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第82話 わたしのせい

遅くなりました

長いので無理はしないでください

「…じゃあ、行ってくるね」

 メーティスの鬱屈した挨拶に「ああ、気を付けて」と普段通りの態度で返す。彼女の隣に並ぶロベリアもしこりが残ったような表情で俺を見つめ、2人揃って魔鋼の装備を纏い玄関に立っていた。

「クリスのことは任せてくれ」

 少しでも肩の荷を下ろさせてやろうと告げると、ロベリアは余計に重苦しい空気を宿し、

「あ、うん。こっちも、任せて」

 と決まりが悪い笑みを浮かべて口早に答え、その視線は俺の腕にしがみついたまま微動だにしないクリスの腹部に向けられた。この数日の内に加速度的に膨れ上がったお腹にはしっかりとした胎動すら見られ、ペースの異様さから考えていつ産まれてもおかしくないと言われていた。本来喜ぶべき胎児の成長だが、その常識外れな勢いに周囲は戦慄し、診察中は肯定的な言葉を捲し立てているシノアも人目を盗んで不安を顔に出していた。当のクリスはと言えば、ただでさえ不安定な精神状態の所に周囲の表情で不安を煽られてしまい、以前にも増して俺から離れられなくなった。更には思い出に縋るようにお守りを片手に握り締め、かつてデートで俺が選んで渡したカーディガンを昼夜問わずに羽織っていた。この状況でたった1人毅然と振る舞おうと気を張っている俺は自分でも痛々しく思う程に道化だった。

 メーティスは身を屈めてクリスのお腹に優しく手を当て、しかし慈しむと言うには剰りに抑揚の無い口振りでお腹の子に声を掛けた。クリスはそんな彼女にすら無反応で、ひたすら俺の腕にしがみついていた。

「行ってくるね、リーベルちゃん。…ちゃん?くん?」

 メーティスは挨拶してから気になったようで首を傾げながら俺を見上げた。俺はそれに苦笑して肩を竦め、それを見たロベリアは労るように訊いた。

「ノイズ…やっぱり改善されない?このまま、産まれるまで性別とか様子とか分からないままかな?」

「…さぁ、どうなるかな」

 彼女の問い掛けにもまた、俺は肩を竦めて首を振るしかない。ことの始まりは数日遡り、診察6日目の出来事である。結局あの翌日にはつわりの苦痛がすっぱり消え、クリスは以前通りに通院出来る体調まで回復していた。そのため、充実した設備での診察が望ましいとのことで2日程様子を見てから通院形式に戻り、早速胎内の様子を見ようということになった。

 『カメラ』という光景を媒体に焼き写す『映像化』技術が数年前に現代に復活し、超音波により目に見えない場所を映像化する技法を用いて体内を診るという『エコー検査』が実用され始めていた。シノア曰くまだアムラハンとパンジャにしか設備が整っていない技法だそうだが、ともかくこれを用いてクリスの胎内を検査することとなったのだ。端子を腹部に押し当て、以前ならそれで白黒の映像に胎内の様子が映り込んでいたはずだったが、この日以降は画面一杯に白黒の点が入り乱れて暴れ回り何も分からなくなっていた。機械の不良を疑って調整と再検査を繰り返しても結果は変わらず、今日まで原因は不明のままだった。

「ノイズの原因は、機械の動作不良の線が消えて、ひょっとすると光の力が何か影響しているかもって話になった。クリスが産まれた頃はエコー検査なんてもの無かったから、過去のデータと比較できないし確証は無いんだけどな」

 う~ん、とロベリアは腕を組んで首を捻り、そこへ立ち上がったメーティスが俺の目を覗き込むようにして告げる。

「でも、それっておかしくない?光の力が原因なら、最初から『クリスの身体だと検査出来ない』ってことにならないと辻褄合わないし。最初の3日は検査出来たんでしょ?」

「あぁ…と言っても経過が初期だったからはっきり胎児の様子が見えた訳じゃないけどな。そこら辺はシノアもよく分からんって言ってるし」

 メーティスもロベリアと同様に腕を組み唸り始めたが、「…行かなくて大丈夫か?」と声を掛けてやると2人揃ってハッと顔を上げた。

「そうだね、急がないと!じゃあ、本当にお願いねレム!」

「レムくん、もし私達が帰る前に産まれるようだったら、その時は私達の分も応援して差し上げて。それも込みで任せていいかな?」

 今更に足元に火がついた2人に笑い、頷いて小さく手を振る。2人は此方を振り向いたまま既に歩き始め、手を振り返しながらせかせかと短い歩幅で進む。

「ああ、了解だ。悪いな、門で見送り出来なくて。クリスを連れ出すのも置いてくのも難しくて…。サラさん達にもよろしく言っといてくれ」

「ううん、いいのいいの!じゃ、今度こそ行ってきます!」

「行ってきます!クリスティーネ様も、ご健闘を!」

 最後の挨拶を済ませると2人は一目散に飛び出して、人とぶつかったら轢き殺してしまいそうな速度のまますぐ先の角まで向かっていった。流石に危ないので心配になり、玄関からクリスを引っ張って道に顔を覗かせて見ると、案の定角から曲がって現れたシノアとぶつかりそうになったメーティスが咄嗟に避けた末に盛大にすっ転んでいた。手短に「ごめん!」と謝ってロベリアとまた走り出したメーティスをシノアは苦笑して見送り、此方に気付くとにこやかに一礼して近づいてきた。彼女と会うのは偶然ではなく、決まっていたことだ。

 この日、4月1日は、ツェデクス基地の本調査の派遣日にして、安全な出産に向けてクリスをアムラハン城に登城させる日となっていた。出産を控えるなら普通は入院なのだが、クリスの出産は則ち勇者の世代交代を意味するので、普通に病院で出産というのは剰りに無防備な行動と言わざるを得ない。そもそも世界の今後に関わる大切な事案なのだから、国が関与するのはある意味当然のことだった。

「こんにちは、レムリアドさん。クリスティーネさん」

 シノアは目の前まで進んでから挨拶した。今日も白衣を身に纏った彼女は、ただアカデミーへの案内に来たのではない。彼女もクリスの出産の主治医としてアカデミーに身を置くこととなった。もう1人産婦人科から医師と、数人の看護師が招かれてクリスの世話に当たってくれるらしい。

「こんにちは、先生。準備はメーティスにしてもらったのでいつでも大丈夫です。もう出られますか?」

「はい、それでは…。あ、その前にご家族…あぁ、いえ、保護者の方にご挨拶させていただきたいのですが…」

「あぁ…」

 今回の登城にチェルスは呼ばれていない。現状でクリスの世話をしていたのは俺だったので、冷たいようだがチェルスを呼ぶ必要性は無いとされた。不必要に人数を増やしてもしょうがないことと、このまま彼女を出産に立ち会わせた所で彼女は祝福など到底出来ないであろうと予想がつくことが要因だ。俺達が城で生活を送る間、彼女は1人でこの家に残らなければならない。最近録に喋らず隠れるようにひっそりと過ごしている彼女に危機感を抱いていたので、俺個人としては連れていきたい気持ちの方が強かった。

 台所に歩くといつも通り彼女はテーブルに顔を伏して両手で額を押さえていた。もう何日も彼女は家事を半ば放棄して日中をこのようにして過ごし、料理などはメーティスが作ってくれるようになっていた。何をする気力も湧かないらしく、生活習慣をこなしたり気が向いて家事に携わる間を除いて全ての時間、彼女は許しを請うようにテーブルに平伏すのだった。…俺達がいなくなった後、彼女が自殺を図らないにしてもまともに生きていけるのか心配だ。

「チェルシー・セントマーカさん、娘さんの出産は我々が責任を持ってお手伝いさせていただきますので、どうかご安心なさってください。…やはり、お1人では何かと心細いかと存じます。チェルシーさんがよろしければ家事代行に1人通わせていただきたいのですが、いかがでしょうか?」

 シノアは丁寧に丁寧に、微笑みを絶やさずチェルスに話し掛けた。チェルスは僅かに顔を上げて「いえ…」と答えかけていたが、俺はそれを遮って「それは俺達としても安心です」と頷いて話を進めさせた。言葉の通り、今の彼女を誰かに任せておかなければ安心して此処を立ち去れない。

「分かりました。後で看護婦(づて)に頼んでおきます」

 シノアは俺の返しに頷いて一方的に宣言した。チェルスはもはや無理に断ろうともせず、流されるままに流されてまた深く項垂れていた。シノアは俺、クリスと見て躊躇いがちに「では、これで」と出発を切り出した。

「…チェルシーさん、そう日を掛けない内に戻ります。クリスとリーベルの帰りを待っていてください。…リーベルも、過程はともかくクリスの子に違いありません。気持ちは複雑だと思いますけど、どうか恨んだりせず、孫として迎えてくださると嬉しいです。…俺はもう、父親になる覚悟は…出来ています」

 これもまた一方的に告げた。俺は彼女に背を向けると、先にゆっくりと歩き始めていたシノアの後に追い付くべく進む。俺の右腕に纏わり付くクリスも旋回の内側でくるりと回り、ただ引かれる力に促されるだけで虚ろに歩いていた。

 そこへ、辛うじて聞き取れただけの小さな声が、

「…ばぁ…や……」

 彼女は俺の腕に額を擦り下を向いてしまっている。どんな表情でいるのか、どう口が動いているのかも分からない。しかし、それは確かに俺の耳に届いて足を止まらせた。クリスの言葉が続くのを期待して待ったが、それより先は一向に呟かれず、人の耳では聞こえなかったシノアは訝しげに俺を見つめて「行きましょう」と声を掛けた。仕方なく俺はクリスを連れて家を出て、幾らかの荷物を片手に城へと目指した。


 城内は金のシャンデリアに照らされ、高貴な純白の壁に囲まれていた。入口で衛兵に名乗ると真っ直ぐ王室へと導かれ、緊張を胸に扉を通されると、その部屋は金の壁と赤いカーペットで彩られギラギラと鋭いまでの温かみを帯びて迎え入れた。その奥には大きな赤い玉座があり、大きな身体に長い白髪と白髭を蓄えた気品のある国王がどっしりと座っていたが、彼はクリスを眼にすると途端に立ち上がり、その深い緑の瞳に悲しみを湛えてとぼとぼと歩き出した。

「…ク、クリス…クリスティーネ……あぁ、何という…!」

 国王は両手を此方に伸ばすようにして歩み寄る。王の前に整列するはずだった俺達はこうなるとどうすべきか分からず入口の傍で立ち尽くしてしまう。玉座の横に立つ大臣が冷たい眼で国王の背中を眺め、部屋の壁沿いに控えている数人の兵士達は私的な感情を一切持ち込まないように姿勢を正していた。

「すまなかった!すまなかったなぁクリス…!私がお前を守ってやれれば、このようなことには…」

 国王は深く悔いて俺に引っ付いたままのクリスの肩を抱き、俺はその光景に胸を熱くした。国王とクリスの関係は受け取った記憶から知っている。クリスが初めて恋をした相手であるファウディアー・C・ガーディアンはこの城の第2王子、そしてつまり目の前にいる国王はその父親なのだ。幼い日のクリスはファウドに会うために毎日城に出入りし、国王のことは本当の父親のように思っていた。その絆はファウドが亡くなってもなお失われず、国王はいつもクリスの味方だった。

 彼は光の血を後世に繋ぐためクリスと第3王子との縁談の機会を設けなければならない立場でありながらも、ファウドを失い悲しんだクリスの過去を知る身として最後まで彼女を庇おうとしていた。俺がクリスの傍を離れていた間、彼女を慰め励まし、力になれないことを謝罪し続けた彼のことを、俺もクリスも恨む筋合いは無かった。

「お初に御目に掛かります、国王陛下」

 俺は暫しクリスを彼の腕に預け、片膝を立てて跪いた。シノアもハッと我に返ると取り急ぎ俺に倣って跪き、国王は反応を示すことなく空中に視線を漂わせているクリスをしっかりと支えながら俺に眼を移した。

「私は魔王討伐軍第70期50号パーティリーダー、レムリアド・ベルフラントと申します。かつてアカデミーではルームメイトとして日々を共にし、現在はクリスティーネ様の護衛兼侍従に就かせて頂いております。本日まで謁見の叶わなかったこと、どうかお許しいただきたく存じ上げます」

「…おぉ、そうか…貴公が…。私こそ出向くことも叶わず申し訳ない。アカデミーから話に聞いておる。クリスの支えとなってくれたこと、心より感謝するぞ」

「はい、お言葉ありがたく頂戴致します」

 深々と頭を下げ、俺はクリスに両腕を伸ばす。国王はクリスを抱く腕を解き、立ち上がる俺に彼女を任せる。彼女を抱き止めた俺にうむと頷き、国王はまた視線をシノアへと向ける。

「そなたは、…シノア・サクレピオスと申したか…。クリスは私にとって娘も同じだ。どうか、大事の無いよう頼みたい」

「は、はい!微力ながらクリスティーネ様のサポートに尽力させていただく所存です!」

 恐縮しきったシノアにも、国王は祈りを込めるように真剣に頼んだ。フランクと言うのではないが、彼は国王でありながら身分を気に留めず誰にでも対等な態度を取る。『優しい王様』だとクリスは評した。俺の眼にも彼はそう見えるが、『優しい』というのは決して絆され易いというのではなく、彼なりに王の自覚の下善意に従っている。だからこそ彼は世界のためにクリスを犠牲にしなければならない現状も、客観的に見てその冷酷な選択が正しいという事実をも、最後まで好しとはしていなかった。

「国王様、戯れはそれほどにして…」

 大臣はパッと冷たい表情を媚びた笑みに隠して声を掛けた。国王はその発言に、それまでの彼とは別人と思われる程に壁を作った低い声で「分かっている」と言い返す。

 …あの大臣のこともクリスの記憶にある。国王の前では常に微笑み、影では政策の文句を叩き、そして部下や兵士に横暴な態度を取っている嫌な男だ。ファウドが大臣のことを快く思わないでいたため、クリスが初めて無条件の敵意を覚えた男でもあった。国王も大臣の本性は知っていて、しかし自分には思い付きもしない冷静な決断を下せる大臣のことを尊重しているようだった。…要は、頭がキレるものの器が足りない愚者のような男と言った人物だった。

 俺が思わず睨んでいると、大臣は癇に障ったのか顔を赤くして静かに睨み返す。国王は大臣の様子に溜め息を溢しながら、「さて」とまた俺達を向いた。

 国王は今後の過ごし方について話し始めた。多くは既にアカデミーで聞かされた予定だが、出産後のことについては国王とアカデミー側とが交渉しておかなければならない。その交渉が俺達の訪問の前に済んでいたため、そこで決まった方針を聞いておく必要があった。

「――赤子は幼少をこの城で過ごさせよう。3つの頃になれば様子を見てクリスの邸宅へ住まわせるのも良いだろうが、いずれにせよ世話は新規の使用人を付ける。チェルシーは既に老体の上、聞くに今は仕事を与えられる状態では無いようだからな。状況が落ち着けばチェルシーには隠居を促すか、もし可能であれば元の役職に戻ってもらうとしよう。レムリアドよ、貴公には今後ともクリスを任せたい。アカデミーとの取り決めに従い、クリスにはその役を降りて療養と休息に専念してもらうが、チェルシーが外れるとなれば貴公を置いて他に適任者はいないだろう。しかし、これは貴公の今後を大きく変えることだ。貴公にその気がなければ無理強いはしない。頼まれてくれるだろうか?」

「国王様のご命令とあれば承りましょう。私は彼女と連れ添う覚悟が出来ています」

 恩に着る、と国王はまた祈るように頭を下げて息をついた。

「私からの話はこれで終わりだ。先の兵に部屋への案内させよう。では、どうか頼んだぞ」

 国王はそうして玉座へと戻っていき、代わってここまでの案内を務めた兵士が「お二方、此方へ」と丁寧に呼び寄せて俺達を廊下に連れ出した。シノアは緊張が解けて少し肩を下ろし、道中は労るようにクリスを眺めていた。


 案内された部屋は、幼少のクリスがファウドとよく遊んだ子供部屋だった。広く白い部屋にカーペットが敷かれ、壁に沿って離れ離れに並んだ家具はどれも高級な造りで、大きなベッドが壁に頭を向けてくっついている。俺とクリスはそこで過ごすこととなり、シノアは隣の部屋で他の医師や看護師達と生活を共にしつつクリスを世話しに来てくれた。それまで俺がこなしていたデリケートな事情の世話も看護師達が殆ど代わってくれたので、俺は心置きなくクリスを励ます役回りに努めた。部屋の外にはマイク達教員が見張りにつき、万が一の侵入者にも対策は万全だった。

 そして3日後の早朝、早くもクリスの容態に変化が起き、俺は無礼を承知で医師部屋をノックした。シノア達は直ぐ様クリスを医師部屋へ迎え、分娩台に横たわらせた。光の血筋でもクリスのようにレベルが上がっていれば魔人と同様に感覚の遮断を行える。感覚の遮断は全身の脱力と共に発動するため、これを用いれば胎児が子宮を降りるのもスムーズに進む。その観点で言えば本来俺が付き添う必要は無い訳だが、思い返すとクリスはつわりの時に感覚の遮断が出来ていなかった。それが気掛かりだったことと、クリスも俺がいた方が安心だろうという事で付き添えることになった。国王を初め城内の重役達も報告を受け、部屋の外で待機してくれている。

「クリス、力を抜くんだぞ…。力抜いて、感覚を断つんだ。アジトで言われたことなんか気にするなよ。お前の好きに感覚を断っていいんだからな」

 俺は喘ぐクリスの手を取って耳元で囁く。…クリスが感覚を断たないことに、実は心当たりはあったのだ。クリスはツェデクスのアジトにいた時、ミファを人質に取られて感覚を断つという行為を禁止されていたのだ。トラウマによりその時間が染み付いているクリスは、自分の意思で感覚を断てなくなっている可能性があった。

「クリス、ほら、息を深く吐いて。それでそのまま、力を抜いてしまおう。リードの言葉なんか気にするな。俺がついてるから、安心していいんだぞ」

 優しく語りかけ、彼女を縛る鎖から解き放とうとした。しかし、不意にクリスは首を小さく横に振った。肉体の苦痛で無理やり正気に近づけられた彼女が、はっきりと俺にその意思を示したのだろう。その想いに気付いたのは俺ではなく、俺の中に記憶と共に住むクリスの心だった。…クリスは、我が子に自分の使命を押し付けることに責任を抱いていた。だからせめて、この子が産まれるための苦悩だけは、自分も背負わなければならない。今クリスは、その思いのために自ら苦痛を噛み締めていた。

 俺はもう余計な言葉は掛けなかった。頑張れ、頑張れと、繰り返し同じ言葉で彼女を応援した。彼女だって訓練で何度も傷を受け、痛みには当然強くなっているだろう。しかしそんなことは問題じゃない。そんなことはクリスを応援しない理由にはならない。最後の責任を果たそうとする彼女の気概に俺も応えたく思ったのだ。

 クリスは激しく喘ぎ、しかし決して絶叫したり、力を入れたりはしなかった。苦痛を抑え込んで、腹の力を抜き、しかし感覚だけは断たなかった。お腹の子は躓くことなくスルスルと進み、破水から時間も掛からない内に終わりが見えていた。

「もう少しです!もう少し…あっ、顔…が………ぇ…」

 視界の外でシノアが声を上げていたが、俺は振り向く暇もなくクリスを応援した。クリスもそんな俺に応えるように俺の目を見つめた。

 妙に静かな部屋の中で、ボトリと重い音が落ちた。出産の感覚を終えてクリスがやり遂げたように息をつくのを見て、無事に産まれて来てくれたと目眩がしそうな程の安堵を覚えた。クリスも僅かに微笑む。しかし、ふとクリスが身体の先を見つめた途端にその表情が青冷めて固まる。予感はあったのだ、何かがあるという強い予感が。彼女の怯えに感化され、恐る恐る、その産声を上げない赤子へと視線を移す。その子は…リーベルは…俺達がよく知る赤ん坊の姿より一回り大きな身体を、硬直するシノアの腕に収めていた。

 縦太い首は前後左右へ、触手のように大きく動く。白目を埋め尽くす大きな青い瞳は切れ目のような瞳孔を持ち、やや離れて配置し分厚い瞼に守られている。前方に突き出された口は嘴のように角張っていて、横に大きく裂かれて二重に並んだ肉食獣の歯を覗かせる。頬には4本筋の(えら)があって、細長い耳は頭上から後ろへと伸びている。鼻は両目の間に小さな鼻腔が並ぶだけのものがある。乳白色の皮膚は蛙のように滑らかでブニブニした質感を思わせる。

「ひっ…ひっ…ぃ…はぁ…ぁ…」

 クリスは顔を強張らせ、息が喉を通らない。それでも目前の地獄は続く。

 羊水に汚れた身体は背面全体を小豆色の鱗に覆われ、頭頂から腰にかけてはその鱗が避けて薄く赤い鬣が生え、鬣は腰から伸びた先端に(ひれ)のある太い尾に終息している。肩は丸まり腕は斜め前に、足が完全に前方へ伸びている。

「う、う…ふぅっ…ぅ…あぐっ…ぇぅ…う…うぅ…」

 クリスは喉と胸を押さえて呼吸するように嗚咽く。目は一瞬にして血走り、瞳孔は針を刺したように小さくなる。それでも目前の地獄は続く。

 手は少し大きく、指の間には水掻きがあり、その少し短い指には縦に付いた刃のような爪がある。肩から手首にかけて広がっていくようにして翼のような大きな太い鰭が付き、その鰭には翼の骨格のようなものが混ざり込んで金の羽毛が散在している。二の腕の筋肉は肥大化し、肘から下は急に細くなっている。脚も脹ら脛が強靭に、その先は細くなり、指の間には水掻きがある。股の間には生殖器が確認されず、排泄機能も存在しないように見えた。

「うぶっ…げぇ……はぁっ…はぁぁっ…」

 ふと、リーベルの喉が振動し、クルクルクル…と鳴き声が響く。とうとうクリスが激しく吐いて痙攣し頭を引っ掻き回し、シーツをあらゆる体液と汚物で濡らす。

 それでも、この地獄は終わらない。

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