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城郭都市グラン・ドレイグ ⑦ 悪夢、そして

 自分は夢を見ている。

 ゼノは現状を正確に認識し、理解していた。

 辺りは闇に包まれている。ひどく息苦しく、肌寒い。だというのに額に滲む汗は、頬を伝い顎先から流れ落ちている。

 右腕に激痛が走っている。否、右腕が"あった"場所が痛みを訴えている。腕は肘から先を喪失していて、心臓が激しく鼓動する度に鮮血が勢いをつけて吹き出していた。

 左手に握る剣は半ばで折れていて、普段とは異なった重さを伝えている。

 いつからそうなのか、もう覚えていない。ずっと前からだったかもしれないし、ついさっきだったかもしれない。時間の感覚がひどく曖昧だったが、ともかく長い時間ここに居ることだけは実感できていた。

 ――目の前には竜が居た。

 漆黒の竜だ。闇の中にその輪郭を溶かす怪物は、見上げるほどにその巨体を有していた。天を衝くほどの巨躯はひどく威圧的で、まともな思考の一切を消し去る衝撃を有している。

 大きな口元から赤い炎が踊るように揺らめいている。鋭い牙は、己の頭ほどに大きい。その紅い眼光は、己より遥かに小さい筈のゼノを一切の油断なく睨みつけていた。

「はぁ……はぁ……」

 これは夢だ。ただの悪夢だ。

 こんなに全身が痛いのに、疲れ果てているのに、夢であるのは確かなんだ。

 だが目覚める契機がわからない。可能性として考えられるものは、この夢で死ぬことだ。

 しかし仮に、死んだ所で夢が終わらなければ?

 夢を自覚したまま意識を失えず、ただ身体が動かぬまま自我だけを保ち続ける――そんな死の疑似体験が無限に続くのだとしたら?

「死にたく、ない」

 死ねない。死ぬわけにはいかない。

 違う。死にたくなどない。

 今まで何度も命を粗末にしたことはあったし、死にそうになったこともあった。それを実感した事さえある。だがその境地で、こんな感情が湧くのは彼自身初めてだった。

 死んだらどうなる? 何の目的も果たせぬまま死ぬのか? もう二度と、誰にも会えなくなるのか?

 寂しい、怖い――夢だからか、心臓が痛まない。だからこそ、弱音が漏れる。

「いやだ、死にたくない……ッ!」

 叫ぼうとしたのに、上手く声が出ない。喉がつかえたように、掠れて上ずった声が情けなく響き渡った。

 その瞬間に、竜の大きな前足が、まるで天井が落ちてくるかのような威圧感と圧迫感をもたらしながら頭上より迫ってきた。

 ゼノは即座に走り抜けてその場から逃げ出す。足の下を抜けた先には、眩い輝きが待っていた。

 赤を通り越して白く輝く灼熱の業火だ。

 必死に足を踏ん張って踏みとどまろうとするが、竜が強烈に地面を叩いた衝撃と爆風が、容易くゼノをその炎の海へと突き飛ばした。

 竜から吐き出された灼炎が、一切の猶予もなくゼノを焼き尽くす。肉体を焼き焦がし、息を吸い込んだ先から喉を焼いて肺を消し炭に変える。

 熱い、痛い、熱い、熱い。

 夢なら覚めろ。

 夢であるならこの幻覚を無に還せ。

 だがその思いも虚しく、ひどく現実味ある痛みと灼熱が、全ての感情を支配していく。

「……!」

 死にたくない。何度も呟いた言葉は、もはや声に成ることすらない。

 意識が途切れそうになる。全身を包み込む爆発的な熱量が、常軌を逸した激痛が、己に現実的な死をもたらしていく。

 闇よりも深い漆黒が、視界を埋め尽くしていく。炎の色が鈍く変わっていく。思考が滞り、もはや何も感じなくなってきた。

 死にたくない――何度目かになるそれを強く意識した瞬間、いつの間にか剣を手放した左手が、不意に何かに掴まれた感覚を覚えた。

 腕が引かれる。何かに引っ張り上げられ、瞬く間に宙空へ……そして巨大な竜の頭上を軽く超えていく。

『こっちですよ』

 声が、頭の中に響いてきた。

 正確には染み込んできたような感覚だった。ずっと前から聞こえてきた声がようやく認識できたような、奇妙な手触りだった。

 ゼノはそこでやっと空を、己を掴むそれを見る。

 それは小さな白いシルエットだった。子供のような、幼い少女のような。暖かくて、優しくて、柔らかい、そんな印象が強く胸に残る。

『死にたくないのに、どうして立ち向かうんです? 逃げて、助けを求めて、縋ればいいじゃないですか』

 焼かれた喉は、声を出せない。それを理解して小さく首を振るゼノを見て、ソレは少し残念そうに笑った、ような気がした。

『じゃあ、死なせません。頼って、逃げてくれないのなら、私が――』

 手を引く力が急速に失われていく。同時に先程まで広がっていた深い闇に、小さな穴が開いていた。点ほどの光が、加速度的に大きく、眩く輝き始めていく。

 やがてそれが完全にその身を包んだ瞬間、ゼノの意識がその中に溶けていくように薄れていき、やがて消えた。


   ❖    ❖    ❖


 沈み込んでいた意識が急速に浮上する。途端にずっしりとした重さが全身を満たしていく。

 夢ではなく、実体のある肉体がある証明でもするような感覚だった。

 ゼノは重い瞼をゆっくりとあける。あまりの重さにしばらく時間がかかったが、その瞳はようやく本物の光を捉えることが出来た。

「ゼノ……さん……?」

 すぐ近くで声がした。ふと隣に首を向けると、少女が同じ目線の高さでゼノを見つめていた。

 そこでようやく、ゼノはその左手が布団の中で少女の手と繋がれている事を認識する。

「クロル……」

 ああ、そうか。

 彼女が起こしてくれたのか。彼女があの悪夢の中で手を差し伸べ、救い上げてくれたのか。

「君が……」

 言葉にしようとして、そう口を開いた瞬間に、無数の感情と思考が一挙に頭の中で騒ぎ始める。

 ――フラムに為す術無くやられた悔しさ。それにクロルが立ち向かっていた焦燥感。泣きべそをかきながら治癒の術をかけてくれていたエルファへの感謝。それらを含めた数多の想いが、言葉を詰まらせる。

 ゼノはゆっくりと上肢を起こしながら考える。そこでまた、己がひどく喉が乾いていることに気づく。瑣末事だ、と切り捨て、全身を針で刺されているかのような痛みさえも掃き捨てる。

 じっとクロルを見据えたまま、彼女が未だ握ったままの手を布団から出して見せ、そうしてからようやくゼノは微笑みを見せた。

「君が手を繋いでいてくれたから、迷子にならずに帰ってこれたみたいだ。ありがとう、クロル」

 クロルはそうした彼の言葉を待ってから、じわり、と瞳に涙を浮かべる。困ったように眉根をしかめるのは、歪んでしまう表情を抑える為なのだろう。下がりそうな口角を無理やり引き上げて、瞳から涙を流しながらクロルも笑みを作った。

「……あなたが、ぜ、ゼノさん、が、ぶ、無事で、う、う、嬉しい、です……っ」

 だがそれも長い時間はもたなかった。涙は止まること無く次々に溢れ出しては流れ落ち、押し殺した嗚咽も止まらない。

「ごめんクロル、心配かけたみたいだ……、ん」

 その場に座り込んでしまったクロルに対してゼノは困ったように頭を掻いていると、不意に、肩を叩かれた。

 振り返った先には赤髪の女――エルファが、また同じように泣き出しそうな顔で立っていた。

 気がつけばその奥にはマッシュが立ち尽くしているし、また壁際のテーブルには見覚えのある青年が頬杖をついてこちらを見ていた。

「どうしたんだい、君まで」

 嘆息しながら笑って見せるが、彼女の顔はまだ晴れない。

 ややあってから崩れ落ちるように膝立ちになると、ようやくエルファは口を開いた。

「あたっ、あたしのっ、あたしのせいで」

「大丈夫、落ち着いて話してごらん?」

「あたしが、動かなきゃいけなかったのに……驚いて、怖くて、クロルが行っちゃって――あたしが、傷を治そうと術を使ってたのに、全然、治るどころか、押し返されて……あたしのせいでっ、ゼノが死んじゃったらってずっと思ってて……」

「……君も案外バカなんだなぁ……、勝手に自分を責めてたら世話ないじゃないか」

 ううっ、と喘ぐように声を漏らして、エルファはゼノの膝下に顔を埋める。じわり、と涙のぬるい暖かさを布団を通して感じる。

 ゼノは彼女の頭を優しく撫でてやりながらなだめ、そうしてからようやくその奥にいる二人に視線を向けた。

「マッシュに――ロウ。君らにも世話をかけたようだ」

「いや、わたしは君に対して何も出来ていない……ああ、いや」

 マッシュは少し言い淀んでから、歩み寄る。エルファの隣に立つと、彼女を微笑むように眺めながら言った。

「君の剣が折れていてね。わたしの知人に鍛冶職人が居て、彼に修理を頼んでいるんだ」

「そんな事まで……ありがたい、助かるよ」

「だが元通りにはならないようでね。一本を芯に、折れたものを肉付けするような形で修復してくれるらしい」

「いや、十分だよ。ありがとうマッシュ」

「ふふっ、君のためならお安い御用さ」

 指で鼻の下をこする真似をしてみせ茶化すマッシュ。その後ろに、少しだけ彼より背の高いロウがやってくる。

 マッシュはそれに気づいて場所を譲ると、無言のままゼノの前までやってきた。

「久しぶりだな、兄貴」

「ああ……少し背が伸びたんじゃないか?」

「はっ! おべっかなんて使って……良いご身分だな――と言いたい所だが、ま、そこまでおれは野暮じゃないさ」

 言って、ロウはゼノの両脇で泣き崩れる二人の女性に視線をやる。こんな状況で、いくら兄とは言え悪態をつけるほど肝が座っているわけでも、空気が読めないわけでもない。

「あんたは死ぬほどの大怪我を負っていたそうだ。詳しい話は彼女がするだろうが――」

 言いながら、顎をしゃくってクロルを示す。ゼノは頷いて、先を促した。

「あんたは見たんだろう、ディーネという具合の悪そうな肌色の女を。そいつがあんたの傷を癒やし、血を飲ませた。あんたの傷は一見完治して、五日経ってようやく目が覚めたってわけだ」

 ここはあんたが最初に来たって言う修道院で、そこで今まで世話になっていた。簡単に事のあらましをロウは説明してくれる。

 それに対してゼノは少し驚いたように目を見開いていた。

「……五日?」

「ああ、兄貴は五日間眠りこけていた。揺すっても引っ叩いても起きなかったし、だからって小便を漏らすわけでも、腹の虫を鳴らすわけでもなかった。心配になってその子は半べそかきながら、一日中あんたに引っ付いて、年寄りの死に目を見るみたいに手を握ってやってたようだ」

「そうか……」

 またクロルを見る。手はまだ握ったままだった。それを強く握り返してやると、嗚咽を漏らしながらもぎゅっと反応が返ってくる。

「お前も随分と詳しいじゃないか?」

「……」

 暗に、お前もそうしてくれていたんじゃないか? と悪戯っぽくにやついて言葉を投げると、バツが悪そうにロウは顔をしかめた。

 彼はもう何も言うことはないとばかりに先程座っていた席へと踵を返す。

 ――良いご身分だ。ロウはそう言った。

 否定できない。自分は勿体無いくらいに良い身分だ。王子だからだとか、そういった話じゃない。

 良い人たちに恵まれた。自分が傷つき昏睡している間、涙を流すほど心配してくれる人達がいる。

 生きていて良かったと、心底思う。嬉しすぎて堪らずもらい泣きしそうになる。

 鼻の奥がつんと染みるように痛んだ。

「みんな、ありがとう」

 二人の女性が泣き止んだのは、ゼノがそう言ってからしばらくしてからの事だった。

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