第64話 忘却の家族
朝焼けの空の下、慰霊碑の前に佇む。この頃朝はこうして石面に向かい、何を思うでもなくじっとしている。家族の事を色々と思い出したいと願って此処に足を運ぶのだが、実際に記憶を巡るのは夜ベッドに横たわった後だ。しかしそれでも、此処に立ち寄ることが無意味とは思わない。この慰霊碑が俺にとって心の拠り所であることは確かなことだった。
背後から頼りない足音。それも殆どお決まりの事象で、誰が現れたかもすぐに分かった。その足音は俺と隣り合うと溶けるように消え去り、彼女は俺を横から見上げて話し掛けていた。
「そろそろ宿に戻ろう。皆起きてるから」
「ん。…馬車は8時からだったよな?じゃあ急がないとな」
俺が踵を返して歩き始めるも、彼女は沈んだ表情のまま立ち止まって俺を見ていた。「…メーティス?」と振り返って首を傾げると、彼女は首を振って共に歩き始めた。
「…どのくらいまでなら、クリスに許してもらえるのかな…」
メーティスはぽつりと小声でそう漏らした。俺は彼女の横顔を暫し眺め、眼が合わない内に前を向き直った。発言の意図は漠然としていて、何のことかすぐには読めなかった。しかしメーティスが俺の手を握ってきて、俺は彼女の想いを感付かざるを得なかった。
…メーティスとの距離は、言うまでもなくクリスとのそれよりも遥かに近い。その関係を言葉で言い表そうものなら、間違えば俺からクリスへの想いをも塗り替えられてしまいそうに思えた。しかし過去を振り返れば、それは今までずっとそうであったことのようだった。
俺はクリスではなく、メーティスを選ぶべきなのではないか?俺を支え続けてくれた彼女に、俺は報いる義務があるのではないか?いつまでも遠くの女や過去の人々に拘って、誰よりも近くにいた彼女を俺は都合良く使っていただけなのではないか?
「…何?」
知らず知らず俺はメーティスを見つめていた。「ごめん、何でもない」と俺は足を速め、メーティスはその後を訝しそうに眉を寄せてついて歩いた。
…こんな風に揺らいでいるのは、クリスにもメーティスにも失礼なことだ。俺が好きなのはクリスだ。メーティスはメーティスだ。何があってもそこを譲るべきではない。勿論メーティスを労り、大切にしていくべきだが、それはメーティスを愛さなければならないことにはならない。
唐突に俺が頭を撫でると、メーティスは頬を赤くして不思議そうに眼を合わせた。…彼女との正しい接し方とは、何だろう。
7日掛けて馬車に乗り、アムルシア大陸最西の地ポーランシャを目指す。これ以上ダルパラグに立ち止まっていてもどうにもならないし、レシナ達にも迷惑が掛かるためだ。サラが「せめて」と俺達を見送りたがっていたが、ジーンに説得されたのか結局現れることはなかった。…彼らとの間には図らず距離が開いてしまい、俺も彼らを気負わせないように努めているが、関係の修復にはまだまだ時間を要しそうだった。
途中、崩壊したユダ村を通り掛かる。カーダ村と同じような光景だった。…俺は眼を反らさないように気を張り続けたが、敢えて思い出すようなことはしたくない。周囲の皆も、気を遣ってその話題は避けてくれた。
辿り着いたポーランシャは、ダルパラグによく似た砂漠気候の街だった。しかし此方は地面がしっかりとし、街の中心にオアシスがあるなどの大きな特徴は無く、建物も木造のものが多いと相違点はあるようだ。そして丁度正午に訪れたため、住民は皆外に出て陽鏡(チェナイ教徒が携帯する黒塗りの手鏡)を上向きに置き、それに向かって頭を地につけ祈っていた。
「…何つーか、気味悪ぃな…」
馬車を降り宿を探して歩いていると、最後尾のジャックは信者達を脇に見て嫌そうに顔をしかめた。彼と手を繋いでいたキィマもハハハと乾いた笑い声を上げ、「まぁ、ちょっとねぇ…」と言い難そうに同調した。その前を歩くルイはジャックを窘めるように睨みながら、レシナの背中を優しく撫でていた。それに対しレシナは冷めた眼をして辺りを見回していた。
「そうかな。あの人らには『心から信じてるもの』があるってだけだろ。だからあぁして懸命に祈る。お前がキィマを愛してるのと本質は変わらないさ」
俺が笑ってそう告げるとジャックは憤慨し、「恋愛と宗教は違ぇだろ」と言い返した。その横でキィマは顔を赤くしている。
「まぁそりゃ、全然違うけどさ、通じるものはあるだろ。例えば…、お前、キィマに毎日『おはよう』と『おやすみ』のキスしてただろ?信者が神に祈るのと姿勢は似通ってると思うぞ」
「ちょっ、おまっ、おい!見てたのか!?てめぇ見てやがったんだな!?」
ジャックは顔を真っ赤にして怒鳴りながら駆け寄って胸ぐらを掴み、その後ろではキィマが湯気を上げそうに俯いた顔を赤らめていた。どうどう、と両手で宥めて愛想笑いを浮かべる俺にジャックは更に詰め寄るが、…ふと、俺の視線はメーティスと並んでいたロベリアに引き寄せられる。
ロベリアは信者など目もくれなかった。彼女が見ていたのは、ずっと路傍で汚れた敷物に座り、十にも満たない小物を並べて途方に暮れている少年だった。少年は破れ目の多い布切れを身に纏い、頭の天辺から爪先まで黒く汚れていた。そして布切れの端から覗いた左肩には、丸の中にPとLを重ねたような小さな烙印が押されていた。
俺の視線に逸早く気付いたメーティスは俺とロベリアと、遅れて少年を見比べた。その行き来する眼にロベリアも俺に気付き、眼を逸らして歩き出した。ジャックは俺達を通り過ぎていくロベリアを不可解そうに見つめながら、俺の胸ぐらから手を離した。
ロベリアに話し掛けようかと思ったが、それはやや早計だ。少し様子を見ることにした。ロベリアに早歩きで追い付いていったメーティスは、何となく複雑そうに目を細めていた。
宿に着いてすぐ、俺はレシナを連れて装備の修繕を依頼しに出た。普段ならレシナに「レムのことお願い」と声を掛けたりするメーティスだが、この日は何も言わずロベリアの側に付いていた。大丈夫だろうとは思うが、一応俺はそれに「下手なことは言わないように」と条件を付けておいた。おいそれと彼女の事情に踏み込むのは好ましくない。
宿の受付に防具屋の位置を訊ねてあったのでその通りに歩いていたのだが、その道程に何故だか妙な心当たりがあった。…俺はこの道を、いや、この街の地理を知っていた。
「…どうかしたの?」
不意に話し掛けられ、「え?」と振り向くとレシナは機嫌悪そうに俺を睨んで訊き直した。
「どうかしたの、さっきからキョロキョロして」
「あ、あぁ、いや。…ちょっと既視感があってな」
「この街に?」
頷いた俺にレシナは興味深そうに目を見開いた。普段ならなかなか見ない表情で新鮮だが、彼女がこんなにも俺の発言を気に留めるのは妙に思った。とはいえ支障がある訳でもないのでそのまま会話をやめて進み、その内目的地に辿り着いた。
『リアド防具店』。少し大きめの店の上に、大きな黒い看板でそう記されていた。それにもやはり既視感がある。木製の戸の前で立ち止まった俺を、レシナは一歩引いて観察していた。…俺は意を決して、その戸を開け放った。
「いらっしゃいませ~」
爽やかな声を上げて店主の男が出迎えた。その男も知人のような気がした。青髪に髭を蓄えた紳士的な初老の男は俺を見ると驚愕して言葉を失い、徐々に震えていったその口から縋るようなか細い声が溢れた。
俺は何故か、彼を目にして寒気を感じた。
「…レミオ…?」
男は俺をその名で呼んだ。…俺はこの街を知っている。この男のことも知っている。そして男は、おそらくは記憶喪失前の本名であろうもので俺を呼んでいる。…それらは一瞬で統合し、一つの結論へと俺を駆り立てた。
「…あなたは…レミオの、父親ですか…?」
一体俺はどんな表情でそれを訊ねたのだろうか。彼は俺の発言に閉口し、少しずつ歩み寄りながら食い入る視線で探ってきた。
「…私は、オーディン・A・リアドだ。…数年前、妻と一人息子を事故で失った。息子はレミオダル・A・リアドという。…君は…」
「…俺は……私は、レムリアド・ベルフラントと申します。ご覧の通り、討伐軍に身を置き各地を転々としています…」
互いに歩み寄り、正面に向かい合うとどちらからともなく口を閉ざし、何も言わず眼を合わせた。数秒間それが続き、ふと後方で静かにしていたレシナが小さく溜め息をついたのをきっかけに俺からも訊ねた。
「…私の顔は、レミオに似ていますか?」
オーディンは戸惑いながらも深く頷いて答えた。
「…あぁ、似ている。…瓜二つだ。…しかし、…やはり、別人なのか…?」
「…いえ、おそらくあなたが思う通りです。…俺にも、朧気ながらあなたの息子だった自覚があります。私はあなたの息子です」
「…それは…一体どういう…」
オーディンはこめかみを両の手の平でぐいぐいと押しながら困惑を顕にした。…その反応は当然だ。俺だって半信半疑なのだから。…しかし、筋立てて考えていくと、この結論しか思い当たらない。やはり俺はオーディンの息子、レミオダル・A・リアドなのだろうか。
「…状況を整理させてください。明日、また此方に伺います。詳しいことはそこで話しましょう。…どうでしょうか?」
話が纏まらないので一度場を設けることにした。オーディンはじっと怪訝な顔で俺を見つめた後、「…分かった」と深く頷いた。俺はそれに頷き返してから、思いつきで告げたそれの確認を取った。
「…レシナ、そういう訳だから、明日は…」
振り向いて眼を合わせると、レシナは険しい顔をして身を引き、「…明日1日は全員休みにするわ」と了承した。「助かる」と礼を言うが、それに対してレシナは他所他所しく眼を背けていた。
「では、装備の修繕だけ依頼しておきます。よろしくお願いします」
先程までの流れは一旦無視して、やるべき仕事をそうして済ませることにした。オーディンは狼狽えながらもとりあえずそれに応じ、無言でレシナが渡した装備も丁寧にカウンターの奥へと運んでいった。俺とレシナはその間に手早く書類にサインし、オーディンが戻る頃には宿へ戻る準備が整っていた。
俺達の去り際、オーディンは俺と眼を合わせ、「お帰り、レミオ」と訴えるような声音で呼び掛けた。…何故だか俺はその姿にまた寒気を感じて、「失礼します」と一方的に挨拶して去った。
宿への道ではレシナが俯いたまま、
「あなた、ここの出身なのね」
無感情な声だった。特に意図は無いように見え、「そうらしいな」と他人事のように俺も答えた。
「奇遇だったわね。私もここよ。右手の少し遠くに宮殿の屋根が見えるでしょう?そこが私の実家よ」
言われて右を向くと、確かに街並みから王冠のような屋根が飛び出て見えた。彼女の故郷がポーランシャだというのはルイから聞いていたので、改めて感じるものは特に無かった。
「家に顔を見せてこないのか?」
「帰りたくないもの。嫌な父親だから」
「そうか。悪い」
短く応答すると、間を開けてレシナはフフ…と笑った。その声は低く、あまり気持ちの良い笑い方はしていなかった。俺がそれに気を留めて見ていると顔を上げたレシナは同情するように目を細めていた。
「あなたの実のお父様も大概ね」
「…そうか?俺には分からないけど…」
「ええ、私の父と似たものを感じるわ。一目で『それ』と分からないのが余計に質が悪い」
彼女の言い分はよく分からなかったが、頭の片隅には置いておくことにした。正直言って、俺自身、オーディンと関わることに漠然とした恐怖を実感していた。彼女の言うように、オーディンがろくでもない人間だということが真実であると、そう賛同したくて仕方がない気持ちだ。
彼とはまだ何も語っていなかったが、『レミオは父親を嫌っていた』のだと、それだけは強く感じていた。
夜、ダルパラグと変わらないチープなシャワーを終えてから、俺はロベリアを部屋から連れ出した。ロビーの隅にあるレストコーナーのテーブルに着き、1杯20アルグの水を買い与えて机上に対面する。
ロベリアは昼間よりいくらか落ち着いた様子でコップを受け取り、「ありがとう」と笑って控え目に一口飲んだ。俺はそれを暫し眺め、テーブルに腕を置いて肩を軽くする。ロベリアは一息ついてコップをテーブルに置くと早速本題に入った。
「…それで、話って?」
「話ってほどのものじゃないんだ。昼、お前が見ていたものが気に掛かってな。ちょっと語り合おうかと思っただけさ」
あぁ…、とロベリアはせせら笑い、目に見えて嫌そうに眼を逸らした。此方が話題に大して踏み込まない内から、ロベリアは苛立たしそうに指先でテーブルをトントンと叩き始めていた。
「前に、俺に話してくれたことがあっただろ。捨て奴隷に家庭を壊された、って。今日お前が見ていた少年、あの子も多分捨て奴隷だろう。奴隷の烙印を持ってた。…大変そうだったよな」
「だから、何」
ロベリアは表情は変えないまま、語気を強めて威圧した。触れられたくないのだろうというのは分かるが、彼女のために話し合うべきだと考えた。
「捨て奴隷云々の前に、あの子は孤児だ。居場所がなく、労働力にもなれず、だからあぁして細々と小銭を集めて暮らしている。あの子はあの子で必死に生きてる。そしてきっと、それはお前の家庭を壊したという『例の捨て奴隷』も同じことだったはずだ。確かにお前の境遇を鑑みれば、到底許せないことだったとは思う。だけど、お前ならその事も理解は出来るはずだろう。いつまでも偏見に取り付かれているのは良いことじゃない」
「だから、何?余計なお世話じゃない?大体私、昼間の子に何かしたわけでもないのにこんなこと言われる筋合い無いよね?何なの、突然そんなこと言って…」
「お前がコンプレックスから脱却する良い機会だ。だから話すことにした」
ロベリアは握った拳を震わせて俺を睨み付けた。…確かに彼女が言う通り、剰りにも唐突だ。思いつきで説教しているようにしか見えないだろう。しかし、俺にとってこの話題は、今日1日の流れから続いた真っ当な発想だったのだ。…と、そうは言いながらも、何故このタイミングでこんな話をしたくなったのか自分でも説明が出来なかった。
「じゃあさレムくん、何で孤児達は自分から保護されに行かないの?そうすれば全部解決でしょ?衣食住が手に入って、他人に迷惑も殆ど掛けない。なのに何であの子達はそうしないの?」
「…お前、施設の現状を知らないのか?昔はどうあれ、魔物の被害や捨て奴隷なんかの問題が横行して、保護施設は殆どが機能を失ってる。あんなものはもはや収容所でしかない。身寄りの無い子供を押し込めるだけ押し込んで、杜撰な管理と暴力で子供達を衰弱させるだけの場所だ。オマケに一部の施設は人身売買に一枚噛んでたりするんだ。…孤児になれば誰だって一度は施設のことを考えるだろうさ。だけど近寄ってみればすぐにその実態が漏れてくる。お前が言うように安易には行かない」
「それこそ偏見じゃないの?レムくん、それを自分の目で見てきた訳じゃないでしょ?」
「馬鹿言え、俺はちゃんと…」
…ちゃんと、見てきた。その光景を見たから俺は……。……見てきた?いつ?そんな記憶は無い。…何で俺は保護施設や孤児の実態なんか知ってるんだ?
突然黙り込んだ俺をロベリアはなおも睨む。俺は俺で、自分の言動の不可解さに混乱していた。そしてロベリアは堪り兼ね、水を一気に飲み干して立ち上がる。
「レムくんが言う通りだったとして、私はそれでも施設に行けばいいって言ってるの。私が孤児だったり、捨て奴隷だったりしたら、あんな風に不幸を周囲に撒き散らしたりしない!そんなことするくらいなら死んだ方がマシよ!」
ロベリアはそう言い放つと返答を許さず走り去っていった。俺は何も言えずその背中を見送った。
…彼女も分かっているのだ。捨て奴隷や孤児達の生き方は、本当に仕方なく、どうしようもないことなのだと。しかし、彼女の憎しみは、それを理解することを認めない。感情が客観視の邪魔をしているのだ。…そしてそれは、今の俺にも言えることなのだと思った。
俺はロベリアに、孤児達の言い分を伝えたかった。そして認めさせたかったのだろう。汚く、みすぼらしく、不恰好にしか生きる道の無かった誰かを、俺は慰めたかったのかもしれない。
俺はレミオのことを知るべきだ。そしてオーディンや、亡き実の母親のことも。失った記憶の底に何があったのか、俺はそれに向き合わなくてはならない。




