第86話 みんなのかおがつらくてみれない
メーティスに慰められて幾分か気が楽になった。あれからほぼ毎日俺がクリスの監視を担当している。当然メーティスもロベリアも『自分がやる』と言って俺を止めたが、俺の意地がそうはさせない。これは俺に課せられた責任であり義務であり使命であり拠り所であり存在価値である。クリスを『見守る』立ち位置は俺のものであり他者に渡していいものではない。この先クリスの意識が好転するまで、最悪一生の間、俺は彼女の隣に居続けなくてはならない。違う、俺は彼女の傍に居続けたいのだから居続ける。俺が傍に居たいのだ。途中でやめたりなんかしない。最期までクリスに付き合う。それが俺の望みなんだ、だから――
「お父さん?」
俺はバッと素早く顔を上げた。ベッドから立ち歩いてきたクリスが俺に顔を近づけて不思議そうに首を傾げていた。その背後には警戒するように少し距離を取りながら付いてきたレイラの姿があり、彼女も様子を窺うように俺を見つめる。
「ああ、何だ?」
俺はクリスとしっかり眼を合わせて笑い掛けた。すると、クリスは何でもなくニコニコ笑って告げる。
「あのね、お母さんが『お疲れ様』だって。『休んでいいよ』って」
「そっか。でも、そう言われると頑張っちゃうのが俺なんだ」
「ダメだよ、お父さん。疲れてるんでしょ?疲れたら休まないとダメなんだよ」
「うん、そうだな。お昼になったら休むよ」
俺は変わらず笑顔でクリスに答える。表情筋を持ち上げ続けているのにはもう慣れた。大分上手くなったと思う。この調子ならその内笑い方で人に心配されるようなことも無くなるだろう。
「お父さんは何でいつもそこに立ってるの?」
クリスはまた不思議そうに訊ねる。
「俺はお前の傍にいるだけだよ。これからもずっと傍にいるからな」
クリスはそれを聞いて一層不思議そうに首を捻った。
「ここにお父さんがいても何にもならないよ?」
気付くと俺はクリスを押し倒し喉笛を両手の親指で圧迫していた。レイラは目の色を変えて俺を突き飛ばし、「何してるんですか!」と睨み付ける。知らぬ間に俺の眉は険しく寄り、息も上がっていた。クリスは暫く『何も分からない』といった顔をしていたが、俺を見つめる内に赤ん坊のように泣き出した。そうしてレイラに抱き付き、レイラは初め戸惑っていたがそうされている内に自然と背中を撫で始めていた。
俺は自分の行動に驚いて茫然としていたが、ベッドの傍から身動き一つ取らずに怯えた表情で眺めていた看護師に眼が行くと不意に落ち着きを取り戻していた。
「…ごめん、…どうかしてた。俺にも何が何だか…」
レイラは俺が喋ると敵意を剥き出しにして睨み付けたが、それも一瞬のことで、すぐに悲しそうに目を細めて俺に声を掛けた。
「…レムリアドくん、今日はもう休んだ方がいいと思います。日に日に顔色が悪くなるばかりですし、今も、まるで窶れたようになっていますよ。…交代です。看護師さん、メーティスさんかロベリアさんのどちらでもいいので呼んできてください」
「いえ、先生、俺はまだ」
「いいから休んでください」
レイラは有無を言わさず窘めた。看護師も駆け足に部屋を出ていってしまい、どうやら俺は大人しくこの場を去るしかないようだった。せめてと俺は立ち上がり、クリスの前まで進むと一方的に口を開いた。
「本当にごめんな、ク………リーベル」
わなわなと震えていたレイラは『さっさといなくなれ』と釘を刺すように「レムリアドくん!」と名前を呼ぶ。しかしそれを他所にクリスは泣き晴らした顔を上げて「…いいよ…」と頷く。レイラは優しい眼をしてクリスに振り向き、俺はクリスの寛大な返事に「ありがとう」と頭を下げた。
そしてまた直後に、ゴシゴシと涙を拭ったクリスが無垢に笑って告げる。
「私ね、お母さんがまたお腹の中に入れてくれたからもう一回産まれ直すの。産まれてきたらお父さんもお母さんもきっと楽にしてあげるね」
それを聞いてクリスがリーベルの死体を食べた真意を理解した。クリスはもうこんな世迷い言を信じるしか心を守る術が無いのだ。レイラはクリスの物言いに戦慄し、先程まで我が子のように腕に抱いていたクリスから身を離した。
そこでまた唐突に、クリスはうとうとと頭を揺らし始める。泣き疲れた、ということなのだろうが、それは剰りにも唐突で現実味が無かった。妄想、虚構が生み出したのがリーベルの人格だ。クリスにとって都合良く全てが設定されている。
リーベルの人格が眠りにつくと、その表情から無邪気さが消える。老いたように陰る気色にレイラは恐怖を覚え、鳥肌を立たせたまま硬直する。俺はレイラから奪うようにしてクリスを横抱きにし、そのまま歩いてベッドに寝かせる。勝手にクリスの世話をした俺だが、レイラがそれを咎めることはない。放心したままのレイラと眼を合わせていると、バタンとドアを開け放って看護師と共に現れたロベリアや、その後ろに装備を済ませて続いたメーティスが、焦った顔で俺を見つめた。
「レム、平気!?」
真っ先にメーティスがそう訊ね、ロベリアはそんなメーティスを何処か鼻についたように冷たく一瞥して部屋に1歩踏み入る。
「レムくん、自分がやったことの意味が分かる?流石にもう自重するよね?後はメーティスがやるから、君はこっちに来て」
「ああ、分かってる」
俺は少し苛ついて答えた。ロベリアの言い方が気に入らなかった。メーティスは俺と入れ代わるようにレイラに駆け寄り、俺には「ゆっくり休んでね」と声を掛けていく。俺の中に膨れていた節操の無い怒りが、ただその一声で消えていく。俺はメーティスに「ん、ありがとう」と自然と笑みを返してロベリアの前に進み、看護師が俺達を避けるように壁に沿って入室するのを横目で見ながら立ち止まった。ロベリアはそんな俺の腕を手荒く掴み、「ちょっと来て」と外へ歩き出した。
「あ、失礼しました」
ロベリアはドアをそれなりに離れてから言い忘れに気付き、今更な彼女の言葉の後に俺も同じように告げていった。何かに急かされたような彼女の言動に、不安は覚えないまでも嫌な予感だけは感じていた。それは彼女が俺に苦言を呈する際のお決まりとも言える緊張感だった。
彼女は俺をパーティの控え部屋に連れ込んですぐに本題に入った。わざわざ丁寧に、俺を先に入室させて鍵を閉め、前兆を噛み締めさせるように静かに俺を見つめながら前置きも無く言い放つ。
「もう、クリスティーネ様のために必死になるのはやめた方がいいよ」
俺はその剰りに直接的な言い回しに、一瞬何を言っているのか理解出来なかった。しかし彼女が眼を逸らさず、その発言に責任を持つかのような姿勢を取り続けるので、俺は変な笑い声を上げて言い返していた。
「おいおい、これまた露骨な嫉妬だな。そんなこと言ってられる状況じゃないって理解してたはずじゃなかったのか?クリスは病気なんだよ。心の許せる人間が傍にいなけりゃ忽ち壊れてしまう重い病気なんだ。俺が傍にいなきゃいけないんだよ」
「それは前までのことでしょ?今はもう、レムくんが傍にいてもクリスティーネ様の容態は好転しない。とっくに取り返しがつかない所まで悪化してるんだよ。だから必ずしもレムくんが傍にいないといけない訳じゃない」
「だからって俺がクリスの傍を離れる理由にはならないなぁ。例え何も出来なくたって、見ていることしか出来なくたって、俺はあいつの傍にいるんだ。だって、此処でそこを妥協することはクリスを見捨てるに等しいじゃないか。お前達はあの屋敷の頃からクリスを見捨ててたかもしれないが、俺は違う!俺は今日までずっとクリスと向かい合って来たんだ。それを何の進展も無いままパッタリ止めたんじゃ、クリスは今後何を信じて絶望と戦っていくんだ。俺だけはあいつを見捨てる訳にいかないんだよ」
「それでレムくんが壊れたら元も子も無い。それこそ『終わり』だよ」
ロベリアは睨むように視線を強くした。決してこれは譲らない、そういう意思表示のようだった。俺だって譲らない。譲りたくない。ずっとクリスのために尽くそうとしてきたんだ。これからだってそうあるべきだ。今クリスのためにこれ程まで必死でいる奴が他にいるか?…いる訳が無い。俺が見捨てたら本当にあいつは1人になってしまう。それだけはあってはならないんだ。
「自覚あるでしょ?もう限界だって。クリスティーネ様の傍にいるのが苦痛でしかないって、分かってるでしょ?」
「だから何だ。苦痛でも何でも、俺はあいつを見捨てちゃいけないんだ。俺はあいつの恋人だ。ベンチに座って2人で約束したんだ。これから先も傍にいるって、それも約束してるんだ。約束は絶対だ。何が何でも守るんだ。俺はあいつの傍にいなくちゃいけない」
「それをクリスティーネ様が望んでいなくても?レムくんがいても変わらないって、本人が諦めていたとしても?」
「関係ない、俺は傍にいる。だってそうじゃなきゃ本当に何も変わらなくなるだろ。俺が諦めずにいる限り、俺という絶対の場所が、帰る場所がクリスにはあるんだ。だから俺だけは諦めるべきじゃないんだ」
譲らない。譲りたくない。俺は何度言われても意見を変えなかった。ロベリアは折り込み済みだと告げるように溜め息を溢し、今一度俺と眼を合わせる。「…じゃあ、本当のとこ言うよ」と、勿体振った口調でロベリアは前置きする。俺はどんな言葉が来ても言い返す準備をしていたが、ロベリアの言葉に俺が言い返せることは何も無かった。彼女の言葉にはそれ程の説得力があり、そして俺自身も彼女に言い返す権利を持たなかった。
「レムくん、私と付き合ってた頃と似た顔してる」
…何か言ってやりたかった。でも、何も口に出来なかった。
「私は言ったよね、本当に好きな人と付き合って、って。…ねぇ、認めてよ」
何も言えなかった。何故ならそれは、
「君はもう、クリスティーネ様を愛してないんだって」
それは、俺が自覚していながら必死に背いていた事実だった。とっくに自分でも分かっていて、けれどそれを認めれば今までの自分の努力も何もかも、全てが無に帰すような気がして恐ろしかった。彼女から離れたいと感じている自分をどうしても無視したかったのだ。
「…だから、何だ」
俺は震える声で言い返した。ロベリアは何も言わず俺の言葉に耳を貸した。
「俺がクリスを愛してないからどうだって言うんだ!これまでずっとあいつのためにやってきたんだ、それを『愛想尽かした』の一言で全部終わらせるなんて筋が通らねぇだろうが!愛想尽かした理由だって酷いもんだ。壊れて壊れて壊れきって、元のクリスじゃなくなって、自分が好きだった彼女の姿が見れなくなったから好きじゃなくなったんだ!最低の理由だろう、何せクリスの過失は何処にも無いんだから!こんな薄情なことで愛想尽かして、これだけでクリスを見放すなんて、人として間違ってるとは思わねぇか!?だから俺は最期まであいつの傍にいるんだ!罪滅ぼしにもなるとは思わない、だけど、それでも俺はあいつのために続けていかなきゃならない立場なんだよ!」
自分でも、途中から滅茶苦茶なことを言っている自覚があった。知らず知らず大声になって、きっと廊下にもそれが漏れていた。ロベリアは静かに聞き遂げると、ゆっくり、窘めるように言い返した。
「レムくんはずっとやってきた。それこそ自分が壊れてしまいそうな程に。だからこそ、レムくんが此処でそれを止めることを咎められる人はいないよ。…好きじゃなくなる理由なんて元々、必ずしも本人同士に欠点があるからなんてものばかりじゃない。価値観の違いとか、生活習慣とか、そんなどうにもならないことが理由になることは幾らでもあるよ。ましてレムくんは、『クリスティーネ様の惨状に付き合うのが苦痛になったから』でしょ?…君を叱れる人なんて、本当にいると思う?それこそどうしようもない失恋だったし、そもそも恋愛感情一つでやり通せる話じゃなかったよ。君は自分を許してあげていいと思う。誰も君を人でなしだなんて思わないよ」
「…何だかんだ言って、お前…俺にクリスを諦めさせたいだけなんだろ…。いつもいつも、自分を棚に上げて説教かますお前が、今度は道理を無視して手を引かせようとするなんておかしいんだ。…なぁそうだろ、お前俺に選ばれたいだけなんだろ。あぁ?」
自分でも、これは最低な物言いだと思った。けどロベリアに怒りの矛先を向けなければ自分を見失いそうだった。ロベリアはそれも承知なように溜め息を小さくつき、
「…どう思ってくれてもいいよ。どのみち、君が好きなのは私じゃない。私はただ、君がそうやって心を死なせていくのが見ていられないだけだから」
ロベリアはそう告げてドアへと身を翻し、ノブに触れながら「武器工房にお邪魔してくる」と告げて去って行った。俺は暫し立ち尽くしてドアを見つめていたが、気を取り直そうと少し部屋を彷徨き、そのまま自分のベッドに腰掛けると前にのめり両手で顔を覆った。
…分かってるんだ、このままクリスの傍にいたって俺が摩り切れるだけだってのは。けど、だからってクリスを置いて俺だけ楽になっていい訳が無い。クリスがこのまま良くならないなら、俺もクリスと一緒に壊れてしまうべきなんだ。…けど、クリスがそれを快く思わないことも、俺はよく分かっている。
…それに、本当は分かってるんだ。俺が愛している…必要としている人は、クリスの他にちゃんといる。…旅に出ていた間、クリスのことを他所にして彼女に気移りするのは間違いだと思い、頑なに彼女をその対象とは見ないでいた。俺が好きなのはクリスだと、決して譲らなかった。しかし、本当はあの頃には、俺は彼女に傾いていたのかもしれない。彼女はいつだって優しくて、俺を許してくれて、叱咤してくれて、…誰よりも俺を支えてくれた。人の温もりに癒されたくなると、真っ先に彼女の顔が浮かぶ。…今はもう、誰でもいいとは思わない。彼女だからこそ、俺は安心して癒される。
俺は、メーティスを愛している。彼女の横でなら不安を忘れられる。彼女の前でなら強くなれる。…そして彼女の傍でなら、俺は子供でいられるんだ。彼女ほど俺を理解してくれて、俺のためを思ってくれる人は他にいない。……分かってるんだ。クリスの傍にいても、俺がそんな想いに救われる日は訪れない。
「…少し、寝よう」
独り言は壁に吸い込まれて柔らかく消え失せ、俺は装備を床に放ってベッドにバタリと横たわる。膝を畳んで胎児のように丸くなり、顔の前に放り出した両手をぼんやりと見つめながら、心が静まるのを待つ。気兼ねが無くなれば瞼は下がるだろうに、心が騒いで眠れなかった。
…クリスを傍で支え続けるなら、相応の関係というものが要る。俺は彼女と恋人という関係を結んで出産にも連れ添った。これが友達とか知り合いなら、ここまで踏み込むことは許されなかった。俺が感情のままメーティスに甘え、関わっていては、その内ゆっくりと俺はクリスの傍を離れていってしまう。だから関係をあやふやにしたままメーティスに支えられている現状が続いた所で、きっと自然にクリスから手を引く未来が訪れる。
はっきりと選ばなければならない。クリスから手を引いてメーティスとの仮初めの平穏を得るか、メーティスを突き放してクリスと共に絶望の奈落へ墜ちるか…。
前者で幸せを感じていられるのも、きっと束の間のことだ。メーティスに自分を預けきって、環境に慣れてしまえば、俺は再びクリスの境遇を見つめて苦悩し始める。自分が幸福であることを後ろめたく思い、その罪悪感に押し潰され、きっと毎日のようにメーティスに泣き縋る。
苦悩と切り離されるという一点では後者の方が気楽かもしれない。俺が破滅する時期が早まるだけだ。安楽死を選ぶようなものだろう。
…破滅してしまいたいと考えてしまうのは、現実への期待を捨てきれない裏返しかもしれない。俺とメーティスの2人しかいない世界に行けたなら、と、遂にはクリスの存在を否定したがってしまうのだった。




