第5話 選ばれた強者の悲しい傲慢
ニフラヌの指示で白線の枠内へ進み、その両端から俺とクリスで互いに向かい合う。そのまま剛の構えを取り、右足の親指で強く床を踏んで全神経をクリスに集中させた。
合空拳での組み手は、直径2mの枠内での打ち合いにより相手に膝を着かせる、または枠外に追いやった者が勝ちとなるルールだ。この形式から組み手の初めでは両者共に剛の構えを取ることになっている。
「両者用意、組み手開始!」
クリスとじっと眼を合わせ、生徒達全員の視線を受ける中ニフラヌの声が体育館に響く。俺達は互いに摺り足で近づいていき、鋭い静寂に身を刻まれながら間合いの寸前で立ち止まる。
間が空いて、シンと静まる館内に風が吹き込まれると同時にクリスが左足を一歩踏み込み素早く左手を俺の目の前に突き出す。俺がそのフェイントに掛かり左腕で上段の防御を取ると、突き出した左手を引いて腹に右手で正拳突きを放った。
俺は対処が追い付かず、クリスの右手が腹に届く前に右腕をその間に挟み込んで防ぐ。しかし、クリスの手は予想を裏切って寸前で速度を失い、その手の平がふわりと優しく腕に触れた。
戸惑ってクリスの顔を見た瞬間、そうして生まれた気の緩みを狙うかのようにクリスはグッと片手で俺を押しやった。俺はその衝撃で後ろに倒れかけ、咄嗟に後ろに右足を運び上体を支えるも、無理な体勢の俺にクリスが迫り威圧を掛ける。
クリスのダメ押しについ慌てて、その拍子に右足の支えが無効化し後ろに倒れる。俺はクリスの右手を掴むとそれを引いて身体を起こし、起きてくる俺を避けながら掴む手を払ったクリスは俺の背中を押して自滅させようとする。その行動を読んでいた俺は押された勢いそのままに走って距離を取り、白線の前を右に旋回し、突の構えで待機した。
クリスもまた突の構えを取ったまま両足で跳ねるフットワークで少しずつ俺に近づく。…ここまでの動きを見るだけで十分に分かる程、クリスは俺以上のパワーとスピードを持っている。正面から戦っては絶対に勝つことが出来ない。
しかし、何故だかクリスは直接的な攻撃を徹底して避けている。メーティスと同じ理由だろうか?…分からないが、それならそこを利用していけばいい。
クリスがある程度間合いを詰め、体勢を低くし一気に懐に飛び込んでジャブを打ち込もうとする。俺は一撃目を左に避け、そのまま回るように放たれた左手のフックを見て立ち止まった。
避けようとしない俺にクリスは驚き、当たる前に止めようと急ぐ。そうして戦いからクリスの意識が逸れた瞬間に狙いをつけ、俺は減速しつつ接近したその腕を左に引っ張り、急に加速した身体の回転にクリスは体勢を崩す。
…そしてフラフラと此方を向いた背中を突き飛ばすと、コテッとクリスは両膝と両手を床に着いた。
「…まぁ…勝負あり。勝者、レムリアド・ベルフラント」
ニフラヌは右腕を上げ、勝敗を告げる。激しい攻防からの呆気ない決着に、生徒達は皆ぽかんと呆けてしまっていた。メーティスも同様だ。クリスは目を丸くしてキョロキョロと見回し、不思議そうに振り返って俺を見上げた。
…いや、勝ちは勝ちだろ。ちゃんと相手の行動を読んで適切に利用した上での勝利だ。何も間違ったことはしてない。だから『うっわ、ずるっ!』と言われる筋合いは無い。
「俺の勝ちだな。…立てるか?」
「え?…あ、ありがとう…?」
差し出した手を掴み返したクリスは困惑したまま礼を言って立ち上がる。そして2人で白線を出て、メーティスと合流した。何故か誰も何も言わない。
「次の挑戦者はいるか?いないならこっちで指名するぞ」
ニフラヌが大声で呼び掛け、返事が無いため適当に指名された生徒が組み手を始める。それをぼーっと眺めていると、不意にメーティスが俺を向いて、
「さっきの、何が起きたの?」
「見たまんまだろ。左フックを利用してバランス崩しただけだ」
「そっか」
それだけで一旦会話が終わる。次の生徒達は打ち込んでは身を引き、防いでは掴み掛かりを繰り返して戦っていた。皆そっちの戦いの方がお好みらしく、応援などして盛り上がっていた。
「…そういえば組み手での点数はどうつけるの?さっきまでは3人で競ってたけど…」
再度メーティスが声を掛け、そこで漸くその問題に眼が向かった。俺が考えている内にクリスがその問いに答えていた。
「勝った側が2点、敗けた側が0点というのでどうかしら?組み手の順番は、次が私とメーティス、最後に2人が戦って終わりということに…」
「うん、分かった。じゃあ、さっきのでレムが5点になったね」
そう手短に確認すると2人は組み手を静かに見学した。…勝ったら2点の計算だと、どう足掻いてもクリス優勝は免れない。…今更得点を3に変えるのもここまでの勝負を無視するような気がしたので、別に気にしないことにした。
…っていうか、勝ったんだよな?何だ、この空気。一応ちゃんと勝負はしたと思うんだが…。
…仕方ないから次はもっと魅せる戦いにしよう。
「勝負あり!勝者、クリスティーネ・L・セントマーカ!」
瞬殺だった。ニフラヌの宣言がある中で、背中を打って涙目で噎せているメーティスにクリスが謝り、肩を貸されたメーティスはヨロヨロと歩いて戻ってくる。
「…メーティス、背中平気か?…俺との勝負、出来そうか?」
「…うぅ…無理~…ちょっと、休ませて~…」
メーティスは背中を擦られながら壁まで歩いていき、凭れ掛かって休み始めた。メーティスは組み手の開始から10秒も経たない内に背負い投げされ、その素早さに受け身を取る余裕を失ったらしい。…まだ組み手に慣れてないし、こういうことも普通にあるだろうに、クリスは今にも泣き出しそうな顔をして何度もメーティスに謝って介抱していた。メーティスもそれが申し訳無く感じるのか、大丈夫だよと笑顔で返している。
俺は傍に跪いてクリスとメーティスの両方を慰めるようにしていた。
「…あの、本当にごめんなさい。…もっとちゃんと手加減出来れば良かったのだけど…」
「いや、お前は何も悪くねぇだろ。真面目に組み手してただけだし」
俺のそんなフォローもまるで心に届かぬようで、クリスはその後も深く頭を下げ続ける。メーティスはそれを見て慌てて身体を起こし、体調の不良も無視して両腕を広げた。
「そうだよっ、クリス!私は大丈夫だから!…ほら、もうだいぶ良くなってきたし!」
メーティスは両腕をぷらぷら振って動けるとアピールし、いつもの元気な笑みを見せるようになる。しかしクリスは諦めたような暗い笑みを返してメーティスを見つめ、「…賭けは無しでいいわ」と呟いた。
メーティスは急いで立ち上がり、
「大丈夫だよっ?ほら、ね?」
両腕を広げてまたアピールだ。しかし、クリスは頑として譲らず首を振る。…メーティスのことも心配だし、勝者であるクリスがこう言っているならそれでいいだろう。この後はメーティスにはしっかり休んでもらって、何故か落ち込んでいるクリスの面倒は俺が見て過ごすとしよう。
クリスの発言があるまでそう考えていた。
「今日の私、大人気なかったわ。またその内埋め合わせさせて」
メーティスと2人、クリスを見つめてその言葉を反芻した。メーティスは「そんなこと…」と俯いて呟き、俺はグツグツと込み上げてきた怒りを低い声音に変えて発した。…クリスのその言葉は、最初から完全に俺達を下に見ていたが故のものだったからだ。
「…埋め合わせする必要は無い。もう一度俺と戦え。その考え方叩き直してやる」
クリスは目を丸くし、何故怒られているのかも分からない様子で探るように俺の目を見た。本人に悪気はこれっぽっちも無かったことが眼の泳ぎから分かり、俺も言い方を少し改めた。
「確かに今日はずっと敗けっぱなしだ。お前が凄いってのもよーく分かったさ。…けどな、お前、どの競技も真剣にやろうとしてなかっただろ。これは勝負なんだぜ。手を抜くことは相手を侮辱するのと同義なんだ。1回くらい、本気でぶつかってこい」
「…そんなこと、言ったって…。…あなた、さっきちゃんと私に勝ったじゃない。私に1回でも勝てたんだから、それでいいでしょう?」
「駄目だ。あんな勝ち方じゃ意味が無いんだ。今度は真正面から戦ってやる。小細工も無しだ」
クリスは俺に歪んだ微笑みを向けて宥めるように見上げていた。その顔は今にも泣きそうで、俺にはその理由が分からなかった。
「ねぇ、レム、勘弁して。私、もう戦いたくないのよ」
「1回でいい。1回あればちゃんとお前に勝ってみせる。そんで俺達でもお前に勝てるってことを示してやれるんだ」
「分かってるわ、あなたは私に勝った。…ね、それでいいじゃない。真正面から戦わなくても、…勝てたんだから…」
クリスはもう笑わなかった。俯いて凍りついたような無表情のままぼそぼそと言い返すだけだ。俺はクリスを説得したい一心でそれに構わず続けていた。
「もう賭けなんか関係無い。お前のその、『自分には誰も敵わない』って態度を改めさせたいってだけなんだ。もう1度チャンスをくれよ。今度こそ、お前が特別なんかじゃないって教えてやる」
クリスは途端に顔を両手で隠し、
「…もう許して…」
震えた声を上げて静かに涙を流していた。流石に俺も、メーティスも驚き、俺は訳が分からないながらも再戦を諦めるしかなくなっていた。
「…わ、悪かったよ。そんな、泣くようなことじゃないだろ?…もういいって、な?…ごめんって」
謝りながらクリスの背中を擦ってやっていたが、クリスはそれっきり黙って泣き止む様子も無い。
そこへ赤い髪の男子が近づいてきたので俺の眼はそちらを向いた。その男子は優しげに柔らかくした笑みを俺に向け、クリスを一瞥すると唐突に、
「レムリアドくん、僕と戦ってくれないかな。さっきの組み手を見て、少し興味が湧いたんだよ」
訝しく思って首を振り、「今それどころじゃないんだよ」と言い返してやったが、
「私がクリスのこと見てるから、レム、行ってきて大丈夫だよ」
メーティスがクリスを抱き締めて俺にそう告げ、その男子にも退く気が無いようだと分かったので渋々引き受けることにした。離れていきつつ振り返ると、クリスは赤く腫らした目を俺に向けて泣いたままでいた。
「レムリアド、リード、両者用意、組み手開始!」
ニフラヌの宣言からすぐ、その男子――リードは突の構えで駆け寄り左のジャブを仕掛けた。剛の構えのまま左手の甲で捌き、続いた右のジャブを目前で右手で掴み止める。リードの動作一つ一つが速く、俺の行動は全て後手に回ってしまう。
そしてリードは、自分の右手で視界が塞いでしまった俺の胸に左足を乗せ、右腕諸とも俺の顎を右足で蹴り上げた。
…たった、2秒の戦いだった。
リードはそのまま後宙して着地し、俺はグラッと眼が回ってゆっくりと後ろに倒れた。直後に女子生徒の歓声と、その中に小さく上がった俺を呼ぶ2人の悲鳴があり、ニフラヌはそれらを無視して焦ったように早口に告げた。
「勝者、リード・I・ベトル!」
視界が暗くなり、まともに身体が動かない。全てが遠く聞こえ、声を発することも出来ず、傍に歩いて無表情に見下ろしているリードをただ見つめるだけだ。
「ごめん、少し手加減を忘れてたよ。大丈夫かい?」
リードが手を伸ばし、ニフラヌはリードに向けて何やら声を荒げているが、それらの声は女子生徒の黄色い騒ぎに掻き消されて誰にも届いていない。女子生徒の一部が俺を指差して笑い、男子生徒の大半はリードの常人離れした動きに目を見張った。
そんな中、クリスとメーティスは俺に駆け寄って懸命に声を掛けていた。生徒達は興醒めしたような冷たい眼で俺達を見て、漸くニフラヌの声が体育館に響いた。
「少し脳が揺れたんでしょう。大丈夫、1、2時間も安静にしていればよくなりますよ」
保健室の先生、ターニー・バルクッドは俺をベッドに横たわらせると運んできたクリス、メーティス、そしてリードに笑い掛けた。クリスとメーティスはホッと胸を撫で下ろし、互いに顔を見合わせて笑うとターニーにペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます。お願いします」
「お願いします」
クリス、メーティスと続いた言葉にターニーは深く頷き、
「はいはい、彼のことは任せて3人とも授業に戻りなさい」
「はい、…じゃあ、レム、後でね」
クリスは俺に労いの笑みを差してメーティスと共に保健室を出ようとしたが、リードが俺に近寄って口を開いたので立ち止まってそれを眺め始めた。クリスの眼はリードに、メーティスの眼は俺に向けられている。
「本当に悪かったね。今度何か埋め合わせするから」
リードの言葉に、クリスは息を飲んで目を見開く。メーティスはクリスの手を握って心配そうに見つめていた。
…やっと思考がはっきりしてくる。俺はリードに敗けたのだ。見た限り速度もクリスと大して変わらないリードに、敗けたのだ。それはつまり、あのままクリスと戦ったとしても俺は敗けていたということになる。
クリスにもそれは分かったはずだ。そして今、リードの言葉に自らの言葉を省みた。…クリスがそれを口にした背景が何であれ、結果としてこの現実がその背景をより強固なものとしてしまったのだ。
少し身体が楽になってきた俺は、掠れ気味の声を何とか振り絞った。その声はリードではなく、クリスに向けたものだった。
俺は、知るべきだと思った。怖れず、踏み込まなくてはならないのだ。
「…お前が…泣いてた理由、……教えて…くれないか…?」
クリスは俺を見て、目を細めると俯いた。しかし、メーティスが握る手の力を強くし、顔を上げたクリスに笑い掛けたお蔭で勇気を出せたらしい。…クリスは、俺の目をまっすぐ見下ろして語り出す。
リードはクリスを見つめて、1歩後ろに下がって聞いていた。不思議とターニーも、授業に急かすような真似はしなかった。
「…私ね、昔から人より身体が強いの。…腕力も、脚力も、身体の頑丈さも、普通じゃないの。…だから、人は皆、私のことを怪力と、…化け物と呼んだわ。……だから、ずっと、友達なんて作らずに生きてきたの…」
俺達は口を挟まず黙って聞いた。クリスは一瞬懐かしそうに虚空を見て笑ったが、またすぐに俺を見て続けた。窓から吹き抜けたそよ風が、クリスの長髪を優しく撫でていった。
「…入学して、レムとメーティスに会って、…まだ数日だけど、すごく楽しくて…。…友達って何なのか、少し分かったような気がしていたの。…だから…」
クリスは唐突に肩を震わせ、足下を見るように深く俯いた。ポタリ、ポタリと、その両目から大きな涙が落ちて、クリスはメーティスの手を握りながら吐くように告げた。メーティスは痛みに眉を寄せ、しかしその手を決して放そうとはしなかった。
「…あなた達に化け物と言われるのが…怖かったの…!…私と戦って、レムが怪我したら…そう思って…それが嫌で…私…!」
しゃくり上げ、左手で涙を拭うクリスを、メーティスが泣きながら抱き締めた。クリスは驚いて見開き、声もなく泣き続ける。メーティスはクリスの背に手を回し、優しく撫でながら笑い掛けていた。
「大丈夫、私達、何があっても友達だよ。…だから、そんな心配しなくていいんだよ」
「…メーティス…ごめんなさい…ありがとう…」
ターニーは合点がいったようにうんうんと頷き、何も言わずそれを眺めている。リードは細めた柔らかい目をその2人に向けて、どこか儚く黄昏ていた。…俺にはその表情が憐れみに見えた。
「…クリス」
俺の呼ぶ声に、クリスとメーティスは共に振り返る。俺は覚束無い右腕を伸ばし、精一杯に笑い掛けた。2人はそんな俺の手を、そっと掴み返して笑っていた。