第87話 あなたのかおもみてられない
――そこは、クリスの軟禁部屋だった。そこにはシーツに半身を包まれてベッドの上に座るクリスがいて、何故か俺だけが傍に立って彼女を見守っていた。俺は装備を解いて私服姿のまま棒立ちの身体を彼女に向けて、彼女はリーベルを食べた時に垂らした真っ赤な血をべったりと胸元に残した患者衣姿で、意思の無い人形のように此方も見ずに座っている。
俺は彼女の傍らに膝をつき、
「して欲しいことは無いか?」
「無理してないか?」
「何でもしてやるからな」
此方を向いて欲しい一心で声を掛け続ける。けれど彼女は此方を見ない。彼女は俺を否定するように、その虚ろな様子に似つかわしくないはっきりとした声で訊ねた。
「婆やはどこ?」
俺は思わず口を噤んだ。俺は誤魔化すために無理に笑って首を振り、彼女の手を握って答える。
「ごめんな、会わせてやれないんだ。けど、俺がいるだろ?ほら、ずっと傍にいてやるからな」
「ファウドはどこ?」
俺は口を噤んだ。引き攣った笑みのまま握った手を見下ろして、真っ白になった頭の中にドロドロした赤黒い感情が滲んでくるのを犇々と感じた。そして今度の言葉は、妙に近くで、下手をすれば頭の中から響いたような距離で届いた。
「あなた、いつまで私の傍にいるの」
俺はまた、彼女の首を絞めていた。今度は止める者は誰もいない。しかし俺も早々に我に返り、彼女の首に掛けていた手から力を抜こうと考えた。
しかし、彼女は俺の手に自らの両手を添えて力を込めた。それに促されるように俺の手にも何故か力が入る。彼女はまた、ポツリと呟く。
「ファウドに会いたい」
俺は絞める力を上げた。どうせ回復の見込みが無いなら殺してやるのも救いかもしれないと、そう考えていた。彼女の首はまるで人間のそれのように折れ曲がると、もう元には戻らなかった。
俺は彼女の死体を見下ろし続ける。音も色も無くなった世界に、おぞましい達成感を覚えながら、彼女を見下ろす――
飛び上がるように目を覚まして、俺はその夢の恐ろしさに茫然とした。まだ空の色は青く、少しの間寝ていただけだと気付く。俺は沸々と怒りに燃え、その衝動に拳を振り上げたが、ベッドを殴る前に何とか踏み留まった。
…ただの夢ではない。俺の中にはクリスの記憶と自我がある。時間が経って胸の奥にしまい込まれたと言っても、消えることはない。彼女の心が俺に見せた夢なのだと理解すると、俺はもう叫び出したくなる程に悔しかった。
クリスは俺を遠ざけたがっている。俺を壊さないために、巻き込まないために、彼女が独りで全てを抱え込むために…。彼女は俺に何も期待していない。期待することで俺に苦痛を強いるだけだから。けれど期待しなければしないで俺が勝手に躍起になる。ならばもう、自分から俺を遠ざけるしかないとクリスは考えたのだ。…俺が必死になることで、クリスは余計に自分を追い詰め、自らの死を望む。俺にはもう、彼女を安心させてやれる力も無くなったのだ。
俺は部屋を、そして城を飛び出した。部屋で動かずにいても辛くなるだけだった。何処か休める場所に行って落ち着きたかった。一先ずカフェを目指してみた。学生時代に行き付けだった所へと歩いていると、とある集団が眼に入る。俺は陰鬱に薄く開いた目でそれを遠くから流し見ながら通り過ぎていった。集団は主に中年の男女に構成され、その先頭に立つ男を担ぎ上げるように後続の者達がフレーズを繰り返す。
「勇者に死を!クリスティーネに死を!」
「勇者の一族とは何か!?かの英雄リアスの血を引きながら、その名誉の上にふんぞり返る能無し共である!」
「勇者に死を!クリスティーネに死を!」
「リーベルとは誰か!?この時代に産み落とされ、国王の死を以てアムラハンを陥れんとした怪物である!」
「勇者に死を!クリスティーネに死を!」
「クリスティーネとは誰か!?その怪物を産み従え、世界の転覆を目論んだ大罪人である!史上最悪の勇者である!否、奴は勇者ではない!血縁の名誉を盾に権威を振りかざし、下劣の限りを尽くしては、果てにこの国を手中に収めんとした化け物である!魔王を超えた外道である!人類の宿敵、クリスティーネに死よ来たれ!」
「勇者に死を!クリスティーネに死を!」
「勇者に死を!クリスティーネに死を!」
「クリスティーネに死を!クリスティーネに死を!クリスティーネに死を!クリスティーネに死を!」
大臣の虚言に操られた哀れな集団が堂々と道の真ん中を行進して叫び続ける。俺は憤る前に呆れた。こいつらは本当に何も知らない。何も知らないまま、他人に言われた以上のことを知ろうともせず騒ぎ立てているだけだ。こんな馬鹿な連中ばかりなはずがない、真実を知ろうと、正しくあろうと動く者達もいるはずだ。この連中のことはそうした正しい人々に任せ、俺は静かに立ち去ろう。どのみち、俺が反抗して1人で騒いでも何にもならない。
集団の声が遠くから聞こえ続けていたが、知らぬフリでカフェを目指した。到着して暫く店の様相を眺め、懐かしさを噛み締めながら入口へ歩く。外観は以前の様相とは変わらず、店内からは賑やかに客が談笑している声が聞こえた。その明るい雰囲気に俺は安心していた。
扉を開け、カラランとベルが鳴る。その瞬間、店内は静かになり、一斉に客人の視線が俺に集まった。全員一瞬たりとも俺から眼を放す様子が無く、俺はその状況の異様さに思わず足を止めた。彼らを見回して唾を飲み込み、緊張から音を立てないようにして扉を閉めた俺は、逃げるように早足で奥のテーブルに歩いた。見つめる彼らに背を向けて、何も気にしないように気を張りながら、1杯飲んで出ていこうと決めた。
すぐに若い男の店員が水の入ったピッチャーを手に歩いてくる。ピッチャーは蓋が開いていて、中の水も氷を含まず量が半分になっているので違和感があった。それ以前にその店員はオーダー表を持たずにいて、俺は何となく嫌な予感がしていた。
「すいません、アイスコーヒー1つ…」
小さく手を上げてその店員に注文を始めていた俺に、店員がピッチャーの水を頭から被せてきた。バシャッと叩くような強い音が響いて水は俺の全身とその周辺の床とをずぶ濡れにした。手を下ろし、ポタポタと髪の毛先から水滴を垂らす。呆気に取られて店員を見上げていた俺を、店員への歓声と拍手、そして俺に対する罵声が取り囲んだ。店員はしてやったと顔に出し、俺の反撃でも警戒したようにせっせと飛び退いていった。
「討伐軍の連中に出す珈琲は無ぇってよ!さっさと出ていけ木偶の坊!」
「どの面下げて湧きやがったんだぁ?こんなとこ来る暇あるならさっさと魔王でも何でも倒して来いよー。国王だってお前らがクソだから死んじまったんだぞ」
「ユダ村、ラバカと攻め込まれて何もしなかっただろお前ら!どうやらマニ大陸まで怪しいしよぉ!無能もいいとこだぜ、まったく!」
「お前らがまともに働かねぇから俺達が苦労してんだ!もっと必死になりやがれ!役に立たねぇなら死んじまえ無能共!」
罵声、嘲笑。…ここにも居場所が無いのか。俺は何も言い返さずに立ち去ることにした。そもそも討伐軍が機能し辛い原因の一端には一般人の不理解もあるが、それを此処で説いた所で何にもならない。
「おい、逃げてくぞー腰抜けが」
「こりゃ魔王も倒せない訳だ」
「マジで生きてる価値ねぇよ」
口々に罵声。何とでも言っていればいい。そうやって不平不満を撒き散らして、憂さ晴らしでもして生きていけ。
また店内が異様に静まる。俺は扉を目指して歩き、他には一切関心を払わないことにしていた。だからだろう、客の1人が脚を伸ばして俺の脚を引っ掻け、俺はいとも簡単にバランスを崩した。床に這いつくばる俺を店中が笑い倒し、引っ掻けた本人は「ズボン濡れたわー」とゲラゲラ笑っている。
いい加減付き合いきれなくなった俺はゆらゆらと立ち上がり、ズボンの脛をわざとらしく擦って乾かす男を見下した。男は未だ笑い、「何だよやるのかぁ?」と挑発している。…やはりそうだ、こいつら俺が手を出せないと思って好き放題言っているんだ。
「鬱陶しいよ、クズ共」
静かに言い放った俺を馬鹿にするように男は「あー?」と俺を見上げる。俺はテーブルに手を置いて男を見下し続ける。その手から冷気が立ち込め、テーブルがじわじわと凍り付いていくのを見た男はぎょっと青冷めたが、『どうせ脅しだ』と高を括っているのか乾いた笑い声を上げる。
男は下からの冷気に気付いたのだろう、その視線がふと足下へと向いた。俺は足からも冷気を放ち、その椅子は座面に届く程に凍り付いていた。そして氷結がズボンにまで浸透してきたのを感じたその男は、漸く悲鳴を上げながら椅子とテーブルを撥ね飛ばして逃げ出す。そうして床に転んだ彼を見ながら、『フリーズ』の発動を止めた。
店内は一転して恐怖に支配され、もう誰も口を開かなかった。…やり過ぎた。どうかしていたなと反省して、そのまま俺はカフェを立ち去っていった。後から慌ただしく民兵に助けを求める声が聞こえてきて、俺は彼らを哀れに思った。
もう帰ろうかと考えたが、セントマーカ家の邸宅のことが気になって立ち寄ることにした。もうあの家には誰もいないし、人が戻ることは無いという話だった。なら取り壊したのだろうか、それとも放棄されるだけだろうか、と気になったのだ。しかし、やはり立ち寄るべきでは無かった。
家が近づいた頃にはその騒ぎが聞こえていたので、俺は不安になって途中から走っていた。辿り着くとそこには数人の若い男女が集まっていて、和気藹々と邸宅の壁に密集していた。以前は真っ白で美しかったその家は、今や大量の落書きに埋め尽くされていた。
――…』『出来損ない』『人殺し』『クズ』『売女』『キチガイ』『異常者』『化け物』『ビッチ』『ブス』『悪魔』『汚物』『人外』『ハゲ』『無能』『変態』『アホ』『死ね』『邪魔』『…――
その他には、人を馬鹿にしたような下品なイラストが描かれ、検討違いな恨みの籠った長文の手紙が貼り付けられたりしていた。そして今なお、その若者達がスプレーで侮蔑を書き連ねている。
「やめろーッ!」
俺は思わず叫んだ。しかし若者達の笑い声を前に、その叫びは何処か虚しくすらあった。彼らは俺を見るも、すぐにまた談笑しながらスプレーで落書きを続ける。女が数人俺を見つめたままでいたが、彼女らは俺の話を聞こうという素振りは無く、女同士で話していた。
「ねぇ、魔人って人に恫喝出来ないよね?確か、脅したり殴ったりした魔人はそれだけで死刑に出来るって聞いたことある」
「らしいね。無視すればいいよ」
「っていうか、悪い奴懲らしめてるなら私達ヒーローだよね。あははっ」
…あぁ、何を言っても意味が無い。すぐにそう悟った。先程のように下手なことをしてはいけない考え、俺はバッとその場を後にして民兵署へ駆け出した。「何だったのアレ」「さぁ?頭おかしいんでしょ」と彼女らが笑い合う声を背に受けて、一刻も早くと足を急がせた。
…夕日に照らされる道を歩き、トボトボと城へと戻る。結局民兵には相手にされなかった。俺が幾ら詳しく落書きの悲惨さやその不当さを伝えても、「なるほどなるほど」と笑顔で頷かれ、メモの一つも取らないままに、
「あなた、討伐軍の方でしょう?今、あんまり出歩かない方がいいですよ」
とそれだけ繰り返され、民兵としては動かないスタンスを貫かれた。まるで聞く耳を持たず、それでも俺がまた一から説明しようとすると、
「あぁ、もういいですから。今日はもう帰って大人しくしていてください」
とやんわり背を押されて署から追い出されてしまった。民兵はこの事態を解決するつもりが無いらしい。俺は失意のまま帰路に向かい、邸宅に赴く気力など微塵も湧かなかった。
…世界中がクリスをいじめてる。そんな気がした。クリスのしたことはそこまで許されないのか?クリスが犯した間違いなんて、自分を追い込み過ぎてリードにまで身体を許してしまったことだけだ。それだってどうしようもなかったし、その他にクリスは何も悪いことはしていない。どうしてこんなに酷い目に遭うんだ。
どうにもならない悲しみに打ち拉がれ、登城石段に差し掛かる。登りながら『少し休んでいこう』と決め、メーティスと見た絶景に思いを馳せる。しかし踊り場に着いて同じ景色を見ても、俺の心が晴れることは無かった。
「…ゴミだ…ゴミが映り込んでくる」
景色の中で散らばって各々に騒いでいるデモ隊や、偏見を糧にふざけ回る若者達が、美しかったはずの光景を粗暴に掻き乱していた。
「…やっぱりそうだ…そうなんだ…」
ボソボソと呟きながら、少し笑ってしまった。…クリスが悪いんじゃないんだ。こいつらが悪いんだ。こいつらが、弱い人間達が、自分に不都合な責任を全てクリスや俺達に押し付けて、押さえ付けるためだけに蛮行に及んでいるに過ぎないんだ。…そういうことか。
考えてる内に、何が面白いのか身体が震え、胸の奥から笑いが込み上げた。堪えても堪えても止む気配が無い笑いが、フフッフフフッと延々鼻から抜けていく。どうしたことかいつまでも終わらず、俺は手摺りに凭れ掛かって額を押さえながらずっと笑っていた。
辺りが段々と暗くなる。帰らなきゃいけないのに、笑い声が止まらず動き出せなかった。
「…大丈夫?」
声と共に、後ろから温かい感触が包んだ。…メーティスだった。彼女は俺を抱き締めたまま胸を擦って、「泣かないで…」と辛そうに声を絞り出す。
「え…?」
聞き返した声は震えて、上擦っていた。額から手を離して今更に気付く。俺は頬が涙に塗れる程に泣いていた。メーティスは何も訊かずに俺の胸を擦り続け、俺の奇妙な笑い声もそれで収まっていた。もう陽は落ちて、夜の静けさと肌寒さの中で彼女の身体だけが暖かかった。
「俺、もう嫌だ…。…何で世界はこんなに冷たいんだ。…これなら、絵本の中にいる方がずっといい」
はっきりと、俺は彼女に泣き言を呟いた。彼女は驚きもせず俺を優しく撫でて聞いた。
「…絵本のような、平和な世界なら良かったのに。…平和な世界の住人として、俺もメーティスも…クリスもさ、皆仲良く過ごせたら、どんなに良かったか…」
「…うん。…私も、平和の住人になりたい。皆が互いを尊重して、大事にして…そんな、誰も悲しまない世の中に生きたい」
メーティスはぎゅっと強く俺を抱き締め、俺は彼女の手に自らの手を添える。温もりに触れ合う中、俺は自覚せずにいられなかった。
「…俺さ…もう、メーティスがいてくれないと駄目だよ。…1人じゃ、もう無理だ」
「…私も、レムと一緒にいたい。…2人でいる間は、平和な世界にいられるから」
俺は、言葉を交わす度に強まる抱擁に、彼女の小さくて白い手を見つめた。…彼女の優しい手を見つめていると、不意にまた泣き言が溢れる。
「メーティスは、どうしたらいいと思う?…俺、このままクリスのために頑張ってていいのかな…?」
彼女は、『レムがそうしたいと思うなら、私は応援する』と、そういう言葉を掛けてくれると思った。彼女はずっと俺を支えてくれた。だから、その答えは意外だった。
「…私は、もうレムが辛そうなのは、見たくないよ」
俺はその返答を聞いて優しく腕を解かせ、彼女に振り向いた。…メーティスは泣いていた。俺は彼女と眼を合わせて、自然と綻ぶ頬のまま頷いた。
「…分かった。もう、無理なことはしない。メーティスとロベリアと、ちゃんと責任を分け合うよ」
メーティスは、俺がすんなり了承してくれるとは思っていなかったのか、少し驚いたようだった。…これは、俺の本心だ。どうにでもなれと、破滅してしまえとも確かに考えたが、それでメーティスが悲しむなら、俺はそんなことはしたくない。
「…ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。俺、メーティスのお蔭でずっとやってこれた。…長いことクリスのことが好きだったけど、今は……俺は、メーティスと一緒にいたい」
メーティスは戸惑っていた。…当然だ、彼女は俺とクリスのことを誰よりも応援してくれて、自分が選ばれるとは思っていなかった。眼を泳がして答えに迷う彼女の手を、ゆっくりと握る。
「自棄になったとか、逃げるためじゃなくて、本心から好きだよ。…前科があるから、信じてもらえないかもしれないけどさ」
「…ううん、信じる。…私も、レムが好きだから」
ありがとう、と荷が下りた気持ちで笑い掛ける。メーティスはそんな俺を見つめると、心細そうな表情で俺の胸に顔を押し付けた。
「…私で、いいの?」
「メーティスが好きだよ。…それだけの時間や思い出がメーティスとの間にはある。だから、胸を張って言える」
「……喜んで、いいのかな…。…クリスに怒られるよ…」
「…もしそうなったら、俺がクリスに謝るよ。俺はそれでも、メーティスを好きでいたい」
メーティスは小さく頷いた。俺は彼女の頭をそっと撫でながらその腕に抱いた。そして、もう一つ、これだけは守らなければならないと彼女に約束した。
「けど、俺はクリスのことを諦めたくはない。今までみたいにがむしゃらにはしないけど、それでもクリスを放っておくことなんて出来ないんだ。それは俺の…俺達の責任だし、大切な絆だと思うから。……一緒に、クリスを救う方法を考えて欲しい。これからは1人でやらない。ちゃんとメーティス達と一緒にやっていって、正しいやり方を探したい。それで、ちゃんとクリスを助けられて、また昔のように俺達で笑い合えるようになったら、その時こそ恋人らしく2人で幸せになろう」
メーティスはすぐ、「うん」と頷いた。告白を了承した時より彼女の返事は透き通っていた。…俺に無理をして欲しくない一方で、クリスを救いたい気持ちは俺と一緒だったのだろう。これで漸く、綺麗にクリスと向かい合っていける気がした。




