旅路 ③ 行商人と奇妙な連れ合い
翌日、空が明るみ始めた頃には既に、二人は動き始めていた。
少し寝ぼけたような様子で、少し跳ねた寝癖を手ぐしで直しながらクロルはゼノの隣を歩く。
ゼノはにわかに漏れたあくびを噛み殺しながら、目の端に浮かんだ涙を指先で拭った。
――ルル・ロステイトに呪いがかけられて早一ヶ月。猶予がどれほどあるかはわからない。現状の彼女の容態が気になる。
まださほど様子が変わらないのならまだしも、徐々にその症状が重篤になっていくものならば時間は限りなく少ないだろう。
だが敢えてその場でルルを殺害しなかった理由――もしそれが本当にゼノの考えた通りならば、その呪いがやがて死に至るものだとしても、そう早くはない筈だ。
深淵の始祖はゼノの行動を制限したい。あるいはゼノとロイドを各個撃破したいのならば、今こうして呑気に町を出て歩いている暇もなく刺客が襲ってきているはずだ。
だからおそらく、短くともあと一ヶ月の猶予はあると見ていい。限界ギリギリまで切り詰めて、その最北の土地に居るとされている白銀竜の元へ辿り着けると思われる期間がそれだ。
しかしあまり無理はしたくない。それは何よりクロルの為だ。
ゼノ自身魔術についてその知識はないが、理解は深い。国にも何人か魔術師の知り合いは居るし、共に旅を続けていたロイドとて未熟ながらもそれを戦闘に活用しているからだ。
魔術師は術の行使に深い集中が必要だし、それによって強い疲労を伴うのだ。精神面に直接影響するため、適度な休息と疲労回復は必須だろう。
クロルにはいざという時に手を貸して貰う事が多くなると思う。
ただそれ以前に、少しずつでも実戦を交えた訓練が必要になると思うのだが、それについてはどうしようか――ゼノが少し表情を引き締めた時、その碧眼は道の中央で停止している黒い影を見咎めていた。
「……っ!」
影は馬車だった。そこまではいい。
だがそこから少し離れた所で、一人に複数の小さな影が群がっている。
隣を見れば、かなり離れた所に大きな森がある。その小さい影は恐らくゴブリンだ。
ゴブリンは小さく力はさほど強くはないが、人を単体で殺害する力は十分にあるし、加えて彼らは尋常でない数の集団を形成して生活している。
さらには、なによりひどく純粋な悪意に満ちている。人を殺し、食い、犯し、弄ぶ。
深淵により魔物が生まれたと言われているが、奴らはそれより遥か古来より伝わる妖魔の類だ。故に、ただの旅人が一人で対処することはひどく困難を極める。
出来ることならば馬車で逃げたほうが良かっただろうに――。
「クロル、ゴブリンだ。助けよう」
言いながらゼノはクロルの肩に手を回すと、そのまま太ももの裏に手を伸ばし、足を掬うように身体を持ち上げてみせた。
「きゃっ!? な、どういうことですかっ!?」
「少し本気で走るよ。クロル、ゴブリンの姿が見えたら何か術で蹴散らせないかな」
所詮は数の暴力だ。弱点を知り、的確に対処することさえ出来ればそう難しい相手ではない。
ただ問題があるとすれば、その対処が難しい……それだけの事なのだが。
「ど、どれくらいの――ああっ、了解です! やってみます!」
横抱きに抱えられたクロルは、風のような速さで走るゼノによってすぐさま、その先にいる影を認める。
まったくもって唐突な無理難題を吹っかけてくるものだ、と思いながらも、その状況をすぐに受け入れる。
――魔術師は弓兵より遠くから、騎馬兵より早く、剣闘士より重い一撃を繰り出せる。クロルが耳にタコが出来るほど言われてきた教えだ。
術師はその力故に誰よりも聡くあり、誰よりも冷静に、広く状況を見て対応することを求められる。
「人を生かし、人を殺した滾る力を」
腰のベルトに差した杖を抜き、クロルはその進行方向を指して円を描く。その内に紋様を描きながら、唱え始めた。
「限りなく白く、熱く、疾く。その炎を宿した礫を――」
杖が描く紋様が、光の残像を宿して形をその空間に残し始めた。やがてそれが完全な形を作り、クロルがその中心に杖を突き立て、叫ぶ。
「フレイム・ストーン!」
声に呼応するように、陣が輝き始める。その輝きが最高潮に達した瞬間、強い衝撃がクロルとゼノを襲った。
「くっ……!」
まるで前方から爆発の衝撃波が吹き抜けたかのような感覚。軽やかに疾走していたゼノの速度が鈍く落ちる。
それとは対照的に、陣から撃ち放たれたのは十からなる拳大の、炎を伴った岩石。それらはゼノが走るよりずっと速く――先日の狼男の爪撃を想起させる速度で、既に眼前へと迫るゴブリンたちへと襲いかかっていた。
岩石の一つがゴブリンに直撃する。間もなくそれは表面を焼き、砕き、内容物さえも焦がしながらその肉体ごと地面に叩きつける。
刹那、衝撃と音が、辺りからその他の全てを掻き消した。
また当たらなかった岩石は大地に着弾すると同時に、凄まじい衝撃によって爆発的な勢いで炎を巻き周囲のゴブリンを飲み込んでいく。大地はまるで投石機による攻撃を受けたかのように深く抉れ、またその衝撃故に地面は激しく胎動するかのように揺れ、ゼノも堪らずその場で立ち止まっていた。
攻撃は一瞬だった。
少なく見積もっても十五、十六体はゴブリンが居た筈である。だが今や、大地を削り、その表面で踊る炎が一帯に広がっている光景だけが広がっていた。
初手の岩石で察し、寸での所で男は回避していた。
たまらず尻もちをついてしまった男はその非現実的な景色を眺めながら、短く息を吐く。
「ご無事……のようですね。良かった」
これが現実だと受け入れた時、不意に頭の上の方から声がかかった。
「あ、ああ」
言いながら立ち上がる。緑がかった艶やかな黒髪を軽く払い整えながら、振り返る。
視線の先には、自分より頭一つ分ほど背の高い男が立っていた。
――よかった、過程はどうあれ間に合ったようだ。
ゼノは胸を撫で下ろす。
「あれは、君が?」
短く整えた髪を七三に分け直した若い男は、少し緊張した面持ちで問う。
ゼノは柔和な笑みを浮かべて、隣に視線をやった。
男はそれに促されるように視線を追うと、そこにやっとクロルが申し訳無さそうな顔をして、ゼノの袖を握りながら立っている事に気がついた。
「もっ、申し訳ありませんでした! つ、つい張り切って、手加減無しで術を放ってしまって……」
「ああ、いや……魔術師という奴か。短時間で二度死ぬ思いをしたが、わたしはこうして生き残った。君のお陰だと言うのなら感謝が尽きないよ。ありがとう」
「いえいえ、とんでもないです。術師は人の為にあれ、とは私のお師匠の教えですし」
ペコペコと何度も頭を下げるクロルを見ながら、男は微笑んで衣類についた土埃を叩いて落とす。
茶色で揃えた上下の衣類はどことなくシックな装いであり、上品だった。男は落としていた剣を拾って腰の鞘に収めると、二人に対して両手を差し出した。
「改めて礼を言わせて頂きたい……わたしはマッシュ・タッカー、しがない行商をしている。もう一人連れが居るのだが……どうやらあの騒ぎでも起きていないようだな。困ったものだ」
マッシュはちらり、と道に停めてある馬車を一瞥して、困ったように笑う。
二人はそれぞれ、握手に応じながら自己紹介をした。
「僕はゼノ・ロステイト。訳あって今はグラン・ドレイグへ向かっている道中でして」
「私はクロル・ルッカです。一応術師として、ゼノさんのお手伝いをする為に数日前から同行しています」
「……なるほど、ゼノにクロルか。そしてグラン・ドレイグ――ちょうどわたし達も、そこへ向かう途中なんだ。知り合いの刀匠からいい加減武器を引き取りに来いと連絡を受けてね」
だから、とマッシュは言った。
「荷台の隅で連れが眠りこけているが、そこで良ければ是非君らを目的地まで送らせてくれ」
「まさに渡りに船ですね。お言葉に甘えさせて貰います」
「ああ、気にせずくつろいでくれ。あまり広くはないし、幌もないから風が通るが、今の季節じゃそこまで気にならないだろう。さあ乗って、さっさとここから離れてしまおう」
言いながら、マッシュは馬車へと向かう。確かに彼が言うとおり、この場所からは速く移動した方がいい。
今の音や衝撃からゴブリンの追っ手が来るのも厄介だし、何より面倒なのはアラリット共和国の人間に自然破壊の事についてひどく詰問される可能性が高いことだ。
マッシュが御者台に飛び乗るようにして座るのを眺めてから、大きな箱を下半分だけ残したような簡素な荷台に登る。
車輪に足をかけて身軽に登った後、少し躊躇うように居るクロルに手を伸ばす。彼女はしっかりとその手を握って、マネをするように車輪に足を載せ、体重を掛け、飛び上がった。タイミングを見計らってゼノが腕を引くと、そのまま彼に抱きつくような形で乗車することが出来た。
「わわっ、す、すみません……」
クロルは顔を少し赤らめながら、改めてその隣に腰を降ろす。
「大丈夫だよ、馬車は初めてかい?」
「はい! 乗り物に乗る、というのがそもそも初めてで――」
なんとか御者台を背にして座り込む。それと同時に、馬が動き出したようだった。
車輪がガタガタと音を立てながら進み始める。馬車はそれに合わせて揺れてにわかに尻が痛むが、歩いて向かうよりは遥かにマシだった。
荷台の上には、彼がこれから荷物を受取に行くといったように、特にこれといった荷物はなかった。
あるのは食料らしきものが詰め込まれた袋がいくつかと、水が入った革袋、それに畳まれた布類と――彼らの対面にある、布に包まった何か。端から長く紅い髪がこれでもかというほどに乱れているのを見るに、マッシュが言った連れ合いなのだろう。
髪の合間から見える耳は、その先を長く尖らせているようだった。もしエルフだとするならば耳は良いはずだが、あれほどの事があったというのにそれでも眠っているとは、随分と豪気というか、図太い性格なのだろう。
ふと隣に目を向けてみると、荷台の外を眺めて目を輝かしているクロルの姿があった。
座っているのに進んでいる。先程の現場からゆっくりと速度を上げながら離れていっている。風が吹き抜け、先程の疲労も相まって心地よく感じる……その全てに、感動しているようだった。
ゼノはその横顔を微笑みを浮かべて眺めながら、未だに背負ったままだった対の剣と、荷物とを肩からおろして脇に置く。
ようやく一息。とは言え、幸運だった、とゼノは思う。
歩いてグラン・ドレイグに進むより倍は速く到着するだろう。それに加え、この一帯がゴブリンの生息地体だとするならば、おちおち休息すらとれない旅路になるところだった。
そんな事を考えていると、
「ぅん……」
荷台の端で布に包まれていた女が小さな声を漏らした。長く尖る耳が、ピクリと跳ねた。
「ふわぁ……良く寝たぁ」
言いながら大きく伸びをしながら上肢を起こす。身体を包んでいた布がはらりとはだけると、同時にその艶めかしい肢体が生まれたままの姿で露出される。
瞬間、ゼノの視界が一瞬にして暗くなった。
「見ちゃだめ!」
疾風迅雷の如くとでも言おうか。横から飛びかかってきたクロルはその身体をゼノに勢い良く叩きつけながら、両手でその目を塞いだのだ。
女性の裸体を見せぬ為に、その柔らかな身体を押し付けてくるのは結局本末転倒のような気がするが――ゼノは少し緊張したように短く息を吐いてから、いつもの調子で口を開いた。
「大丈夫、大丈夫だよクロル。わかってる。後ろを向くから」
言いながら、ゼノは手を床について片膝を立てるようにしてくるりと半回転してみせる。クロルはそれに連れられるように軽く振り回されたが、ともかく一安心だ、というようにクロルは短く息を吐いた。
「――あら、お客さん? どうも、失敬失敬、ははは」
気の抜けたような声で女性が笑う。
笑いながら、手近な所に投げ捨ててあった衣類を着用する。
たわわな胸は薄い白のビスチェで覆い隠されているが、そのボリューム感の主張はかえって甚だしくなる。そうしてから黒い下着を履き、木綿地の厚い、ひどく短い……というよりは丈がほとんど存在しないズボンを履いた。
さらに腿までの長い編み上げの長靴を履き、上肢には袖付きの黄土色の外衣を羽織った。
その全てが大人っぽく、色っぽい。クロルは思わず見とれていた。
こんな女性に比べれば、自分など赤子に毛が生えた程度の存在だ。子供だとか、大人だとか言う以前に次元が違う。その段階に至れていない。
「ふふ、どうしたの?」
凛然とした声は風が吹き抜ける馬車の上でも良く通る。はっとしたクロルは、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
女はその燃えるような赤髪を掻き上げて、宝石のような琥珀の瞳でクロルを見る。
「随分と可愛い子が居たものね。アレはあんたの男? チラっとしか見えなかったけど、いい男じゃない」
「おっ……そ、そんなんじゃ、ないです! ねえ、ゼノさん?」
混乱する頭で振り返ると、ゼノは荷台により掛かるようにして御者台で馬を操る男と話に華を咲かせていたようだった。つまりまったくこちらの話は耳に入っていないのだ。
もう! とクロルは少し怒る。怒るが、ここから追いやったのが自分であることを思い出した。仕方のない事だ、と思い直す。
「あ、あの……私はクロルです。クロル・ルッカ。先程マッシュさんがゴブリンに襲われていた所を助けて、そのお礼として乗せていただいてまして」
「へえ……あいつ、あたしを叩き起こせばいいのに」
簡単に話を聞いて、彼女は微笑みを浮かべたまま小さく頷く。
そうして彼女はまた、手を差し出した。
「あたしはエルファ・ダース。みんなはよくエルって呼ぶわ。マッシュとは腐れ縁でね、ほとんど用心棒代わりに同行してるわけ。よろしくね」
「はい! エルさん、ですね。こちらこそよろしくお願いします!」
溢れんばかりの笑顔で、クロルは両手で強く握手を返した。
リリィ・ブランカとキャロルの他には、同性とこうして話すのもひどく久しぶりな気がする。クロルはそれが嬉しくて、楽しそうに握った手を何度も振った。




