だが、彼女にもいずれしっかり感謝しておかなければな……そう思いながら、ゼノはしばらくの間、広大すぎる海に見とれていた。




