深淵の四兄弟
黒よりも深い黒い闇に満ちた世界に、その男は居た。
――そこは室内だった。天井は高く光ることのないシャンデリアが幾つも連なっており、その下には気が遠くなるほどの長いテーブルが鎮座している。
その最奥に、男は座っていた。
年老いた老人のようにも、あるいはまだ若い壮年のようにも見える――ジャーク・ウィフトは、その己の二回りは大きな椅子に身体を預け、足を組んで、真正面を穏やかに見つめていた。
「よく帰った、四人とも。初めての外出は如何だったかな」
声色は低く、だが口調は穏やかだった。だというのにただ一言その声を聞いただけで、途端に身体が動かなくなる。
テーブルの正面、もはや顔の判別すらつかぬその距離をもってしても、そこに並ぶ四人は即座に回答することが出来なかった。
「……世界は、聞いていた通りに眩しく、活気がありましたわ」
やや間があってから、ディーネがそう口を開く。
隣をちらりと見るが、フラムはどこか緊張したように顔の筋肉を引きつらせていたし、あとの二人はそもそもまともに会話をするタイプではない事を思い出す。
「そうか……フラム、ディーネ。貴君らにはゼノ・ロステイトへ挨拶をするよう命じたはずだ」
「はい、その事に関してですが――」
「良い。貴君らの行動は見えている」
ディーネの額に汗が滲む。まるで素手で胃を握りつぶされたかのように腹の奥底が痛む。
初めて父親に覚えた感情も確か、今のようなもの……恐怖そのものであったのと思い出す。
「フラム。貴君には実力を測れと伝えたが、殺せとは命令していない筈だ。なぜ殺害しようとした?」
落ち着いた声に、されどフラムは驚いたように身体を小さく弾ませる。その己の反応に対して忌々しげに拳を強く握りしめ、噛み締めた奥歯を軋ませるような音を鳴らした。
「奴を生かしておく理由を見いだせなかった。オレにも敵わぬ程度の雑魚が、ここへ辿り着いた所で親父殿の贄にすらならぬと判断した」
「あわや殺されかけたのにか?」
「……それは、奴が」
「それにわたしは、貴君に判断をしろと命じていない筈だ。なぜかわかるか?」
「……いえ」
反論する事など許さない、というより、最初から聞くつもりがない。
聞いても意味がないからだ。まるでそう言われているようで、事実そう思っていても不思議ではないのはフラムとてわかっている。
だが――。
「わたしは、わたしの手足となるように貴君らを創った。手足が己の意思に反して動いてしまうのは、不自由だと思わないか?」
これだ、とフラムは思った。
己はこの男に作られた。それは紛れもない事実だ。だが、己は息子として――ましてや人として扱われたことなど、一度もない。
ゼノと剣を交えて、それが確信に変わった。彼との戦いはあらゆる感情を沸かさせてくれた。己が生きているという実感を教えてくれた。
奴は気に食わない。今からでも殺してやりたいと思う。
だがそれとは別に、戦うことによって己の存在意義というものを覚えたような気がしたのだ。
だから漏らしてしまう。
「オレは……人ではないのか?」
「フラム!」
慌てて言葉を制したディーネよりも、さらにフラムは声を張り上げる。もはや緊張や恐怖など吹き飛んで、湧き上がった興奮と怒りが、本能のままに叫ばせていた。
「オレは親父殿の為に働いてきたし、これからもそうするつもりだった。だがその後はどうなる? この世界を深淵に落とし込み、その後の事などオレに興味はない! オレはあんたに生み出された子供だが、都合のいい駒でも化物でもない!」
「――くくっ」
必死の訴えに、ジャーク・ウィフトは小さく笑いを漏らした。
その声に肝が冷える。同時に、理解が出来ない――その異様な、まったく別の生き物の反応を見ているかのような、奇妙な感覚に襲われる。
「な、なにが……可笑しい」
フラムの声が震えるのを感じながら、ディーネは理解する。
ジャークは怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。諦観にも似たそれは、まるで料理の味付けを失敗してしまった……その程度のひどく軽微な暗然とした感情だった。
「フラム。貴君は面白い事を言うようになったな。この数百年、ずっと温めていたのかな?」
「親父殿、オレは真面目に――」
「いや、わかっている。貴君は人に憧れてしまっていたのか、仕方のない事だ。だが」
言葉を遮り、一つ息を吐く。
闇の中で、より深い闇はそのジャークの双眸だった。それに睨まれれば、途端に深淵に魅入られ息すらも詰まる。指先さえ自由を奪われたような感覚になる。
「貴君らはただの駒だよ」
冷たい言葉、というわけではなかった。ただ強いて言えば、彼の言葉は最初から一切の熱を持たない。
彼はその場に居る四人に興味がない。その故を知ればその通りだと理解出来るが、だからといって納得できるものではない。ゆえに、フラムのような不穏因子が必ず出てきてしまう。
「ゼノ王子は非常に貴重な存在だ。生かさず、殺さず、ここまで辿り着いて貰わねば困る。このまま彼が死ぬ事になれば、ロイド・エッジは間違いなくここへ辿り着く。恐らくこのままのわたしでは、あのような不埒な存在にさえ抵抗出来ぬまま殺されるだろう。だからロイド・エッジは殺してもいいが、ゼノ王子には生きていて貰いたいのだよ」
「……」
「千年前――わたしの力では深淵を導くことが限界だった。白銀竜が茶々を入れ、疲弊した。その最中になぜ、貴重な深淵を貴君らに分け与え、生み出したかわかるかね? 貴君らは私の手足であり、私自身でもある。だがそれ以前に、溜め池なのだよ……ゼノ王子以下、だがね」
くくく、とジャークはまた不敵に笑う。
「貴様ァ――ッ!」
フラムは総身を赤く赤熱させ、爆発的な熱量を放つ。
まったく同じタイミングで、ゆっくりとジャークが手を持ち上げ、指先を彼に照準するのをディーネは理解した。
「死にたいのならば、早く言って貰わねば困るよ。フラム」
――指先から青白い輝きが迸る。それを認識した瞬間には既に、一直線に閃光が空間を貫いていた。
遥か後方で扉が破壊され、けたたましい音を響かせる。爆発音と衝撃波が同時に背中を蹴り飛ばして、眩い炎がもうもうと巻き上がる。
だがそうした時には既に、フラムの姿はその空間から消え去っていた。
「……っ」
間に合った、とディーネは理解する。ジャークが攻撃を仕掛ける瞬間に転移術を展開し、攻撃と同時にそれを発動させた。恐らくそれより早ければ知覚され、遅ければ間に合わなかった。
行き先もまともに捉えずフラムを適当に世界に放り投げてしまったが――死ぬよりはよっぽどいい。
気がつけば全身が汗で濡れている事に気づいて、ディーネは大きく深呼吸をしながら手の甲で額を拭った。
「今一度、彼にチャンスを。この不始末は全てわたくしが取りますわ」
「ふむ。ならば良い……もういいから、貴君らは下がり給え」
「はい」
もはや興味が無いどころか、先の件で不愉快にさえなったのだろう。ジャークは頬杖をついてそう告げると、ゆっくりと目を瞑った。
ディーネは隣の二人に目配せをしながら転移術を施行する。
彼女はその空間から脱する瞬間、奇妙な安堵を覚えた事に、今更ながら初めて気がづいた。




