第94話 むりしてないだいじょうぶ
すいませんが、今週は1話で精一杯です。
俺とマイクはコクピットに座り直し、横に付いたもう片方のボートではエラルドとメーティスが此方に身体を向けて会話に参加する態勢で座った。2本の釣り竿は餌を拐われたまま剥き出しの針を湖に沈めて、次の餌が掛かるまでを水面下で待ち続けている。
まず口を開いたのはメーティスだった。それまで無言でエラルドに任せていた彼女は、俺だけをじっと見て告げる。
「私、レムと一緒なら、クリスのために命張れるから。…レムもその気なら、私はどんな危険にだって付いていくから」
「…知ってるさ。…ああ、死ぬ気でクリスを助けよう。けど、だからって勝手に俺より先に死ぬなよ。お前のことは俺が守るからな」
「うん。私もレムを守る。…死ぬ時は一緒だよ」
瞳が潤む彼女に、「ああ」と大きく頷いて笑い掛ける。メーティスも息が抜けた後から微笑んでいき、彼女の手は俺の方へ伸びようと小さく浮く。それも束の間にマイクとエラルドの存在を思い出した彼女が、頬を染め、勘付かれないようにゆっくりその手を下ろす中、マイクは居心地悪そうに頭を掻いて「本題に戻るぞ」と声を掛けた。
メーティスがピクッと震えて手を膝に置くのを横目に見て笑いながら、「お願いします」と彼に頷いた。
「…まぁ、クリスティーネを救うとは言ったが現状で明確な打開の目処は立ってないんだ。まず上役の奴らから向けられている警戒を解消するか、上手く逸らしてからじゃなければ此方も大きく動けない。無理をすれば今すぐ動けないでもないが、リスクが大きくなる。命を懸けることと軽々捨てることは同義じゃないからな」
「環境が整ってからどう動くかも、決まってませんか?」
「細かい計画までは出来ていないが、とにかくあの研究所からクリスティーネを連れて逃げることになるな。…逃げ込む先は、一先ず『モルスムネ』という街を候補にしている。あそこはリサーユ大陸の不可侵領域…つまり現時点で強力な魔物に阻まれて討伐軍が進めないでいる街だ。犠牲を出しながらじゃなければとても辿り着けないだろうから、万が一追っ手がモルスムネに辿り着けたとしても連れて戻るような戦力は残らないだろう。更にはこの街は聖なる巫女ソプラが亡くなった場所ともされていて、住人は勇者と巫女への信仰に厚い。ここならクリスティーネも平穏に暮らせるはずだ」
俺はクリスを救い得るプランが現実に述べられていくのを嬉しく思ったが、すぐにその興奮は不安に塗り替えられる。それは、その作戦が確実にクリスを救える訳ではないから、というのではない。…彼が話すその作戦は、見逃せない不穏な前提を基に形作られていた。
「…そうすると、モルスムネに向かうために高確率で仲間が死ぬことになるんですか?クリスティーネ様1人のために」
「ああ、そうなるだろうな。…命を懸けるというよりは、死を以て助けると言った方が妥当かもしれない。だがな、俺達やこの世の中は、クリスティーネという少女の人格の死を以て生き長らえているんだ。俺達も彼女を救うためなら、人として正しい道を選ぶためなら、死んでも構わないと考えてる。…俺達のような魔人は、なまじ人々より『生きる意味』や『人生』についてあれこれ考えてきたクチだからな。だから、俺達の踏み台に生きることを、クリスティーネが重荷に思わないように、その後のことはお前達に任せたいと思う」
はたまた俺は驚いた。メーティスも目を見張ってマイクとエラルドを交互に見る。
エラルドはマイクに向けて大きく頷いてみせ、マイクは微笑みながらエラルドに頷く。俺はそんな彼らを見回して、必死に声を抑えながら問い質した。
「…俺達だけ生きろって言うんですか?…先生方やまだ見ぬ他の人達の死の上で、俺達とクリスだけで…」
「…ああ、生きてくれ。そして、命懸けでクリスティーネを守り続けてくれ。それはお前達にしか出来ないことなんだ。分かるだろう?」
真っ直ぐ見つめて告げる彼に俺は何も言い返せなかった。しかし、疑問は残る。本当に彼女は、マイク達が犠牲になってまで救われることを望むだろうか。…彼女は優しく繊細で、自分のために人が傷付くのだけは何よりも嫌がる女性だった。俺達が勝手にやるとはいえ、犠牲が出てしまえば彼女は自分を追い込むに違いなかった。
…いや、彼女がそうなるだろうからこそ、俺達が生き残って傍にいなくてはならないのだ。どのみちこのままではクリスが幸せになる未来は絶対に訪れない。彼女を救いたいのなら、ここは一択しか無いのだろう。彼女が自分を追い詰めたとしても、俺達がまた彼女を励ませばいい話だ。その時には彼女の回復を邪魔する存在など何処にもいないのだから。
「…だけど…」
俺は首を振り、彼と眼を合わせた。そしてエラルドにも同様の視線を注ぐ。2人はそれを訊かれると承知していたのか、顔色も変えずに聞いていた。
「何で、先生方はそうまでしてクリスティーネ様を助けてくださるんですか?…俺やメーティスは、ずっとクリスティーネ様の傍にいたからこそ、命を懸けようという覚悟を決められるんです。でも、お2人がそこまでクリスティーネ様の事情に入れ込む理由があるとは、どうも納得出来かねます。クリスティーネ様を救おうという気持ちは本当に嬉しいし、一緒に戦ってくれなければ俺達にはどうにも出来ないでしょうけど、…もしただの善意で命を捨てようとしているのなら、それはやめて欲しく思います」
マイクは視線を伏して回想に耽り、それを一瞥で察したエラルドが此方に身を乗り出した。メーティスは俺の顔を盗み見て俯き、マイクとはまた別に思い耽った様子だった。
「私達が動くのは、何もクリスティーネさんへの思い入れだけではありません。私達は今のアカデミーや政治の体制に不満を抱きながら、それに従事しなければならない立場の存在です。…前国王の時代にも、確かに、不本意だろうとやらなければならない仕事が多くありました。しかしそれらは十分な必要性があり、欠かしてはならない重要なもので、私達もそれを認めて務めてきました。今のような、不用意に人々を抑圧するための飾りのような、…そんな悪意に満ちた行為では決してなかったんです。巷では独裁反対派の要人がスカフィズムなどの惨たらしい刑罰を受けて死に行き、それを娯楽にする民衆が群がるようになりました。今も私達はその片棒を担がされています。…私達はこの流れを断ち切らなければなりません。少なくとも、このまま従っていてはいけないんです。クリスティーネさんの救出に賛同し協力してくださる方々は皆、そんな正義感と自責に突き動かされた人々です。…私達は、私達の信じる正義のために戦います。ただそれだけですよ」
…彼ら彼女らが、自分の決断に納得しているなら、俺はこれ以上何も言うべきではないだろう。現に俺が命を懸けることに何の疑念も抱かないのだから、彼らに口を出す謂れは無い。エラルドの言い分に頷く俺の横で、マイクも同じく頷いた。
「多くの人は『命あっての物種』と考えるだろうが、実際に死を目前にどう思うかは当人の性格というよりそれまでの人生…紡いできた想いの積み重ねに左右されるだろう。だから時として、正しく在りたいと思う気持ちは命よりも重くなるものだ。ユーリ先生なんかは特に正義感が強いしな。そうなれば、正義のために命を懸けるのも別におかしなことじゃない。…ただまぁ、結局は皆個人的な理由があるんだと思う。少なくともお前やメーティスのように、俺にも俺の『命を懸ける理由』がある。…折角だから聞かせてもいい」
マイクの提案に俺とメーティスが少し驚いていると、エラルドは真意を確かめるようにマイクに顔を寄せた。マイクは彼女に微笑み掛け、深く座り直し腕を組んだ。
「…マイク、話していいの?……だって、それは…」
「いいさ、別に誰に口止めされてるでもない。…それに、確かにずっとタブーにはしてきたが、今の俺は向き合って来なかったことを後悔してるんだ。…どうせなら、全部話してきっちり向かい合ってやるさ」
エラルドは心配した様子でマイクを見つめたままでいた。その視線には強烈な既視感があった。…俺を傍で支えてくれている時の、メーティスの視線にそっくりだった。メーティスも不思議そうな顔をしてマイクと俺を見比べた。マイクは真剣に眉を寄せて俯き、遠い目で記憶を紡ぎ出した。
…俺とエラルド、ゾルグは、学生時代からの連れだった。3年間はルームメイトとして、その後はパーティメンバーとして、そして今は教員として、片時も離れず連れ添ってきた。けど、1年生の頃は3人だけじゃなかったんだ。更にもう3人、一緒に遊び回ってた仲間がいた。
1人はルーカス・L・セントマーカ…これだけ言えば伝わるだろう。彼は伝説の勇者の子孫だった。あぁ、そうだ。クリスティーネの父親さ。ただ彼はアカデミーには入学していなかった。俺達とは放課後や休みの日に会っていて、俺が下町の遊びを教えてやるとそれはよく喜んだもんだった。…クリスティーネに似て、賢くて素直で、馬鹿みたいに優しい奴だったよ。
もう1人はルーカスの彼女…後に妻となって、クリスティーネの母となる女性…アリーヤ・マルティネス。…リーダー気質の勝ち気な人で、貴族の産まれと聞いた時は驚いたよ。…ユーリさんと気が合いそうだったけど、当時は接点が無かったからなぁ…。まぁとにかく、2人とも学生じゃなかったから、入学したばかりの頃はまだ知り合ってなかったんだ。…彼らと俺達を繋ぎ合わせてくれた人が、当時同じクラスに入学してたアリーヤの妹…ティファレット・マルティネスだった。
ティファはアリーヤのように活発ではなかったけど、大人しくて礼儀正しくて、とても可愛らしい子だった。ティファは仲良くなってすぐ、俺に姉のことを打ち明けてくれた。その時一緒にルーカスのことも話してくれて、『言って良かったのか』って訊いたら『あっ!』って今更口を押さえたりする抜けた所もあったよ。…そんな、可愛い子だったんだ。
前期の終わり頃にはその3人が遊び仲間になってたんだ。あの頃はゾルグも今みたいに無愛想じゃなくてな、いつも俺とティファを取り合って喧嘩してたよ…すっげぇ楽しかった。でも最終的にティファは俺を選んでくれて、ゾルグも何だかんだ祝福してくれたな。…それで、俺とティファは、恋人同士になった。
人生であんなに幸せだったことは二度と無い。毎日が楽しくて、何もかもが輝いていて、本当にいつまでもそのままでいたかった。彼女は俺を好きでいてくれたし、俺もずっと好きでいた。…だけど、その日々はあっさり幕を下ろした。俺の目が届かない場所で、あっさりと…。
ティファは、ルーカスとアリーヤを通り魔から庇って亡くなった。その通り魔は、馬車を魔物に襲われて狂ってしまい、平和な人々を無差別に殺して回っていた奴だった。…討伐軍の失態が遠因になっていたし、その後の対応も杜撰だったから、こんなことが起きたんだと思った。アカデミーによる管理が行き届かなかったから発生した悲劇だと思った。…だから俺は、アカデミーの教員を目指した。
…ティファが亡くなって以来ルーカス達とは殆ど関わらなかった。それでも俺の胸からティファが消えることはなく、ただがむしゃらに目の前の努力にしがみついた。勉強や訓練に熱中していれば他のことを考えずに済んだ。そうやって、俺はだんだんとティファのことを深くは考えないようになっていった。
そうして今に至り、クリスティーネのことに直面して久しく思い返したんだ。光の血は、ティファの犠牲で繋がった。だからそれを途絶えさせる訳にはいかないと信じた。それでなかなか動き出せなかった。…けど、間違っていたんだ。ティファの意思を汲むのなら、俺は世界を敵に回そうとクリスティーネを…ティファの姪である彼女を守るべきだったんだ。それを思って、俺はようやく決心がついた。
「…彼女は命懸けでルーカスとアリーヤを救った。今度は俺が命懸けでクリスティーネを救う番だ。遅くなってしまったが、今度こそ必ず救う。…それが俺の理由だ」
マイクの言葉に、俺は返す言葉を見失っていた。彼の話に共感する前に、そもそもティファレットはマイクが自分の後を追うことを望んではいないはずだと感じた。しかしそれを今俺が言って彼の想いが変わるはずが無いし、こんなことは彼だって一度は考えたに違いなかった。だから俺は彼に言うべきことが分からなかった。
ふと見ると、メーティスが泣いていた。真っ直ぐマイクを見つめて、表情も崩さないまま、瞳から涙の筋が溢れていた。
エラルドはマイクの手を両手で握った。そしてマイクに鼻先が触れそうな程に顔を近付けて、熱っぽく潤んだ視線を突き刺すように差し向ける。マイクは彼女の行動に然して驚きはしなかった。ただ優しい顔で彼女と対面していた。
「…マイク……私は、あなたの力になる。あなたの願いを私も一緒に叶えてみせる。…ずっと傍で見てきたんだから、誰よりも、他の誰よりもあなたの気持ちを知っているから…。私、あなたのために命を懸ける」
「…ああ、ありがとう。…お前には、何もお返し出来てないな。俺がお前の気持ちに応えてやれれば良かったんだろうけど…」
「…いいのよ。マイクはそれでいいの。私は傍に居られれば満足だから…」
…見ている此方が気まずく思って眼を逸らして頭を掻いていると、マイクはそんな俺を一瞥して笑い、エラルドはハッと我に返って触れかけていた唇諸とも身体を引っ込めた。メーティスはそんな彼女の一部始終を見終えるとギュッとボートの縁を握り締め、俺と眼が合うまでじっと俺の顔を盗み見た。
そこへ、ポシャンと大きな音を立てて魚がバケツからボートの床に飛び出した。俺はそれを両手で拾い上げると、少し悩んで、そのまま湖へと放して会話に戻った。マイクも了承したように一つ頷き、バケツに張った水を湖に捨てた。
「…とりあえず、お2人の決意は分かりました。俺達も俺達の理由でクリスティーネ様を救います。…これから、よろしくお願いします」
マイクとエラルドは共に微笑んで頷いた。メーティスは頷く反応が遅れたものの、頬を染めて熱い視線を向けていた。
帰り道は2人と分かれてメーティスと2人きりだった。岸に上がってすぐ水道の水で手を洗うと、ハンカチで拭う間も無くメーティスが手を繋いで歩き出した。釣具はマイクに返して手ぶらだったため、空いた手は暇を持て余してポケットと外を行き来した。
服には湖や魚の臭いが僅かに染み付いて、魔人の鼻には少し苦痛だったが、メーティスは特に気にする様子も無く肩を引っ付けてくる。寮に辿り着くまでは他愛無く仕事のことや部屋での過ごし方などの近況報告をやり取りし、ロビーに踏み入る頃に「そういえば」とまた笑い掛けてきた。
「ちゃんと2人きりになるの、久しぶりだったね」
「そうだな。まぁ、昼間一緒に飯でも食えばいいんだろうけどな」
「あっ、そうしよっか。じゃあ、月曜日は食堂一緒に行こ?」
「ん、いいぜ。じゃあ教員室で待ち合わせて行くか」
メーティスは大きく頷いて嬉しそうに笑う。そんな彼女に笑みを返しながら部屋の前まで送り届け、「じゃあ、また明後日」と手を振る。メーティスは揺れる手を眺めて目を細めると、正面に回ってドアを開け、艶っぽく頬を染めて見上げた。
「…何で?もっと一緒にいよ…?」
ねだるような眼にドキリと心臓を弾ませると、メーティスは今度は誘うようににんまり笑って両手を掴んで部屋に引き込む。
「ほら、こっち来て。もーちょっとイチャイチャしよ…?」
そう言いながら抱き寄せて、俺の背に回した手でついでにドアを閉めた。俺は特に強く抵抗もせず彼女が歩くのに任せ、身体をくっつけたまま共にベッドに倒れ込んだ。そして間を開けず頬にキスをされると、堰を切るように甘える彼女が何だか面白くてクスッと笑いながらからかってみた。
「…いいんですか、メーティス先生?教員同士でこんなことしてて、生徒に示しがつきませんよ?」
「いーもん、そんなの知らない。…それにさ、どうせ警戒されてるなら、逸そこんなことしてた方が人間らしいでしょ。普段も隠さず仲良くしてよーよ」
「…おかしいな、メーティスから公私を分けるように持ち掛けてきてたはずだったんだが…。…何、欲求不満?それともマイクとエラルドのやり取り見て火が点いたとか?」
会話が外に漏れないようにこそこそと小声で話していると、籠って熱くなった吐息が掛かる度に妙な気分になった。そのまま流されて一線を超えそうになるのを堪えて内心では一杯一杯になりながら、変わらず彼女をからかって遊ぶ。彼女はそれに「…馬鹿」と笑いながら唇を重ねた。俺の問い掛けへの返事かのように、そのキスは随分と長く続いた。
顔を離すと、彼女は俺の胸に額を押し付けた。それをふわりと抱き留めてやると、彼女はまた小さな声で、しかし溢れんばかりの明るい声で告げた。
「…まだ、私達にも出来ることがあったね。…嬉しい」
「…うん。…今度こそ」
互いに強く抱き締め合い、共に戦う決意を誓った。繰り返し繰り返し、同じような言葉とキスを重ねて、何度も何度も誓いを立てた。…今度こそ、必ずクリスを救い出してみせる。




