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第78話 もどらぬ心

 防具屋で装備の修繕を依頼して真っ直ぐ家へ戻る。久しぶりにリザードと会ったが、俺の顔を見て何か感じたのか「またその内気が向いたらこい」と言ってすんなり帰してくれた。状況が落ち着いたら彼とじっくり話そうと思う。

 帰ると玄関でチェルスが出迎えたが、その表情は暗く瞼は何度も擦ったように赤くなっていた。聞くに、もう2人が風呂を上がり、クリスは私服に着替えて自室に篭り、ロベリアは熱心に風呂を掃除しているという。

 メーティスはクリスが今1人になっていると聞くと駆け足で階段を上がっていき、俺はその後を追おうとしてチェルスを通り過ぎた。けれどチェルスをそこに置いて去ることに抵抗を覚え、振り向いて見るとチェルスは脆く崩れそうな儚い微笑を湛えて俯いていた。俺はそこに留まってもう少し話すことにした。

「…心中、お察しします。…チェルシーさん、本当にすいませんでした。俺達が不甲斐ないせいで…。いつかは勇者の話まで聞かせていただいて、クリスのことも任せたいと言ってくださったのに、結局仲間にもなれず傍にもいられず、みすみすリードに…」

「…いいえ、…あなた方は何も悪くありません。『せい』と言うなら、元々私のせいです。…何年もあの子の傍にいながら、私は何もしてきませんでした。幼少から人に疎まれるあの子を救ってやれず、この数年はここに帰る度に泣いていたあの子を簡単な言葉で慰めて無理をさせ続けていました。…果てに、この1年は、…あの子の想いを無視してただ世継ぎが生まれることばかりを願っていました。…光の血さえ繋がれば安心してお嬢様を送り出せる、と、…今思えば下らないそんなことに気を取られ、彼女の負担を考えていませんでした。…これは、そんな私にバチが当たったのだとしか思えないのです。あの子を大事にしなかった私に下った天罰だと。差し出がましくも、私はあの子の親のようなつもりで世話をしてきました。だというのに、…私はあの子を…」

「…クリスはきっと、あなたを恨んでなんていませんよ」

 こんなことしか言えない自分に腹が立つ。チェルスはまた口を噤んでしまった。…『世継ぎが生まれること』…それは単にクリスが子を授かるという家族の幸福を願ったのではない。クリスの子はすなわち『勇者の末裔』だ。光の勇者としての遺伝子を残し、()に繋げるために、クリスは子供を産むように周囲から望まれていたのだろう。クリスが万が一に殉職しても、また次の勇者に時代を繋げられるように…。それは決して、クリスにとって快いものであるはずがない。それは彼女を替えの利く道具にしてしまうことと同義だった。

「…あの子の口から、あんなことは聞きたくありませんでした…」

 チェルスはそう呟くと顔を上げて俺を見た。言われても心当たりが無かったが、彼女の懐かしみ嘆くような瞳に俺の眼は引き込まれた。

「…あの子が8歳の頃、1度だけ私が重たい風邪を引いてしまったことがありました。あの子は風邪を引いたりする身体ではありませんから、勝手が分からなくて大慌てで…ずっと涙目でした。それでも懸命に看病をしてくれて、お蔭で夜には体調も持ち直してきました。私が寝ているベッドに凭れ掛かって、じっと私の手を握ってくれた彼女は、その夜私に溢したんです。…『婆やと同じに風邪を引きたい。私も人間だったら良かったのに』、と。街の子に虐められて散々辛い思いをしていたはずのあの子は、『痛みや苦しみを分かってあげたい』…そんな理由で人間になりたいと言ったんです。…私はあの子を誇りに思います。あんなに優しい子は世界中を探しても絶対見つからないと本気で思っています。……なのに、私も、世界も、あの子を絶望に落としてしまいました」

 『わたし…にんげんじゃないのに…』。クリスの言葉が脳裏に蘇る。…彼女はもう諦めてしまったのだ、何もかもを。チェルスの言葉を聞いた今、俺はクリスの拙い一言からあらゆる絶望を、周囲の人間達の無自覚な悪意の数々を感じ取った。…俺はクリスがそうした悩みを常に抱いていたことを予てから知っていただけに、益々何もしてやれなかったのを後悔した。

「私はあの子の母親として剰りに未熟でした。衣食住をただ与えただけで、他には何もしていません。守ってもあげられません。慰めてもあげられません。あの子に必要だった温もりを、私はつくづく与えられませんでした。…ここでの世話は飽くまで仕事だと、公私の一線は越えないようにと、そんなどうでもいいことで燻ってしまって…私は、人として間違っていました…」

「…俺はあなたとクリスとの日々を知りません。クリスとも、たった1年と少ししか傍に居られませんでした。だから言えることは、やっぱりただ1つです。…クリスはあなたを恨んでなんていません。ここへ帰ってきて、あなたに会った時、クリスが心から嬉しそうにしていたのを見たでしょう?クリスはあなたを本当の親のように慕っているのだということは、あなたにだって伝わったはずです」

「それは分かっています。…あの子が私を慕ってくれるから、私は余計に申し訳ないんです。…あの子の笑顔を受け取る資格は、私にはありません…」

 そんなことはない。…そうと口にする寸前になって、廊下の先の角からロベリアが現れて「お風呂の掃除終わりました」とチェルスに報告してきた。振り向いてそちらを見ると、ロベリアは風呂掃除を終えただけにしてはやけに憔悴した青冷めた顔で歩いていた。服装は半袖ショートパンツと夏向きの様相で、濡れた髪をタオルで纏めた様子から浴後のことを窺えたが、両手脚を洗い直したのか局所的に石鹸が香っていた。

「重ね重ねありがとうございます。…では、私は夕食の材料を買いに出ますので、これで…」

 チェルスはロベリアと俺に頭を下げるとそのまま出ていってしまった。元々出掛けようとしていた所に俺達が帰ってきたのかもしれない。行ってらっしゃい、とチェルスを見送ってロベリアと顔を合わせると、彼女は無理に笑顔を作って明るく話した。

「レムくん、お風呂入ってきたら?長旅でずっと入れてないんだし、昼間だけど入った方がいいよ」

「それならメーティスが2階にいるから呼んでくる。俺は後でいいから」

「どうせ皆お風呂に入るだろうからって2人の着替えは脱衣所に置いてるし、わざわざ呼びに行くより今レムくんが入った方が早いよ」

「そうか…。じゃあ、ありがたく入らせてもらうよ」

 下手に口論することでもない。気掛かりなことが多い今、誰にも、少しでもストレスは与えたくなかった。俺は速やかに頷いて風呂場へと歩き出していたが、ふと気になって階段の方へ向かおうとしたロベリアに立ち止まって訊ねた。

「なぁ、1回クリスと入ってからまた風呂洗ったのは何でだ?俺も上がる時洗った方がいいのか?」

「え?…あー、いや、う~ん……。あのね、クリスティーネ様が、その、ちょっとね…」

「うん」

「…ちょっと、お湯が気持ち良過ぎて驚いたのかな、って…。…それで、粗相しちゃって…」

「粗相…?何かしたのか?」

 ロベリアは必死に言い方を悩んでいたようだが、俺が要領を得ず追及すると両手と首を振って誤魔化した。

「ううん!やっぱ聞かなくていいよ!言っても良いこと無いし!」

「…そうか?まぁ、じゃあ、俺は風呂洗わなくていいんだな。1人入る度に湯を抜いても勿体無いし」

「そうだね、いいよ。普通に出てきて」

 頷き合って俺がまた歩き出そうとすると、今度はロベリアが思い付いたように「あっ、そうだ」と呼び止めた。ロベリアはわざわざ俺の傍に駆け寄って耳打ちして頼んだ。

「レムくん、クリスティーネ様のことはまだ好きだよね?クリスティーネ様もレムくんになら緊張しないでしょ?…それだったら、今後はレムくんがクリスティーネ様をお風呂に入れてあげたりすると私達も助かるんだけど…」

「…いや、それなら同性のお前らに任せた方がいいんじゃないか?確かに俺も好意はあるし、向こうも俺を信頼してくれてるけど、恋人って訳じゃない。全ての決着がつくまで付き合えないって話にもなってる。…それなのに俺がそんなデリケートな部分で世話をするのは…」

「……そうだけど、お願い。クリスティーネ様はもう以前とは全然違うの。事情が変わったのよ。クリスティーネ様はレムくんが傍にいないと、もうどうしようもない。さっきまでみたいにレムくんが傍を離れてると、それだけで普通には過ごせなくなる。…出来るだけ常にレムくんが付いてるのが安心なんだよ。…だから、…レムくんが本当にクリスティーネ様を愛してるなら、お世話は全部レムくんがやってくれた方がいいの」

 ロベリアは拝むように切願した。そこに以前のような、俺とクリスが関係を深めることへの拒絶は無い。メーティスと同じく彼女も、心が壊れてしまったクリスとは対等に張り合うことが出来ないと判断したらしい。

「…前に話した、クリスと2人きりにならないってルールはどうなったんだ?」

 試しにそう訊くと、ロベリアは静かに首を振って溜め息を溢した。

「そんなこと言ってられる状態じゃないでしょ。クリスティーネ様があんな風になっちゃって…。ここで『クリスティーネ様と距離を取って』なんて言って、それで悪化とかしちゃったら私が悪者だよ。…レムくんが誰と付き合ってどう過ごすかなんて、もうレムくんの気持ちが全てなんだよ。そもそもそれが当たり前だった。私達もクリスティーネ様も気持ちが決まってるから、あとはレムくんが誰を選ぶかで話は決着するの。これ以上私達がどうこう言うことじゃない。だからもう私達は何も言わない」

「…そうか、分かった」

「うん。…じゃあ、私も2階行くけど、最後に1つね。クリスティーネ様とお風呂に入るなら、必ず先にトイレに行かせること。じゃあね」

 ロベリアは、これ以上この話はしない、と言うように会話を断ち切って去った。終端に告げられた忠告から『粗相』へと連想されると、俺はもう何も考えたくなくなった。

 …クリスと張り合うことに彼女らは罪悪感を抱いている。それはクリスからしてみれば勝手な話だ。メーティスもロベリアも、クリスが見るからに自分達より下位の人物であると感じ、『弱い者いじめ』になってしまわないようにと警戒したのだ。俺自身もクリスに対し、以前のように対等な存在として接することは無くなってしまった。もしかすると全ての人が俺達と同じようにクリスを下に見るのかもしれないが、やはり俺はそれが仕方の無いことだと諦めたくはなかった。


 入浴後、用意してあったラフな私服に着替えて階段を目指し廊下に出た。扉の開閉音や俺の足音に反応したように2階から悲鳴が聞こえ、何かあったのかと走り出すと「大丈夫、レムだよ!」とメーティスが大声で宥めるのが聞こえる。俺は走るのをやめて逆に足を忍ばせた。階段の1段目に差し掛かった頃になってドアの音と共に2階からメーティスとロベリアが2人して悲しい顔で俺を見下ろした。2人が降りてくるので階段から離れて道を譲っていると、目の前まで来た2人は真っ直ぐ俺を向いた。

「…レム、クリスのこと、ホントにお願いね」

「私達も出来ることがあったらやるから。仕事のこととか、他にやらないといけないことは、全部私達に丸投げしてくれていいからね」

 メーティス、ロベリアと発言が続いた。それは明らかに、自分達はクリスに関与できないと断るような一言だった。彼女らの性格の優しさや、面倒見の良さは付き合いが長いだけあり十分理解している。だからこそ、まさか彼女らがクリスと関わらない選択を取るとは信じられなかった。

「…ごめんね」

 メーティスは深々と俺に頭を下げた。肩が揺れ、ポツポツと目から雫を落とした。ロベリアは暫しメーティスを見つめると、自分も同じように頭を下げた。

「…いや、…仕方ないさ。…俺だってショックだったから。クリスのことは任せてくれ。寧ろ、俺が1人でやるのが最善だろうしな。そんな3人がかりで世話するものじゃない。…ただ、俺はリーダーとして家を離れなきゃいけない時がある。そういう仕事は流石に俺が責任を持たなきゃならないから、クリスのことをお前達に任せなきゃいけないことはどうしても出てくる。…なるべく早く済ませて帰るようにはするから、そこは了承してくれないか?」

「…うん。分かったよ。…本当に、ごめんなさい」

 すぐに返事をしてくれたのはロベリアだった。涙を拭い、悲しみに喉が(つか)えていたメーティスは遅れて頷き、「ごめんなさい…」とまた頭を下げる。

 彼女らがダイニングへと離れていくのを見送って俺は階段を上がった。クリスの部屋が近づいてくると、ブツブツと延々呟いているクリスの声が漏れて聞こえてくる。ノックをすると同時に中からゴトン!と大きな音がして、「俺だよ、入るぜ」とトーンを上げて宣言しながら入室した。

 部屋は内装と家具共々白く、水色のリネンのカーテンは開いた窓の微風に棚引き、共に揺れるレースは程好く透けて傾き始めの陽光を室内に通す。タンスの上にはくまのぬいぐるみ、窓際の小机には半身溶けたアロマキャンドルが飾られ、また白いベッドにはシーツを蹴飛ばして膝を抱えたクリスが震えていた。傍には足形の窪みを作って壊れた椅子が転んでいた。

 洗われ、乾かされて元の美しさを取り戻した長髪は丸まった背に沿って装飾無く自然に流れる。膝にも届かない短く白いワンピースは、無警戒に捲れて桃色のショーツを露わにしている。外見の美しいその光景の中、腕の中に隠れて息絶え絶えに揺れ動く見開かれた眼光だけが醜く映った。

「…クリス、どうしたんだ?」

 刺激しないようにと物静かに問い掛けて歩み寄る。彼女は自らの腕に顔を埋めたまま、震えた小さな声で言い返す。

「…そとでひとがわらってる…わたしになにかしようってそうだんしてわらってる…ものおとでおどかしてくる…」

「大丈夫だよ。誰もそんなことしちゃいない。心配しなくていいんだ」

「……ぬいぐるみがこっちみてる…ぬいぐるみのなかからのぞいてくる…ぬいぐるみ…くまさんがおこってる…ちがうの、わたしじゃない…わたしがこわしたんじゃないの…わたしじゃない…わたしじゃないッ!ああっ、リード様!もうしわけありませんリード様!ちがうんです、違うんです!私はそんなつもりは…、だって、そんな…!あれはごほうびだって…だから…わたしが悪いんじゃないのっ!あれはっ!あれは…!」

 身体の震えが加速して、支離滅裂な独白には喘鳴が混じり出す。俺は慌てて駆け足に近づき、彼女を強く抱擁した。彼女は抱き返さず身を固くして在らぬ方へと刮目している。ヒューヒューと過呼吸を起こし始め、俺はとうとう形振り構わず彼女と唇を重ねた。暴れる彼女を押さえ付けて、何とか片手で鼻を摘まみ、彼女の呼吸があるべき姿に還るのをじっと待つ。

 呼吸だけはそれで治まってくれた。唇を離すと、クリスは酷く怯えた顔をして俺の目を見つめた。俺は彼女に微笑み掛けてその頭を撫でるが、彼女の震えは止まらない。

「…大丈夫だ。俺が傍にいる」

 彼女は俺の言葉に安堵はしなかった。否、彼女の不安はもう別の所へ移っていた。彼女は自分へ降り掛かる悪意に怯えなくなったが、代わりに俺を怖れていた。

「…ご、ごめんなさい…ごめんなさいっ…ごめんなさいっ!レムまでっ、レムまでよごしちゃう!わたしきたないから…どうしようっ、ごめんなさい!」

「クリスは綺麗だよ。汚れてなんかない。そんなこと心配しなくたっていいんだ。もし汚れたって俺はお前を見捨てやしないし、俺も一緒に泥を被ってやるさ。だからお前は俺にもっと縋り付いていいんだ」

 言い聞かせて抱擁し、背中を撫でてやるとクリスの震えは漸く収まった。相変わらず抱き返しはせず、静かに額を胸に押し付けて身を任せてくる。俺はそんな彼女を見下ろし、不意に強く吹いてカーテンを押し上げた風に顔を上げた。

「…クリス、折角だ。一緒に外に出ないか?ずっと此処に居たんじゃ退屈だろ?」

 窓から青空を見つめて誘うと、クリスはバッと上げた泣き顔を横に振った。

「いやっ。そとはこわいものっ。だって、またこーえんのこがたたくもの!いじわるしてわらうもの!」

「叩かせない、大丈夫だ。意地悪なんてさせない。何があっても俺が守るよ。街に着いてから家に帰るまでも、俺が守ってたから何とも無かっただろ?これからずっと俺が守る。だから、もう家の外を怖がる必要なんて無いんだ」

「…ほんとう…?」

「ああ、約束する」

 クリスはグシグシと瞼を腕で擦り、拭いきれず却って涙が顔中に広がった顔で嬉しそうに笑った。俺は親指で優しく目の縁に残った涙を掬い取り、「行こう?」と笑った。彼女はそれに「うん!」と大きく頷いた。

 善は急げと飛び出すと、クリスはぎゅっと俺の腕にしがみついて俺の胸元に視線を固定した。そのまま俺は嘗てのデートコースを思い出し、服屋を目指して歩いていった。メーティス達には出掛ける前に声を掛け、マイクが来たら言付かってくれと頼んである。今はとにかく全力でクリスの相手をしたかった。

 しかし、道中に会話らしい会話は無い。クリスは行き過ぎる住民達に怯え、不意の物音に驚き、腕に抱き着く力は助けを求めるように強まっていく。気を紛らわそうと立て続けに掛ける話題にも関心を示さず無言を貫いている。…もう少し時間を置けば良かったと後悔したが、出てしまったものは仕方がない。

 結局、服屋への道は諦めざるを得なかった。人通りの少ない道を選んでも、それはそれで何かを思い出し彼女は震えて歩けなくなる。とはいえそのまま引き返すのでは進展が無いので、小さなゴールとして行き先を変えることにした。

 森の中に忘れられたようにポツリと空いた小さな公園。クリスは風に吹かれる草木や鳥と虫の鳴き声に怯えたが、長くそればかりが続くと耐えられるようになり、俺にしがみついていれば震えないでいられる程度に慣れた。苔むして穴だらけになった木製ベンチにハンカチを敷いて、その上に彼女を座らせる。隣り合って暫くそうしていると、クリスは不思議そうにキョロキョロと見回した。風を感じる趣は退行した彼女には少し難しく、何もしないでいるのを不思議がったのだろう。とはいえ、家の外で俺以外に関心を示せればそれは間違いなく進歩と言えた。剰りにも小さな1歩だが、大切にすべき前進だった。

「ゆっくりするなら、カフェも良かったな。紅茶とか飲んで、ケーキとか食べてさ。のんびり話して過ごすんだ。街が怖くなくなってから、服屋とカフェに一緒に行こう」

「かふぇ?」

「ああ、カフェ。行ったことあったろ?カーディガン買って、髪飾り買って、その後にさ。覚えてるか?」

 クリスはじっと膝の先を見つめてぽーっと考えていた。ふと、未だ腕に掴まっている彼女の手を軽く握ってやると、彼女の目にじんわりと生気が浮かび上がっていった。そして小さく、細やかに動いていた口がはっきりと開かれ、掠れた声が響くように伝わった。

「…あのひ…わたし、いえなかったの。いいたかったのに、いえなかった」

「言えなかった…?」

「…わたしね、レムがいっしょうけんめいにしてくれるのすき。すきなの。すきだから、レムといっしょになりたかった。レムとが良かったの…」

 クリスは顔を上げて目を見つめた。つーっと涙が頬を伝った。

「だけど、わたし…そんなかってなことできなかった。…ゆうしゃだから…しめいがあるから、レムをまきこみたくなくて…それに、レムと一緒になったら…わたしは…逃げちゃうから…」

 クリスは泣きながら笑った。その表情には確かに嘗てのクリスの面影があった。その声の響きにも、瞳の潤いにすら、過去のクリスが息づいていた。止められぬ感情と共に表層へ浮かんだように、彼女は束の間に蘇っていた。

「…だけどもし、あなたが…あなたが私の気持ちを乗り越えて、飛び込んで来てくれたなら…あなたに私の全部を託してしまいたかった…。私の全部をあなたのものにして、あなたに手綱を引かれたかった…」

 俺は過去の自分の弱さを呪った。彼女の不器用さを悔やんだ。互いを想うがために、また自分を尊ぶがために、俺達は何度も擦れ違ったのだ。そして今、守るべき心を失った彼女は今更だと打ち明けて、俺はそれを聞いて初めて彼女の想いを理解した。…本当に、何もかも遅すぎた。

「もう、今更かもしれないけど…」

 それでも、今からでも、俺達はやり直すべきだと思った。クリスは口を開いた俺に目を見張った。

「まだ答えてくれるなら、どうか聞き入れて欲しい。…クリス、俺と付き合ってくれ」

 クリスは涙の筋を大きく上塗って泣きながら驚いていた。そして、喜んだかと思うと直ぐ様不安げに俯いた。俺は彼女の一挙一動を見逃さずに受け止め、彼女が答えるのを待っていた。

「…私は、もう戻れない…。…あなたに捧げられる身体でもなければ、相応しい内面でもない。私をあげても、あなたに損しかない」

「俺は同じ言葉を繰り返すだけだ。クリスは綺麗だ。汚れてなんかいない。例え汚れようと傍にいるし、一緒に泥を被ってやる。…だから、素直な答えを聞かせて欲しい。俺は、お前の傍にいてもいいか?」

 クリスは戸惑い、しかし心の底から嬉しそうに笑って泣いていた。両手で口元を覆って、赤くなった目と頬で、何度も俺に頷いてくれた。…ここからまた始めていく。俺は彼女の姿にそう決意して立ち上がった。

「…今日から俺達は恋人同士だな。…じゃあ、メーティス達にも報告しないと。…色々あったけど、きっとあいつらも祝福してくれるよ。そんで、夜は久しぶりにあの家でパーティーしようぜ。な、クリス――」

 立ち上がって背を向けた俺は背後の異変にすぐには気付かなかった。クリスは短く嘔吐いて、口を押さえたまま下を向いていた。その指の隙間からは、ポタポタと胃液が溢れ落ちていた。

「……ク…リス…?」

 呼び掛ける俺に、クリスは反応を示さなかった。足下に出来た吐瀉物の水溜まりに眼を奪われ、続いて下腹を汚れた右手で押さえる。

 …ここから、また地獄が始まるのだとそんな予感がした。

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