第53話 忍び寄る暗雲
3月5日に皮の鎧を皆の金で買ってジャックへと与えた。ジャックは口では遠慮したが、『今後もトロールとの戦闘では要となってもらうため、これはある意味全員のためだ』と告げると「しょうがねぇな」と満足そうに笑っていた。そしてまたジャックの鎧選びにキィマが付いていって、その2人が楽しそうにするのを俺は微笑ましく眺め、レシナは白い眼で見た。…未だレシナのキィマへの当たりの強さに納得のいく理由付けがなされていないが、一先ずは『そういうもの』として納得しておくことにした。
トロール2体が所持していた棍棒は片方をジャック、もう片方を俺が使用することとし、またトロールの衣服から耐火袋と共に見つかった回復薬も1つずつ、一先ずはメーティスとキィマに持たせた。これらの大きな収穫をまずは最初の節目とし、『鎧購入のための探索』は中断してその目標を『宿泊費集め』へと変更した。ここまで休みらしい休みを設けず戦ってきた仲間達のため、俺からそれを提案した。
そしてそれから2日後の夕方、装備(殆どがアカデミーの制服)の修繕手続きを済ませて店の外へ出ると、皆が俺に期待の籠ったニマニマした笑みを向けた。もう1人のリーダーとして隣に立ち、俺と同様に仲間達と向かい合っているレシナも、同様に期待しているのかニヤニヤしていた。…俺も俺で喜ばしく思っているので、ひょっとすると顔が笑っているかもしれない。
それでもリーダーとしての体裁もあるので、頬が綻ぶのを必死に堪えながら幹事ぶって敬語の挨拶をする。本当なら今此処で小躍りの一つでもしたい程に歓喜していた。
「えー今日は、皆さんが待ちに待って参りました宿泊の日です。日頃はテントで夜を凌ぎ、食事も摂らず、シャワーを浴びることも服を洗濯することもない我々ですが、今日は違います。ふかふかのベッドと贅沢な食事、シャワーどころか銭湯まで付いてくる最高の一夜です。旅の費用での宿泊なので、皆さん今夜は存分に楽しみ、存分に羽根を伸ばしてください。それでは、宿に行きましょう!」
変に饒舌になって最後には声を大きくしてしまったが、全員それを指摘するような野暮なことは無く、それぞれが今晩のまともな休みに歓天喜地の大騒ぎとなっていた。普段は仲間内から一歩引いた場所にいるレシナさえも、やはり久しぶりの休みが嬉しいようで陰でニヤついて足取りを速めている。…俺はというと、今後も鎧の購入を区切りにして休みを挟んでいこうかな、と皆の喜ぶ顔を見て考えていた。拠点を移す日が遠退くのは言いっこ無しだ。
宿に着き、俺が受付と話をつけている間も、ジャックやメーティスはロビーをうろちょろして落ち着かない様子だった。入学の前日などに1度宿には泊まったことがあるだろうにとも思ったが、それも3年前の事だと思えばそこまでおかしいことはないだろうか。…ただ、他の4人は外で荷車を見張ってくれているのだからそっちで待っていて欲しい所だった。
部屋割りは男3人、女4人の男女別とすることにした。ジャックは折角ならキィマと2人部屋になりたいとぼやいたが、それでは不要に部屋を取ってしまって他の客に迷惑だろう。他の皆には賛同されたので良しとしたい。
「部屋取れたぞ。8時に飯だから風呂早い奴は急いで入ってきてくれ。自信無かったら出来れば後に回してくれ」
ロビーのソファーでだらだらし始めていた2人を引っ張って外へ出て、荷車の傍で着替え等を入れたバッグの束を手に待っていた仲間達の下へと歩きながら伝える。受付から渡された鍵で荷車を宿の壁に鎖で繋いで施錠し、その片方の鍵と女子部屋の鍵を同時にレシナに渡して宿へと引き返した。
3階へ上がり、隣り合ったそれぞれの部屋に入っては、その豪華な白い内装と雲のようにしっとりと柔らかいベッドに一同興奮して舞い上がった。男女がそれぞれの部屋へと戻ると、ジャックは内1つのベッドに倒れ込んで恍惚な溜め息を溢し、「うっはー、サイコー!」と手足をバタつかせてそのバネを弾ませた。
「ジャック、どうせなら風呂上がるまで待ったらどうだ?その格好で横になってたら今からシーツが汚れるぞ」
ルイは壁沿いの机に凭れて椅子に腰を落ち着け、うっとりした声のままそう助言した。ジャックもそれに納得したのか返事もなく「よっと」と起き上がってベッドに座り直す。俺はバッグから取り出したライターと煙草を手にベランダに出ようとしていたが、そこへ「なぁレム」とジャックが呼び止めたので窓に手を触れたまま振り返った。
「混浴行こうぜー混浴」
「混浴?…あぁ、そういや此処って混浴あったのか。まぁ、俺は別にいいけどさ。お前はキィマさんに怒られるんじゃないか?また」
「おい、今『また』っつったか。…大丈夫大丈夫、そんなことで俺達の愛は揺るがない」
「いや、揺らぐだろ。お前が良くてもキィマさんは揺らぐだろ」
「じゃあ、アレだ。愛と性欲は別腹ってことだよ」
『じゃあ』って何なんですかね。というかその理論、男にしか通用しないんだよなぁ。
「良いだろー別に!とにかく女体が見てぇんだよ俺は!」
俺が呆れて見ていると、ジャックはそう叫んで勝手に憤慨していた。すると声が向こうにも届いたのか、女子部屋からバァンッ!と壁を蹴る音が響き、部屋が揺れて天井からパラパラと埃が降ってきた。…キィマさん、やめて。今弁償代用意出来ないから。堪えて。
「そんなに言うならキィマさん誘えよ。そうすりゃ文句も出ねぇだろ」
若干恐怖で声を震わせながらそう告げると、同じくビビって肩を竦めたジャックは、
「…いや、他の客にあいつの裸見せるとか論外だし…」
と殊勝なことを実に小さな声で呟いて顔を背けていた。
「だったら部屋のバスルームに一緒に入ればいいんじゃないか?俺はそうするつもりだったけど」
ルイはどうも肝が据わっているのか普段通りの声色でジャックにそう提案した。ルイは恐怖慣れしているのだろうか。確かにレシナさんたまに凄ぇ怖いもんな。
ジャックはその提案に難色を示し、「う~ん…」と腕を組んで唸っていた。しかしふと顔を上げ、「そうか…」と光明を見出だしたような顔をすると、「そうか!」と立ち上がってルイに詰め寄った。
「ナイスだルイ!そりゃそうだよ、悩むこと無かったわ!」
「ん?お、おう。そうか」
ルイは苦笑いして頷き、ジャックはルイと握手を交わすとまた俺を向いた。その顔の輝きようと来ればまるで餌を貰った犬のようだった。
「おいレム、混浴は無しだ!今日は男風呂行くぞ!」
「お、そうだな。それがいいな」
「あと、夜はちょっと出掛けてくるわ!遅くはなんねぇけど部屋の鍵は開けといてくれよ!」
「はいはい、了解了解」
…そこは黙って出ていってくれて全然いいぞ。知り合いのそっちの事情とか全く知りたくもないから。
俺1人が気まずく思って聞いていると、ふとドアがノックされて此方が出向く前に開け放たれた。不穏な空気を感じて一斉に振り向くと、そこには顔を赤くして口元だけ笑うキィマが目尻を震わせ、ギリギリと握る拳に冷気を帯びさせていた。
「ジャック、おいで」
「ははは、何だいハニー。まだ夜には早いぜ」
「おいで」
恐ろしく冷たい声で呼ばれたジャックは、今にも全身から冷や汗を流しそうな青白い顔で笑い、『死んできます』と言い残すように俺達を一瞥して去っていった。暫くし、パタンと閉じたドアの向こうから、磨り潰されたようなか弱い悲鳴が響いてきたような気がした。
久々の食事は予想以上に満足のいく質の良さだった。長らく放置されていたアムラハンの港が昨年開き、そこからの沖が格好の漁場となりこの1年で漁業が盛んになったため、元は市民の眼にも触れないはずの高級食材であった海鮮類がふんだんに用いられていた。それらは魔人の舌に合わせた濃厚な味付けが成されながらも、決して赤身の鮮やかさを損なうことも脂のしつこさを助長することもなく、口一杯に広がった爽やかな旨味が飲み込んだ後にふわりと氷解するような上品な仕上がりとなっていた。キィマからプレッシャーを受けて味が分からなくなっているジャックが気の毒な程の絶品だった。
料理がその調子だったので大浴場もそれなりに期待があったのだが、生憎入った時間が遅かったこともあり湯船には大量の垢が浮かび上がっていて、とてもゆっくり浸かる気にはならなかった。結局脚だけ浸けて温まると身体を洗い直してさっさと出ていき、部屋で少し休憩しつつ外出するジャックとルイを送り出した。結局ルイもレシナと何処へやら行くらしい。まぁ年頃のカップルなのだから当たり前の行為とも言えよう。深く追及はしないでおいた。
俺は俺でやることがある。皆には休めと言ってはいたが、宿に泊まるならリーダーとしてこれはやらなくてはならない。俺は手帳と鉛筆を手にロビーへと降り、通常の号外とは別枠に置かれているアカデミー通信を棚から引き抜いてソファーへとどっしりと座り込んだ。そして手帳のメモ欄の頁に鉛筆を挟んでテーブルに置き、アカデミー通信をパラパラ捲りながら目ぼしい情報を探し始める。
討伐軍のパーティが旅をする上で、各地の宿に発行されるこの雑誌が最大の情報源だ。俺達も今月からは毎月報告書を提出して、この雑誌に貢献する情報を提供しなくてはならない。とはいえ今の俺達は新米もいい所で当分は今の状況が続くだろうし、アカデミーも大して期待はしていないであろう。極力早くまともな仕事が出来るようになるために、情報収集だけは今から徹底しておかなくてはならない。どのみち情勢も知らずして仕事は成り立たない。
ふと、とある頁に眼が止まり、自ずと表情が厳しくなるのを感じる。その剰りに規模の大きな事件に、何かの間違いではないかとその見出しを疑った。詳しく見ようと本文に眼を凝らした所へ、小さく柔らかい両手が背後から伸びて俺の眼を塞いだ。
「レームくん、だーれだ?」
湯上がりのポカポカした手の平が優しく瞼に触れる中、楽しそうなロベリアの声が耳元に掛かる。また、クスクスと忍び笑いするメーティスの声も少し離れて聞こえ、俺は暫しその手の感触に意識を集中してから雑誌を閉じて答えた。
「この手はメーティスか」
「あっ、当たり!」
メーティスはパッと手を放して驚き、俺が振り向くとえへっと嬉しそうに笑った。ロベリアも「へぇ、凄い」と素直に驚いて称賛していた。…2人ともご機嫌だな。ちゃんと休みを堪能してもらえているなら何よりだ。
「ねぇ、何で分かったの?」
メーティスは自分の手をクルクルと返しながら見つめて不思議そうに訊ね、俺はその仕草の幼さに微笑んだ。
「メーティスの手ってふわふわした感じに柔らかいんだよ。ロベリアのはもう少しお姉さんらしいしっかりした手で、どっちかというとスベスベな印象が強い」
「えっ、ちょっとそれは気持ち悪いよレムくん…」
ロベリアが俺の返答にそんな辛辣な言葉を返して身を引き、メーティスは自分の左手とロベリアの手を交互に摘まんで確かめていた。何でもいいけどキモいより気持ち悪いの方が心に来るよね。
「…あ、ごめんね。何かしてる所だった?お邪魔だったかな」
ロベリアは俺の手元にあるアカデミー通信と手帳を見て、バツが悪そうに首を傾げて訊ねた。一瞬さっきの暴言を詫びたのかと思ったけどそれはないらしい。一方メーティスはちょっと楽しくなってきたのか今度は俺の手をプニプニしている。
「いや、別に大したことじゃないよ。少し情報収集してただけだ」
安心させようと笑って答えると、ロベリアは俺の顔を暫し見て「そっか」と微笑んだ。そしてまたアカデミー通信に眼を移すと、「何か有力な情報はあったの?」と左隣に歩いてきてソファーに座った。メーティスもそれを見ると俺の右肩に両手を置いて膝立ちになり、ソファーの後ろから俺に凭れ掛かってきた。…この子達、猫か何かなんだろうか。
「有力っていうか、丁度見てた頁があったんだが…」
言いながら、指を挟み込んでいた頁を見開き、両側から顔を寄せて覗いてくる2人に見え易いように雑誌を傾ける。そして2人がその記事の内容に息を呑み、顔を見合わせている中で確認の意味を込めてそれを読み聞かせた。
「ラバカ港が魔王軍の襲撃を受けて、占拠されたらしい。ラバカ港って言えばアムルシア大陸から他の大陸へ唯一の航路だ。このまま失う訳にはいかないってことで、ラバカ港奪還のための戦力招集が始まっているらしい」
メーティスは俺の肩に顎を乗せてじっと記事を見つめて熟考すると、
「でも、アムラハンの港からはラバカ港に船が出てたんだよね?ラバカに行くのとパンジャに行くのとでは地理的にそこまで差異は無いと思うんだけど、航路が開拓されたりはしないのかな?」
「いや、そこについては1つ前の頁にあったんだけどな、ラバカ港に船が近づくと砲撃があるらしいんだ。何処から調達しているのか不明みたいなんだが、砲弾は尽きることなくラバカ港に供給されているらしい。…アムラハン港からラバカ港には岸伝いに航路が組まれていて、一旦ラバカ港に向かってそこからパンジャに向かおうとすると、途中で確実に撃ち落とされてしまうんだそうだ。そうならないようにパンジャへの航路を開拓しようにも、流石に全く未知のルートを築くとなると遭難の危険もある。そんな賭けには出られないんだそうだ」
俺は頁を1つ前に捲ってその旨が綴られた部分を指差して見せた。メーティスはそれを見つめてふむふむと頷き、他所で黙り込んでじっくり考えていたロベリアが顔を上げて口を開く。
「それで、奪還の人員はどこに招集されるの?」
「あー、待ってくれ。多分続きの頁に書いてあると思う。まだ読んでないんだ」
答えながら1つ飛ばしに頁を捲り、3人で一緒にその本文を追っていくと、確かにそこに書き記されていた。横の2人はそれを見て表情を厳しくさせ、ふとある事に思い至ると慌てて俺を見つめてきた。…俺もその内容に愕然とした。まさかこんな所でその名前が出てくるとは夢にも思わなかったのだ。
作戦の拠点はユダ村、つまりは俺の故郷だった。招集を受けたパーティは直ちにそこへ合流しなければならず、またそうでないパーティも平均のレベルが20超えであれば作戦に参加可能である。そしてまた、ユダ村はラバカ港の隣村であるため、ラバカ港の魔物から侵攻される可能性があるとされ、現在滞在中の十数パーティにより防衛陣形が取られているとのことだった。
「…レム、大丈夫だよ!絶対大丈夫!皆でお金貯めて、準備も整えてさ、すぐにでも合流しに行こうよ!頑張って頼めばきっと作戦にも参加させてもらえるはずだし!」
真っ先にメーティスが手を握って慰めてくれていた。ロベリアも静かにそっと手を重ね、俺が振り向くと神妙な顔で頷いたが、俺はその2人には笑って「大丈夫さ」と答えていた。…事実、ユダ村のことはまだ何も確定していない。ラバカ港が奪われたというだけで、ユダ村までそうなるとは限らない。それに焦ってもしょうがないのだから、今はただ、今出来ることをやるしかないだろう。
密かに深呼吸し、記事の続きを読み進めていくと、また新しく情報が舞い込んでくる。…ここ2年近くアムラハン港とラバカ港の航路で補い、奪還を断念していたアムラハンの関所だったが、今回の一件でその航路が途絶えたために関所の奪還作戦も組まれているようだ。人員はダルパラグに集まり、此方はラバカ港奪還とは違ってすぐにも実行に移す予定らしい。…今では関所は魔物の巣窟と化しているとのことで、非常に厳しい作戦になることは明白だった。
そうなると、アムラハンに滞在しているパーティは関所の奪還が完了するまで街を移れないということになる。益々、俺達はユダ村の状況に気を揉んでも仕方がない立場にあるのだった。今後はやはり防具を買い揃え、街を移動するための貯蓄に専念するべきだろう。
そして準備が整ったなら、次の目的地はダルパラグだ。何にしても計画は練らなくてはならない。レシナが帰ってきたら、…いや、休みに水を差すのは憚られる。明日の夜にでも相談することにしよう。それまでに提案を纏めておかなければ…。
「…レムっ」
不意に呼ばれ、振り向くとメーティスの手がポンと頭に乗せられる。目を点にして見つめていると、メーティスはその手をゆっくりと揺すって撫でながら微笑み掛けた。
「今日はお休みでしょ。仕事禁止!あと、1人で抱えるのもついでに禁止!」
すると今度は左から、ロベリアが手を伸ばして俺の背を擦る。そちらも同様に微笑んでいた。
「心配事はあるだろうけど、それは皆で考えることだから。今は私達しかいないし、考えるのは後に回そう?」
俺は少し悩んでから雑誌を閉じて脇に抱え、手帳に挟んでいた鉛筆を抜いて手帳と一緒にポケットにしまった。そして立ち上がると、座ったまま心配そうに見上げた2人に交互に笑い掛けてやり、
「そうだな。…じゃあ、俺らもちょっと出掛けるか。時間も時間だし限られてくるけど、何か甘いもの食べに行こう」
2人はその提案に、一瞬俺を慰めることも忘れたように目を輝かせ、それから首を振って気を取り直し笑って頷いた。鉛筆を置くついでに財布も取ってくるからと、2人にはロビーで待ってもらって1人部屋へと戻る。
部屋の机に鉛筆を置こうと思いポケットに手を入れると、ふと、脱衣場で寝間着に入れ換えた煙草のケースに手が触れる。目当てを机に置きながら、そのケースを手に取った。口のテープが剥がれて半開きになった柔らかいその箱から、縒れてしわだらけになった数本の煙草が顔を覗かせる。
…それは日頃、1人になるためのルーティーンだった。今はもう要らないものだ。2人の笑顔を思い浮かべながら、それを可燃のゴミ箱へと投げ捨てて、雑費用の財布を手にまたロビーへと歩いていく。
その後は3人でバーに出向き、デザートのつまみをウイスキーと一緒に楽しんだ。先に帰っていて部屋から閉め出されていた4人には文句を言われたが、俺達は謝りながらも絶えず笑っていた。




