第79話 いみごのこ
翌日、俺はクリスの世話をロベリアに、チェルスが自棄を起こさないかの監視をメーティスに任せた。
クリスに関しては公園での嘔吐やそれ以前からの体調不良を考慮し、アカデミーに無理を言って病院側の準備を急がせてもらった。アカデミーとの連携のお蔭で病院は既にクリスを診察する準備を完了しており、俺が出掛ける間にクリスを病院に連れていけることになった。
チェルスも、クリスの身に起きた事件に次ぐ事件にすっかり混乱してしまい、自分を責めては泣いてキッチンのテーブルに突っ伏している。思い立って自殺に走るとも十分考えられる狼狽ぶりに、とても1人でいさせるわけにはいかなくなった。召喚師であるメーティスならば慌てようがどうなろうが人間の腕力の状態で対処が可能なため、何かあってもチェルスを傷付けずに取り押さえることが出来る。
2人の配置はそうした計算の下俺が割り振ったが、メーティスには「淡々と決めないでよ!」と怒鳴られた。必死に感情を圧し殺して冷静に徹した俺が、メーティスには冷酷に見えたらしい。…今思い返すと俺も子供染みていた。彼女にそう怒鳴られた瞬間、あろうことか俺は彼女の胸ぐらを引き寄せて、
「これが平気に見えるのか!?お前こそ思いやりがねぇよ!」
と怒鳴り返した。…彼女だって一杯一杯で、俺の気持ちを慮る余裕など無かったに決まっているのに…なんて情けない。俺がこんなことでどうするんだ。これからクリスを支えていくというのに、これではとても頼りにならない。
自戒し、一晩クリスの傍に付きながら真剣に考えた末、朝一番にメーティスに謝罪した。もうこんな失態は晒さない、本当に悪かったと頭を下げると、メーティスも同じように頭を下げて謝った。そうした騒動があってから昼過ぎ、俺はアカデミーに出向いて臨時会議に出席していた。校長室で全教員が輪状の机を囲んで向かい合い報告と議論を行う。
議題は当然クリス誘拐の件と、今後の動きの検討についてだった。俺が知っている限りは全て話して聞かせ、教員達は書記を用意していながらも各々でそれを手元に書き留めた。ミファのことについても言及はあったが、俺から伝えられることは殆ど無い。未だ人質にされていることしか分からなかった。
そうして俺からの話が終わって座ると、教員を代表してマイクが立ち上がり俺を見て話し始める。細かい事情は知らないが、当初から個人訓練等で比較的クリスとの接点が多かった彼が本件の中心として動くことになったらしい。彼は感情的に眉を寄せながらも、冷静に報告を進めていった。
「…50号側からの事情は概ね把握しました。本件についてアカデミーの視点としては、リード・I・ベトルにまんまと出し抜かれたこと、そしてクリスティーネ様に関する様々な問題を察知していながらその解決に消極的であったことが今回の過失とされます。特にリードについては、この4年の内に表立った事件が乱立していたことを特定に結び付けず、卒業後の観察もフィールド中のみと見積もりの甘さもあったことが素因と考えられます」
『卒業後の観察』というのは既に聞かされ納得した事柄だった。勇者とそのパーティを送り出すということは、つまり魔物と戦わせるということなのだから、万が一はあってはならない。彼女らがフィールドで資金を調達し始めた場合、最初の数ヶ月だけでも密かに尾行して身の安全を保証しておくのは当たり前のことだった。
つまり、アカデミー側はクリス達の動向に気を配る努力はしていたのだ。リードはその網の範囲を事前に理解し、いとも簡単に脱け出してみせた。例えその網が更に緻密に張り巡らされていても、リードはきっとどうにでも出来たであろう。この事についてはこれ以上アカデミーを責めても得るものは無い。…それよりも訊ねたいのは後者についてだった。
「…クリスティーネ様の問題、というのは…?」
マイクは他の教員達と視線を交わした。どの教員もその答えを押し付け合うように顔を見合わせていき、とうとうマイクも黙ってしまった。俺が質問を取り下げようとしたまさに矢先、部屋の奥へと縦に伸びたテーブルの輪の端で厳粛に腕を組んでいた校長が大きく息を吐いて立ち上がった。彼はマイクに眼を配せて「それは、私から」と役を奪った。
「彼女は勇者とはいえ、まだ若い。いや、若くなくとも、このような行いは批難されて然るべきだろう。私達はそれを承知の上で彼女に苦痛を強いてきた。…彼女は繊細な女性だった。我々の煮え切らない態度が余計に彼女を苦しませたに違いない。我々は非情なら非情、温情なら温情を貫くべきだったのだ。この問題の過失はそこにある」
「…いまいち、要領を得ておりませんが…」
「あぁ、申し訳ない。今のは言い訳だ。……まず、光の勇者の血筋は絶対に繋げなければならない。今人々が聖水林の加護の下で暮らしていられるのは、光の神の力…そしてまた、光の神の力を継いだ者達の存在のお蔭だ。勇者は等しく光の神の分身と言え、光の神の力が途絶えれば聖水林はこの世から消え去る。光の神の亡き後、人々の生きる場所を存続させたのは光の神の血を引く勇者達だった。よってその家系を万が一にも絶ってはならない」
それもまた、明確に答えた言葉ではなかった。しかし、彼の発言はクリスへの仕打ちを想像するには十分だった。腹立たしく、拳を握り締めて、俺は校長の声を遮るように立て続けに告げた。
「…だから、アカデミーはクリスティーネ様に子供を儲けるように催促した。彼女の、年相応な想いも全部踏みにじって…。…そういうことですか…!?」
校長は否定せず、痛みを堪えるように眉間にしわを寄せて目を瞑った。
「…君が言うように、非情に徹しきっていたなら寧ろ良かった。彼女も私達を素直に恨んでくれただろう。…しかし実際には、我々はその意向を匂わすことしかしなかった。『今の勇者が死ぬ前に次の勇者が生まれなければ全員が困る』と、それを彼女自身に気付かせようと言外で伝え続けた。…その結果、彼女は自分の感情を押し殺し、卒業前に我々に宣言したよ。『すぐに次の勇者を用意します』とね」
「…なんて、…なんて非道を…。…あんたら、よくもそんな事が出来たな。あんたらは何の決意もせず、責任も負わず、無関係のフリをして、それでクリスに何もかも押し付けたんだ。…それがどれ程邪悪な行為か、ちゃんと分かっているのか…!?」
他の教員達は誰も言い返さない。多くの者は気まずそうにテーブルに俯く。例外は3人。マイクは変わらぬ表情で己を悔い、エラルドは自らも嘆きながらマイクを気に掛け、ゾルガーロは『だからどうした』とでも言うように感情の無い冷たい顔で俺を見上げた。そして校長は俺の怒声に答えるでなく、感想のように呟いた。
「…私は、彼女と、城の第3王子とが契りを交わすものとばかり考えていた。国王様自身はクリスティーネ様の肩を持っていたとは言っても、城の方針としてはアカデミーと同様に彼女の出産を望んでいた。そのため国王様や大臣閣下は、君のいないこの1年で頻りに第3王子と彼女を会わせていた。その理由を彼女に知らせることは最後までしなかったものの、それでも彼女が我々の思惑に気が付いたなら、彼女もその相手は第3王子と考えるはずだった」
「…何を仰りたいんで…?」
「卒業間際になって、彼女はリードと関係を持ち始めた。第3王子や、君ではなく、リードと…。生徒の間で噂になっていたことで発覚した情報なため偽りがあるかとも考えたが、…彼女がそれだけの信頼をリードに置き、リードがその信頼を利用して隙を突いたのだと考えれば誘拐までの経緯も推測が立つ。昨日マイクくんを通じて君の報告を伺ってから、私なりに説明がつくように情報を整理した結果がこれだ」
…俺は混乱した。クリスが自分の意思でリードと、などとは考えたくなかった。しかし、心が認めたくなくとも理屈は分かってしまう。校長が口にした以上に、クリスがリードと関係を持つに至る彼女の思考が見えてきてしまう。
簡単なことなのだ。彼女は使命感が強く、しかし時として感情的になり易かった。ファウドとの約束や、自身がその約束に反する存在だという思い込みが、彼女の思考を縛り付けていた。そして世界中の人間が自分の安易な行動で不幸になり得るという前提が重く伸し掛かっていたことは、先日公園でした彼女との会話で明らかになっていた。
それらを踏まえてもう1つ、彼女は俺への感情に正直になることを怖れていた。これも昨日の会話の通りだ。恋愛感情を自分に許してしまうと、彼女は俺と繋がることを望み、また俺と共に逃げ出すことを望んでしまう。その果てに産まれた子供も、自分と同じ人生を歩ませないように守り続け、世界の命運など放棄してしまう。…実際にそうなった時、どうなるかは問題ではない。彼女自身がそうなると強く自覚し、それを絶対に避けるべき事態だと考えた。そのために、彼女は俺を相手とすることを絶対に認めなかった。
そうすると、彼女の中では答えは2択になる。『俺と結ばれて世界を捨てる』か、『俺を裏切って世界を救う』か。…彼女は俺とのことよりも世界の命運を優先した。それは恐らく英雄的と称賛されるべきことで、俺も彼女をどうにか許さなくてはならない。…しかし器の小さい俺は、彼女を潔く許すことが出来なかった。
「…面識の少ない相手よりは親しい相手との方が、彼女にとっても安心だったんでしょう。それにかつて、『光の神が人間を愛したせいで世界がこうなった』と彼女は言っていました。彼女は恋愛感情で相手を選ぶのを良しとしないでしょう。それが拗れて、好きな人と距離を保ち、そうでない相手との子供を選ぶというのは、生真面目過ぎる彼女らしい考え方かと」
俺は冷静に努めて切り返した。とはいえ、唐突の冷静が却って困惑を露呈させていたようではあった。校長は俺の目を見ると申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「余計なことを言った。単に、私は彼女が君を選ぶ可能性を考えていたから不思議に思ったというだけだ。出来れば忘れてくれたまえ」
「いえ、大丈夫です。大丈夫」
校長は席に座り直し、マイクの方を見上げる。マイクもそれを見届けて報告書をパラパラと素早く捲る。
「悪かったね。マイクくん、続けてくれ」
「はい」
校長の発言で言及された部分を省くためか、もう数秒要してから話し始めた。俺は激しい疲労感と茫然自失でまともに彼の言葉が頭に入らなかったが、辛うじて口先で返事は出来た。
「――ともかく、報告にあったツェデクスのアジトには、第50号パーティから2名を抜擢し、その案内の下複数パーティで調査に向かうこととします。此方としてはメーティス・V・テラマーテル、ロベリア・プライムの2名を指名し、君にはクリスティーネ様の護衛兼お目付け役としてアムラハンに残ってもらいたいと考えています」
「承知致しました。帰宅後依頼を伝えておきます」
「はい、お願いします」
マイクは了解を得るとホッと息をつき、書類をパサリとテーブルに置いて心配そうな眼を向けた。
「会議はまだ続けますが、一先ずレムリアドくんと話し合うべき部分は終了しました。…顔色も優れないので、今日はもう帰って休んでもらった方が…」
マイクの探り探りの提案に校長はすぐに頷き、
「ええ、そうですな。…レムリアドくん、ご苦労だった。病院の方ではクリスティーネ様の検査があるだろう。行ってやったらどうかな。…重ねて言っておくが、彼女は我々に追い詰められた。心が疲れきっていたんだ。我々が言えたことではないかもしれないが、彼女のことは君だけは許してあげて欲しい」
念を押しながらエラルドに眼をやり、彼女はそれに頷くと立ち上がって俺の背後へと歩いて回ってくる。俺を立たせ、テーブルに置いていた会議資料を受け取った彼女は俺の背中を押し、俺はその手を無配慮に叩き退けて「歩けます」とドアへ歩いた。立ち尽くす彼女に謝ることなく、「失礼しました」と一礼して会議室を出る。仕事の態度として明らかに問題のある俺を責める者は現れなかった。
……俺にはクリスを責める資格はない。彼女がリードに身体を許したと言うのなら、俺も4人の女性と同時に関係を持った過去がある。だからお互い様だ。俺が許せないように、クリスも俺を軽蔑するべきだ。もしかすると、彼女も俺の過ちを免罪符にしてリードと交わったのかもしれない。そうであれば、なおさら俺は彼女を責める資格がない。
…やはりもう無理なのかもしれない。俺とクリスが純粋な気持ちで愛し合える日は何があっても訪れない。どれだけ後悔しても、償おうと足掻いても、またその罪に涙ぐましい苦悩が滲んでいたとしても、罪は罪だ。前科は前科だ。罪人は一生賢者になどなれないのだ。
アカデミーを出て病院へ向かうと、2階の待合室で子供用の玩具を手の上に転がすクリスと共にロベリアがソファーに腰掛けていた。彼女は俺が現れると、それまで薄暗かった顔をより一層青くして顔を上げた。クリスは俺に気が付くと、玩具をソファーに投げ出して両腕を広げ、パタパタと駆けて俺の胸にぶつかった。表情は変えず、喜ぶでもなく、ただ無言で抱き着く彼女の頭を俺も無言で撫でる。
彼女はものを言うことも無くなった。感情を表すこともやめた。仕草だけは拙く甘えるようではあるが、それも怯えを孕んでいて痛々しく思えた。俺は彼女に会った瞬間、それまでの複雑な心境を忘れ去った。
「検査の方、どうだったんだ?」
訊ねるも、ロベリアは膝に両手を置いたまま俯いて答えない。
「…アカデミーの方で検査の内容は決めてもらってたんだろ?何の検査したんだ?」
またしてもロベリアは答えない。クリスも、この状態ではまともに答えられないだろうし、そもそも状況を自分で理解できる程の認識力が健在かも怪しい。2人から聞き出すのは諦め、俺は周囲を見渡した。
傍にある部屋はどれも診察室、診療室だった。壁に貼った案内プレートを見ると、ソファーから正面は整形外科、そこから左へ移ると…皮膚科、小児科、産婦人科。…ふと、マイクから聞かされ、俺が呆けて聞き流していた話を思い返す。
『勇者の家系、特にそれが女性の場合、妊娠の発覚や胎児の成長は通常の人間よりずっと早くなります。妊娠の可能性がある限りは短周期での通院が必須となるため、リードとの噂が出始めた段階である程度病院に診察の準備をしておくように通達しました。今回、1日の内にクリスティーネ様の受け入れ準備が整ったのはそうした背景があります』
そこへ、かつかつと速い足音が近付き、気を失いそうだった俺の前に立ち止まる。ロベリアが静かに立ち上がってその女性に向かうと、女性は「お待たせしました」と高く作った声を掛けて一礼しまた俺を向く。クリスは見向きもせず俺にしがみつき、俺はゆっくりと顔を上げて目の前の女性を見た。白衣を纏い聴診器を首に掛け、バッサリと短くした金髪は記憶にそぐわないながらも、落ち着いた緑色の瞳は以前と変わらぬ優しい印象を醸していた。
「…シノア…」
「お久しぶりです、レムリアドさん」
彼女は自然に頭を下げ、俺も慌てて頭を下げる。互いが顔を上げると、「あなたをお待ちしていました」とシノアが寂しく微笑んで告げた。俺はそれに「そう…でしたか」と歯切れ悪く返し、下手なことは言うべきでないと考えもしたが、やはりそうはいかず大きく頭を下げた。クリスは俺が動くとスッと横に避けて、しかし両手で袖を摘まんで俺を見るともなしに見つめていた。
「…いつかは、すみませんでした。本当に申し訳ありませんでした。俺の勝手で、酷く傷付けるようなことを、侮辱するようなことを言ってしまって…」
謝っても足りない。許されない。病院までの道を過去を振り返りながら歩いてきた俺はそう強く痛感していた。シノアは俺に手を差し伸べようとして、しかしその手をすぐに下ろし、困り笑いのような声で答えながら首を振った。
「昔のこと、ということにしましょう。幼かったんです、私もあなたも。ですから謝らなくてもいいんです」
気にしていない、と繰り返す彼女の言葉が、許さないと邪推されて聞こえた。彼女にそんなつもりは無いだろうと分かってはいるが、どうにも気落ちして立ち直れないでいた。ともかく顔を上げ、仕事の会話ということで割り切って話を進めることにした。
「分かりました、ありがとうございます。…それで、待っていた、ということですが…」
「はい。…では、すいません。レムリアドさんは此方へ。…ロベリアさん、クリスティーネさん、気を付けてお帰りください」
ロベリアは静かにシノアの礼に礼を返し、「さぁ、行きましょう」とクリスの手を引いて1階へ歩く。クリスは俺から引き剥がされてしまったが、特に顔色を変えることもなくじっと俺を見つめて大人しく連れていかれた。俺はシノアと共に診察室の1つへ入る。そこはやはり産婦人科のプレートの先にあった。
「…もう、お分かりになっているかもしれませんが、クリスティーネさんの事情についてはレムリアドさんに知っていただかないといけないとのことだったので、こうしてお呼びしました」
シノアはデスクに向かって棚のファイルからカルテを選び取り、俺と眼を合わせながら告げた。俺はもはや確信に近い嫌な予感を感じて椅子の上に畏まり、
「…産婦人科の先生なんですか」
と堪らず話を逸らしていた。シノアはトントンとカルテをデスクで叩いて揃えながら、
「元の専門は違いますよ。ですが複数科目の知識を学んでいたことと、私がクリスティーネさんと知り合いだということもあって、今回の担当に就かせてもらっています」
と、落ち着いた調子で答えて身体を俺に向けた。流石にそうなると俺もまともに顔を合わせるしかなくなり、シノアの報告を黙って聞いた。
「クリスティーネさんに陽性の反応が出ました。妊娠してます。経過は着床から人間単位で4、5週間相当と見られて、つわりの症状も出ているようです」
残酷なまでにあっさりと、その現実は目の前に突き付けられる。俺は自分で自分がどんな表情をしているかも分からない程に参り、反応もなく彼女の言葉を聞き続けていた。彼女は親身に俺を見つめ、話し方をゆっくりにして懸命に伝えた。
「勇者の血を引く女性の妊娠記録は閲覧したので、今回のクリスティーネさんの手助けもこれを基に行っていきたいと思います。…クリスティーネさんがどう思われているのかは見ていてもよく分からなかったのですが、どのみち堕胎は出来ません。産む方向で進めていきます。…拐われた先で、とのことで、経緯からしてレムリアドさんも複雑かと思いますが、どうか諸々のご理解をお願いします。…それと、これは精神科医としての意見ですが、かなり危険な状態ですので、些細な刺激も与えないように気を付けてあげてください。また気を付けていても突然幻覚を見たり、妄想と現実の区別が付かなくなったりして不可解な行動を取ったりもするかもしれません。そういう時はちゃんと彼女の声を聞き入れて、安心させてあげてください。そちらも含め、よろしくお願いします」
彼女としてはまだ話すべきことはたくさんあったのだろうが、俺にはもう限界だった。シノアはそれを悟ってか、「用件は以上です。お大事に」とせかせか俺を送り出した。俺は押されるままに病院を後にして、ポタポタと足の向くまま歩いた。
…クリスが拐われた先で受けた仕打ちも何となく察していたし、そうであれば妊娠の可能性だって考えないでもなかった。しかし、それが現実になると覚悟できるかどうかはまた別の話だ。…彼女がこんなにも悲惨な目に遭う理由がどこにあったと言うんだ。どうして世界はこんなにも彼女を責め立てるんだ。
俺は世界を呪った。アカデミーを呪った。アムラハンの住民を呪った。非道な男達を、浅慮な大人達を呪った。そして、口ばかりの自分を呪った。
ふと、足は街の外れの託児施設に向かった。歩いていた方向は真逆だったはずだが、いつの間にか街をぐるりと回ってきていたようだ。アカデミーと比べればまるで広くない庭に、1階立ての建物、石造りの低い塀。運営する人数もそう多くはなく、預けられる子供もどうやら少なそうだった。とはいえ子供は元気に走り回り、迎えに来た親は立ち話をしていて公園程度の賑やかさはある。…こんなに優しい光景なのに、今は憂鬱にしか感じない。
ふと、親の集団に白い目で見られながら出てきた女性に眼を奪われる。まだ首もろくに座っていない赤ん坊を大切に抱いて、その子に慈愛の笑みを注ぐ薄緑髪の彼女は、不意に俺に気が付いて顔を上げる。そして驚きのあまり立ち止まり、俺も彼女も言葉を失った。
「……レムリアド…様…」
ポツリと、彼女は呼び掛けながら1歩近づく。彼女はかつて俺が身勝手にその腕に抱いた4人の女子生徒の1人、イシュルビアだった。




