第95話 わたしはへいきにんげんじゃないもの
「明日、ちょっと放課後付き合って」
翌週の月曜日、約束通りに都合をつけて昼食を共にしていると、メーティスはまたそんな約束を取り付けてきた。今ここでこうして仲良くやっているのだから、放課後に一緒にいても大して影響は無いだろうため引き受けていいのだが、実際に何をする予定かが分からなければ返答のしようがない。
「何かするのか?」
「うん、えっとね…今日カトリーヌ先生の案内で召喚師に関する資料を読ませてもらったんだ。これがクリスティーネ様の邸宅の倉庫にあったような勇者に関する資料と同系統の扱いを受けてて…、アカデミーの教員や勇者の血族、特別な事情を持った召喚師しか閲覧出来ない極秘資料なんだよ。だから当然、光の神とかの事情と絡めて書いてあるんだけど――」
「待った、ちょっと待った!」
俺が左手を目前に突き付けて制するとメーティスはきょとんと目を丸くして首を傾げる。…こういう学問知識を披露する時に変に饒舌になってしまうのがメーティスの悪癖だ。今いる場所が生徒達も利用している正午の食堂だというのを考慮して欲しい。
「長くなるのもアレだから、パパッと何やるかだけ教えてくれ」
「もう、ちゃんと説明してたのに…。…要するにね、最初の契約に使う魔石を実際に触れて調べたいの」
「なるほど、了解」
最初からそれだけ言ってくれれば良かったのだ。それ以上のことはその時に訊けばいいし、その方が分かり易いのだから。
メーティスは「もうっ…」と不貞腐れて尖らせた口へと料理をパクパクと放り込んでいく。「だけど…」と俺が口を開くと、彼女は少し不機嫌ながらも律儀に手を止めて顔を上げて聞いた。
「どうしてそんな急に資料を読み出したんだ?カトリーヌ先生の仕事も手伝ってるとはいえ、担当上司はユーリ先生だろ?ユーリ先生とやってる仕事にその資料が必要だったのか?」
「…ううん、自分から頼んだの。だって、何もしてないと頭の中ぐるぐる回っちゃうから…。今は召喚師としての技量を上げておこうって思ったの」
メーティスは怒りも何処かへ消えていったように憂いた笑みを浮かべた。…クリスを救う日に備えて、ということだろう。確かに、それまで何もしないというのも気分が落ち着かない。俺も何か始めておこうかと考えていると、フッとメーティスが似合わない自嘲をしていた。
「…学生の時、もっと真剣に色々やってれば、こうじゃなかったのかな…」
「……資料、教員になれたから閲覧を許されたんだろ?学生の内は召喚師として学べることに限りがあったし、仕方なかったと思うぜ。後悔はし尽くしただろ?今やれることを見つけたんだから、そっちに専念するといいさ」
「…うん、ごめんなさい」
「いや…」
メーティスはペコリと深々頭を下げ、弱音を吐いたことを謝る。いつもの空元気で表情には笑顔を湛えているが、寂しげな雰囲気が拭えていなかった。
俺は彼女に笑い掛け、彼女が顔を上げるのを待った。そして不思議そうにする彼女の前で頬杖を突き、軽い感じに顔を近付けてみせた。
「そーゆー弱みは2人きりの時に見せてくれよ。そしたら俺も人目を気にせず全力で励ませるからさ」
メーティスはそれにフフッと口元を隠して笑い、俺も安心して笑いながら姿勢を正す。これで一件落着かと思いきや、椅子に背凭れて彼女から注意が逸れると同時に、知らぬ間に近くにいた気配を察知して振り向いた。…メーティスの相手に夢中で気付けなかったとは本当に不覚だ。そこに立っていた憎たらしい程の楽しそうなニヤケ面の彼女を前に、俺は自身のだらしなさに呆れた。
「いやぁ~、聞いちゃいましたよぉ今の!何ですか何ですかっ、先生達付き合ってるんですかっ!?」
そうしてはしゃいで俺の肩から身を乗り出し、俺とメーティスの顔をキョロキョロと見比べるイノギアに、例の付き添い2人は後方で溜め息をつく。しかしその2人も真偽が気にならない訳でも無いらしく、アロガンはメーティスを、ラストは俺を、無関係を装ったままじーっと観察していた。
「ねーねー先生っ、付き合ってないんですかぁ?流石にさっきの距離感はただの仕事仲間じゃないですよね!何ですか~何ですか~?」
久しぶりに『うっわ、うぜぇ…』の一言が飛び出しそうになるのを必死に抑える。とはいえ俺の顔にははっきりとそう書いてあるかもしれないが…。
「…メーティス先生も迷惑なさるから、あんま騒ぐな」
「とか言ってぇ~。…あっ、やっぱりあれですか?学生時代からの関係だったりします?一緒に就任したんですし、タメ口利けるってことは同期ですよね?…っていうか、もしそうならクリスティーネ関連の仲だったりするんじゃないですか?ほら、卒業して1年しか経ってないのに教員になるなんて規則破りが2人も罷り通るなんて、絶対クリスティーネの件でアカデミーが何か陰謀企てたに決まってますもん」
…本当に無駄なとこに頭を使うな、この子。心底鬱陶しく、メーティスも何か言わないのかと見ると、彼女はシラッと真顔になって眼を伏せたまま食事を続けていた。無関係を装うというより、この空間を拒絶するような冷たさを感じる。…メーティスのこういう態度は見たことが無いので新鮮にも思ったが、何だか怒っているようにも見えるし急いでイノギアを追い払った方が良さそうだった。
「…迷惑だから、さっさと引き上げてくれ。俺達この後また会議があるんだよ」
「えー、またそれですか…。こんな遅い時間に食べててそれは流石に説得力無いですよ?…でもま、分かりましたよ。折角のお2人の時間に水差しちゃいけませんもんね」
我ながら無理があった言い訳だったが、イノギアはニヤニヤ笑って手を振り、「次は絶対私に付き合ってくださいよー!」とスタスタその場を後にした。後続の2人は歩き出すと、俺の傍を通り掛かる際に「お邪魔してすいませんでした」とそれぞれ頭を下げて行った。
彼女らが食堂を出ていくまで見届けて、安堵と共に溜め息をついていると「あの子達、誰?」とメーティスが無表情で訊ねてきた。その声は普段の調子と比べると何処か冷たく感じ、聞いていて此方も冷や汗が出そうな心地だった。
「Bクラスの生徒だよ。先週末から話し掛けられるようになってな。大会のこととか、俺の学生時代の話を色々聞きたいんだそうだ」
「ふーん…」
メーティスはまた手を早めて食事を進める。俺もおずおず食事に戻るが、変に緊張して一口が小さくなる。メーティスは先に食べ終えてしまい、水を飲んで口腔を濯ぐと眼を逸らして口を開いた。
「…私も教室の男の子達に懐かれてるよ、割と」
「へ、へぇ…。それで、どうしてるんだ?」
「別にどうも?彼氏がいるって言ってあるし。誰か訊かれたら無視するようにしてるけど」
またメーティスは水を一口。俺も会話が途切れると場を繋ぐように小さな一口を繰り返す。…俺の態度に益々不機嫌を顔に出し、見るからに苛々し始めている彼女に、俺は探り探りその原因を訊ねた。
「…もしかして…妬いてるのか?…イノギアに…?」
「悪いの?」
メーティスは窘めるように素早く言い返した。…少し驚いたものの、メーティスがこんなにも正直に女の感情を見せたのは意外で黙り込んでしまった。彼女は視線を俺の顔へと戻すと、その顔を怒りから悲しみへと移ろわせた。
「…レムは?」
「え…っと、何が?」
「レムは私が男子生徒に懐かれても何ともないの?妬かないの?不安じゃないの?」
…そう言われても、特に何も思わなかった。メーティスが今更生徒に気移りするとは思わないし、俺達の関係はそう簡単に崩れるような柔なものではないと確信している。俺だって今はメーティス以外にこんな関係は求めていないから、寧ろ彼女が『不安』と口にしたのを俺の愛を信じてもらっていないと感じたくらいだった。
俺は言葉を失っていたが、メーティスはそれを眺めて「余裕なんだね」と失望したような声を漏らした。それを聞いて俺は黙っている訳にはいられなくなった。
「いやっ、違う!俺が好きなのはお前だけだ!だから他の女に気を取られる心配なんか要らないし、お前も俺と同じ気持ちでいてくれてると信じてる!だから俺もお前のことを心配しなかっただけだ!」
テーブルから身を乗り出して捲し立てると、メーティスは身を引いて目を見開き、頬を赤くした。彼女を支配した悪い感情も少しは吹き飛んだようで、彼女は戸惑ったまま口元を弛くして俯いた。
「…ご、ごめん…。…そうだよね、ごめん、疑っちゃって……あはは…」
照れている彼女の向こうでは、食事中だった生徒達や僅かな教員が俺の大声に気付いて此方を凝視していた。剰りの視線の数に俺はゆっくりと姿勢を直したが、今更取り繕っても俺達の関係が広まるのは避けられそうになかった。
翌日の放課後は俺の仕事がなかなか終わらずメーティスとの約束は延期になった。また、その翌日にはメーティスの方が仕事が立て込んでしまったので、約束は木曜日に果たすことに決まった。そのメーティスの仕事というのが相当忙しいらしく、朝からずっと暇さえあれば書類を書き連ねていた。連日共にしていた昼食もこの日は1人で摂ることとなり、窓沿いのカウンターの隅に座ってその狭隘で寂しさを紛らわした。
すっかりメーティスとのことは知れ渡ってしまい、教員室でも教室でもちょっかいを掛けられてしまう。…まぁ、こういった明るい話題を生むことで俺に掛かる疑惑が減れば儲け物だろう。俺がクリスを諦めてメーティスに乗り換えたように見られればそれが叶う。…あまり気持ちのいいものではないが、今はこれに甘んじることにした。
教員室という場で俺達の思惑が知れてしまわぬよう言葉に気を付けつつ、メーティスのように俺も何か出来ることは無いかとマイクに持ち掛けてみたが、
「お前はそんなことしてないで仕事覚えるのに専念しろ」
と止められた。…メーティスとは違い俺には上からの明確な疑惑が掛かっている。下手に動いて拍車を掛けてはならないため、俺には出来ることは何も無かった。せめてクリスを救うために有効なことがないか考えてみたりするが、与えられた情報が少なくて特に何も浮かばない。
独りで憂鬱になりながら黙々と給食を食べ進めていると、不意にカタンと隣にトレイが置かれて、その主は断りを入れるでもなく椅子に座った。いつもの元気な表情ではなく、少し思い詰めた様子のイノギアが、座ったまま座面の裏に手を伸ばしてズルズルと椅子の脚を引き摺って身を寄せてくる。…彼女は珍しく1人だった。
「…何かあったか?」
俯いた横顔を眺めて問い掛けると、彼女は微笑んで此方を見上げて「…今日は追い払わないんだ」と呟いた。膝に拳を乗せてしおらしくする彼女が、何だか途方に暮れた迷子のように見えた。
「今日は会議は無いからな。メーティス先生も忙しいらしいし」
「あ~、すっかり噂になっちゃってますもんね。言っときますけど、私は人に喋ってませんよ?」
「別に疑ってないよ。俺が自爆しただけだ」
フフフッと口元に手をやって笑った彼女は、漸く食事に手をつけ始める。俺はそれを暫し眺めてまた自分の食事に戻った。今の彼女に用事を急かすのは間違いな気がした。
すると、自然と食事の終わりは俺の方が早くなってしまう。彼女の用件のためにテンポを揃えるべきかと考えたが、皿の上の残りも剰りに少ないのでそれは不自然に思われた。俺はパッと平らげて椅子を立った。
「…先生、待って」
彼女の手は俺の服の裾を摘まんだ。指先で遠慮がちに、弱い力で。…嫌なら拒んでもいいから、強要はしないからと…そう伝えるかのような弱い指先。……俺はイノギアの手を取ってそっと裾から外し、空いた手でコップを持ち上げた。
「水、注ぎ直してくるだけだよ」
彼女が納得して頷き手を降ろすと、そんな彼女に応えるため足早に行って戻ってきた。なみなみ注いだ水嵩をガラス越しに認めると、彼女は何処か嬉しそうに、座った俺の顔を見つめた。
「それで、何を聞いて欲しいんだ?何か話があるんだろ?」
「あ…、うん。…あっ、いや、…大した話じゃないんですけど…」
イノギアはモゾモゾと居住まいを正して両手を膝に畏まり、数回言葉を呑み込んでから告げた。普段あれだけ此方の態度も構わずに突っ掛かってくる彼女には珍しく、随分と申し訳なさそうにしていた。
「…先生は、…その…、………気を悪くしないで欲しいんですけど…」
「うん」
「えっと、…先生、学生の時部屋では3人でしたか?」
「そうだな、俺とクリスティーネ様と、メーティス先生の3人だ」
イノギアは俺の返事を聞いて一瞬言葉を失ったが、深呼吸で気を落ち着けてその先へ進む。
「…あとの2人の仲に入っていけない時って、どうしてましたか?」
イノギアは、言葉尻に近付くに連れて俯き加減に声を落とした。俺は即答はせず、コップを見下ろして少し考えた。
…クリスとメーティスは同性ということもあり、当然俺が入られない話題を共有していた。しかし、それが原因で寂しく感じるような機会は2人が気を遣ってくれて殆ど訪れなかった。どちらかと言うなら、3人で過ごしていた日々の中でその悩みを抱いていたのは俺ではなかったように思う。
…クリスが1人で身と心を滅ぼしていく中、俺とメーティスが隣り合って過ごした。そんな時、クリスは孤独だったと思う。
…俺がクリスのために、クリスが俺のために、互いの事情に首を突っ込んで向かい合っている中、メーティスは蚊帳の外だった。そんな時、メーティスも孤独だったと思う。
残念ながら、俺はイノギアが問うような状況に身を置いた試しは無かった。
「…メーティス先生に聞いた方が良かったかもしれないな。悪いけど俺には何のアドバイスもしてやれなさそうだ」
そう告げたが、イノギアはアドバイスを貰いたい訳でも解決を望んでいる訳でも無いようだった。ただ、親身に聞いてくれる人の傍に居たいだけだったのだと思う。
「…それでも、聞いてもらえますか?」
「いいよ、お前がそれでいいんならさ」
イノギアは小さく頷いた。
「アロガンとラスト、付き合ってるんです。…前から付き合ってはいたんですけど、私にはバレてないと思ってたみたいで表立ったことは無くて…。それで、レムリアド先生とメーティス先生がこの前ご飯食べてたのを見たので、試しにラストに言ってみたんです。『アロガンと2人で食べたら?私はどっか行ってるから』って。…ラスト、言い出した時には遠慮したんですけど、結局アロガンと2人で食べるようになって…。それからは2人共いつでもどこでも2人で仲良くするようになっちゃって…。…何か、私、どこにも居られなくなっちゃって……」
俺が黙っていると、イノギアはバッと顔を上げて俺を見て、「…すいません」と謝った。安心させようと微笑み掛けて「何が?」と訊いてみると、イノギアは薄く笑って、
「だって、…こんなどうでもいい話で…先生も困るでしょ?」
「どうでもいい悩みなんか無いさ。それに、お前には深刻なことなんだろ?だったらちゃんと聞くよ」
俺の即答に驚いたイノギアはパクパクと口を開閉して見つめ、数秒して漸く「…あ…ありがとう…」と呟いた。俺は彼女を見守りながらコップを口に傾け、彼女は思い出したように食事に戻る。
「…まぁ、いつも一緒にいる奴から仲間外れにされたらキツいよなぁ。…1人は寂しいよなぁ…」
解決してやれない代わりに彼女の気持ちを汲めるだけ汲んで共感してみせる。見ると、イノギアは耳を赤くしてフォークを咥えたまま固まっている。どうしたのかと眺めていると、不意に彼女もチラッと此方を見る。彼女は眼が合うと急にオドオドし始め、急いで水を飲んで勝手に噎せていた。
「大丈夫か?」
声を掛けるとイノギアは顔を背けて息を整え、身体を縮こまらせてコクコクと頷く。
「…は、はいっ。大丈夫、大丈夫っ。……あ、あの…」
「うん」
「も、もう…もう、大丈夫なんで…。落ち着いたので……もう励まさないで…いいですから…」
「…はぁ、そうか…?」
コクコクと繰り返し頷き、イノギアはまた水を飲む。…よく分からないが、とりあえず俺も彼女に合わせて飲み進めた。女子生徒にとって教師がどんな存在なのか分からないので、ひょっとすると何か関わり方を間違えているかもしれない。あまり距離が近くなり過ぎるのもよろしくないだろうため、ここはもう少し気を付けるべき所だ。
「先生は…?」
ふと、イノギアが覗くようにして俺を見つめた。
「ん、何だ?」
「先生は私の歳の時、どうだった…んですか…?」
「…どう…」
こんなことを改めて訊かれたのは初めてだったので、俺は少し返答に困った。彼女の歳の頃……2年生の6月は、
「…例の大会に向けてずっと訓練に没頭してたな」
「あっ…ご、ごめんなさいっ」
彼女は『しまった』と怯えた顔になって直ぐ様頭を下げる。…やっぱり様子が変だな。一昨日までこの話題について訊きたがっていたのに、今は図らずそれに触れただけで謝ってくる。
「別にいいさ。口止めされてる訳でもないし、話してみるのもいいかもしれないからな。…そうだな…まぁ、大会までずっとその調子で1人で突っ走って、周りから人がいなくなっていったな。ずっと一緒にいたのはメーティス先生くらいだ。大会でも決闘なんて綺麗なもんじゃなく、殺すつもりで参加者を斬りつけてたから、益々人に嫌われたな。…大会以降のことは、お前が知ってる通りだよ。優勝を逃して、暴れて叫んで、現実を認められないまま俺は会場から逃げ出した。救いを求めた俺は、正そうとしたり同情したりする友達に反発して、関わりを絶って…メーティスに依存した。…そして、それでも安心しきれなくて、俺は他にも女を抱くようになった。…道を正せたのは偶然だった。1年から慕ってた先輩がいてさ、その人のお蔭で自分を見つめ直して、少しずつだけど周りとの関係をやり直していった。でも、クリスとだけは元には戻れなかった。好き同士だったけど、だからこそ無理だったんだ。彼女は自分の使命のために俺とは離れなければならなかったから…」
話しながら過去の情景が脳裏を過る。それに気を取られて2人の呼び方を取り繕うことも忘れていたが、もうそれも構わないような気がした。メーティスとの仲は知られているし、クリスはもう権威のある勇者などではない。…そう、彼女はもう俺よりもずっと立場の無い存在になってしまっていた。
「…どうして、クリス……クリスティーネさんのために、そんなに…」
イノギアの問いに俺は力無く笑った。ご尤もだ、大臣が流したデマや悪い話しか聞いていない彼女には納得出来るはずがなかった。…今の彼女なら聞いてくれる。そう思うと話さずにはいられなかった。
…初めて会った時、まずその容姿に驚いたんだ。まるで彫刻とか絵画のような、実在する人とは違う完璧な美しさだった。でも、それはやっぱり人にしては出来すぎた容姿だった。生まれ持った力だけじゃなくて、その容姿も関係したんだと思うけど…彼女は幼少期から酷い迫害を受けていたんだ。
…自分を嫌わないで欲しいって彼女は泣いた。凄く繊細で優しくて、いつも人を傷付けまいとしている女の子だった。俺とメーティスは彼女とずっと傍にいると約束したんだ。ずっと友達だって、約束したんだ。
クリスはいつも周りのために尽くしてくれた。自分のことなんか後回しにして、無理して何でも助けてくれた。彼女には彼女の苦悩があったのに、そのために壊れてしまいそうな程追い詰められていたのに、…俺やメーティスが困ったり悩んだりすると、いつも俺達の身を案じてくれた。
…クリスは、ずっと勇者の使命のために苦しんでいた。自分が世界を救わないといけないって、それが自分の生きる意味だからって、自分の心に鞭打って何もかもを正面から受け止めていたんだ。俺は彼女を救い出してやりたかった。
誰も知らないんだ、本当のクリスをさ。…あいつ、勇者なんかじゃないんだよ。ちょっと責任感が強くて、優しいだけの普通の女の子なんだ。…自分を育ててくれたお婆さんや、自分を救ってくれた最愛の彼や、…何もしてやれない俺達も…、…一緒に過ごした人々を誰一人捨てられない、強くて弱い女の子だったんだ…。
気付くと頬を涙が伝った。…何もかも懐かしい、遠い記憶だ。あの温かい日々はもう戻らない。彼女を助け出しても心に残った傷の全てを癒せない。もしかすると、もう1割すら癒せないかもしれない。…叶うことなら、俺はあの優しい日々に戻りたかった。
イノギアは俺の涙におろおろと慌てふためいた。眼があちこちに泳ぎ回り、口元では小声で「どうしようどうしよう…」と絶えず呟く。そして思い至ってポケットから勢い良くハンカチを取り出すと、「こ、こ、これ!どうぞ!」と焦って俺の顔に押し当ててきた。
呆気に取られて彼女の動かすままに涙を拭われていたが、ふと彼女の慌てように笑いが込み上げてきて、思わず彼女の頭を柔らかく撫でていた。
「大丈夫だよ、ありがとな」
「は…はい、どうも…」
ハンカチを降ろしたイノギアを見ると、ほんのり頬を赤くしていた。嫌がられないので撫で続けていると、みるみるその頬は染まっていく。それが耳まで達した辺りでチャイムが鳴り響き、俺達は昼休みが終わったことに気が付いた。




