第46話 確固たる排斥
…また放課後、俺は寮のロビーで1時間は待っていた。リードには匿名ではなく俺から直接クリスへの取り次ぎを頼んでいたため、俺からの用だとクリスには伝わっているはずだ。ミファの場合のようにサプライズで姿を明かすやり方は不要だと判断した。…そもそもミファとは事情が違うので、クリスとは正面からぶつかって謝りたいと考えていた。
しかし、そこに現れたのはリードだった。彼はバツの悪い顔をして頭を掻き、陰々滅々な足取りでロビーに来ると、俺と顔を合わせて早足に近づいた。
その様子を見た瞬間、どういうことになったのかを俺は理解していた。
「…レム、申し訳ないことになった」
「あぁ、そうっぽいな。…まぁ、大丈夫さ。話してくれ」
「クリスは君に会う気は無いらしい。君が自分に謝罪する必要も無いと言っている。それは決勝戦の時に既に終わらせた議題だと頑なに言って聞かないんだ。…もしクリスが気にしていないなら、会って話すかを決めるのはレムだと、そう言って僕も説得を試みたんだが、やっぱりどうも頑固で聞く耳を持ってくれないんだ」
…こういうこともある。いや、当然の結果だった。あんな暴言を吐いて、もう1年近くもそれを謝らないでいたのだ。今更謝罪など、どの口で言えるかという話だ。
大会で敗けた俺がなおもクリスに関わろうとするなど筋違いだ。恥を知らないにも程がある。…クリスは筋を通そうとする人間だ。きっと俺の未練がましい態度に愛想を尽かしてしまったのだろう。…ならばもう、謝罪なんて意味は無いのかもしれない。
謝罪をする権利すら俺にはない。シノアの件と同じだ。俺は彼女らに対する罪悪感を解き放つことなく生涯胸に秘め続ける。それが俺への罰なのだ。
「…そうか、仕方ないな」
俺は微笑んでリードにそう告げ、そのまま諦めて立ち去ろうとした。しかしリードは「いや、」と首を振って真剣な眼を向けると、俺の手を掴んで乗り出すように顔を近づけた。
「僕が何とかして、明日にでも君と彼女を引き合わせる。君達は1度でも会って話し合うべきだ。クリスが一方的に君に見切りを付けるのはどう考えても間違っているだろう」
…果たしてそうだろうか?無理に会ってまで彼女に謝るのは、彼女にとって良いことだろうか?…確かに俺はその方が嬉しいが、それは飽くまで俺の自己満足でしかない。
…1度だけ会うことにしよう。それで拒絶されたら終わりということにして、金輪際俺からの接触は控える。そうすれば俺もクリスも納得出来るように思う。そうしてやっと、俺達の関係をはっきりとした形に出来る。
「…なら、頼む」
「ああ、任せてくれ」
リードはまた真っ直ぐに眼を合わせて大きく頷いた。俺は握られた手に力を込めて握手を繰り返した。
リードは俺の予想を超えて迅速に動いた。その作戦は朝の内にこっそりと俺に伝えられ、ミファにも昨夜の間に協力を仰げたようだった。…流石にリードは俺のようにウジウジと悩んだりはしなかった訳だ。
俺は食堂の一角で先に給食に手をつけ、リードはクリスとミファを連れて俺の姿を確認できる少し遠い場所に席を陣取った。そして3人が給食を受け取って長テーブルの端に取った席に座り、リードからのアイコンタクトがあると同時に俺はトレイを手に近づいていく。
クリスは俺の接近に気が付くと眉を寄せ、警戒してトレイの両端に触れた。俺が見る間に明確に近づいてくると、クリスは頻りに場所を移りたがってリードやミファに無言のアピールをしていたが、2人はそれを逐一首を振って拒否した。
クリスの左横に座るミファ、そのミファの前に向かい合うようにして座るリード。…俺がクリスの正面に座って顔を合わせられるように既に準備が整っていた。リードが俺を見て頷き、俺もそれに頷いてクリスの前にトレイを置いた。
「…どういうつもり?」
久しぶりに聞いたクリスの声は低く唸るようだった。それはリードに向けられており、一見して変化の無い表情にも甚だしい怒りの色が見て取れた。リードはそれに対して涼しく微笑み返し、何でもないように切り返した。
「君達がちゃんと話す場を設けたんだよ。君が昨日全く言うことを聞かなかったからね」
「余計なお世話よ」
「そうかな。君も本心は違うと思ったんだけど」
「そう、大した観察眼だこと」
忌々しそうに変わる目付きをリードは颯爽と受け流し、ミファと共に立ち上がって別の遠い席を探しに歩いていった。ミファは去り際に何の悪気も無く、「仲直りしてねっ」と俺とクリスに笑い掛けて行ったが、クリスはそれに頷くことも否定することも出来ず曖昧な弱い笑みを返しただけで視線を給食の品々に戻した。
重苦しい空気が流れる中、勇気を振り絞って「…久しぶり」と声を掛けてみるが、クリスはその拍子に食事を再開した。その手つきは急いでいるように見え、やはり俺とは一刻も早く離れてしまいたいようだと感じたが、クリスは律儀に料理を味わったりしてしまうため食の進みは大して速くなかった。…いつかの会話で、調理師の方々が皆のために作ってくれているものだからと味も分からないのにしっかり噛んで食べていたクリスのことを思い返す。…ああ、やっぱり良い奴なんだよな、クリスは。
また、話し掛けられれば無視も出来ないらしく、少し食事を挟んで遅れはしていたが、「…そうね」と今度は手を止めて答えてくれた。しかしその眼は未だトレイの上にあり、声も淡泊で心の篭らないものだった。
…俺は、関わりを断った今でさえ何故だか前髪に着けてくれている銀のヘアピンを見つめ、全ての望みをそこに託して話し続けた。
「…リードとミファとの生活はどうだ?上手くやってるか?」
「普通よ」
「……最近訓練と演習ばっかだけどさ、普段何して過ごしてるんだ?」
「別に何も」
「…俺、評判悪いだろ?やっぱ色々聞いてたりするよな…」
「…私には関係ないわ。用件は?」
会話の取っ掛かりを探したが、やはりクリスは俺と眼を合わせることもしない。俺は順を追った会話を諦め、促されるままに本題に入った。
「…いつかの…公園での暴言。まだ謝ってなかったから」
「別にあなたが謝ることはないわ。気にしないで」
「そうも行かないだろ…。時効で済ませるには酷過ぎたし、時効にしたくない。…だから、…ごめん」
頭を下げて謝罪すると、ハッ…と静かに息を呑む声が頭上から聞こえ、クリスは暫し息を殺して俺を眺めると「ええ」と短く答えた。…それ以上の受け答えは無い。
許されたとは言い難いその状況に、俺は困惑して頭を上げるか否かの問答に数秒を費やした。クリスに何の動きも無い中、悩んだ末に頭を上げて見ると、クリスは俺の顔を確認してから無表情のまま給食に手をつけた。
「…許して、もらえないか?」
「許すも何も、気にしていないもの。用は済んだのでしょう?昼休みもそう長くないのだからあなたも急いだ方がいいわ」
「はぐらかさないでくれよ。なぁ、どうしたら機嫌直してくれるんだ?俺、お前のためなら何でもやるぜ?…責任を取らせてくれ。なぁ、頼むよ」
テーブルから知らぬ間に身を乗り出し、忙しく食事を摂る彼女に懸命に許しを請うた。…いつかミファが俺にそうしたように。クリスはまた手を止めて水を飲み、一息ついて俺を見た。その眼は敵意のようにも、悲しみのようにも見えた。
「あなた、私と仲良くなりたいの?また以前のように話をする仲になりたいの?」
以前なら俺はこうした問いに『ああ、そうだ』と正直に答えていただろう。しかし俺はクリスを暴言で傷つけ、大会にも敗れた。…今更、傍にいたいなどと図々しいことは口が裂けても言えなかった。
「……俺はただ、申し訳なかったと伝えたいだけだ」
「なら、もう済んだじゃない。これ以上話すことは無いんだから、もう行ってくれないかしら」
クリスは冷たくそう告げると苦い顔を逸らした。…もう明白だ。彼女は俺ともう傍にいたくはないのだ。何を言っても、何をしても彼女は俺を遠ざける。俺とクリスの関係が戻ることはあり得なかったのだ。
辺りが一度に静かになった。全てのものが遠く感じた。そして自分の中で熱いものが溢れ出していって、俺はそれを堪えることが出来なかった。
「…そんなに…、俺が嫌いか…」
情けない程に震えた弱々しい声が漏れ、視界が少し滲んできた。…何て無様な男だろう。泣いたってどうにもならない。クリスを困らせるだけだ。
クリスは「あ…」と俺を向いて小さく喫驚を漏らし、そしてそっと俺の頬に手を添えた。俺は伏せていた視線をクリスに戻し、申し訳なさそうに目を細めているクリスと見つめ合った。
「…ごめんなさい。言い方が良くなかったわ。…あの日、約束したのを覚えているかしら?…世界を救ったら、あなたに私の全部をあげる。…そう言ったわ、私。それまでお別れだとも言った。…あなたのことは嫌いじゃないの。特別な人だと思ってる。…でも、だからね、約束の時が来るまで、あなたとは少し距離を置いておきたいのよ」
…俺はクリスの言葉を聞く内に決勝戦後のことを思い返した。確かにその約束はあった。俺が好きだとクリスも言ってくれていた。今クリスが言っているように、全ては予め2人の間に決められたものだった。
しかし、俺はそれを俺を傷つけないための方便だと思い込み、そのままその約束を忘れていた。…まさか、本心からそう言ってくれていたとは思えなかったのだ。あの時の俺は大会に勝って正式にクリスの仲間となることしか考えておらず、そうしなければクリスの横にいる権利も無いと思っていたから、クリスとの約束はあり得ない空想としか思わなかった。
…そうして思い返し、今の状況と照らし合わせても、俺にはやはりそれが『あり得ない空想』としか思えない。今考えても方便だと思った方が説得力がある。…ただ、それをクリスに確認することも出来そうになかった。
「…あなたのことも考えるべきだったわ。お互いに余裕が無くなっていたから…」
「…いや、俺も、勝手に騒いだりしてごめん。…忘れてたんだ、その話」
「そのようだったわね。…なら、今一度確認よ。…あなたとは世界を救うまで…いえ、そうでなくとも私が勇者としての使命をきちんと負って、あなたに目が眩むことも無くなるまで、私はあなたとの接触を控えるわ。あなたの方もそれに気を付けて欲しいの。…だからこれからは無闇に話さない。…旅に出て、仕事上で付き合いがあればその限りではないけれど、そうでもなければ話さない。…在学中も、授業の一環で顔を合わせれば必要な会話には応じるけど、それ以外は関わらないでもらいたいわ。…それを、ここで約束してくれる?」
クリスは優しい表情から今度は厳しく真剣に眉を寄せてそう告げた。それはクリスがこれから先やっていくために必要なことであるらしいが、どういうロジックでそんなことになったのかは俺には分からない。…クリスが俺を嫌ってそう言っているのでないなら、俺にはそれだけが幸いだった。
…正直に言って、クリスとの縁を切りたくはない。折角こうして話が出来たのに、もうずっとそれは叶わない。…けれど俺には、やはりクリスのために頷くしか選択肢は残されていなかった。断腸の思いで声を振り絞り、小さく掠れた涙声でそれに答えていた。
「約束、する…」
クリスはそれに満足げに頷くと「うん…」と優しく微笑んだ。そしてポケットからハンカチを取り出して「要る?」と首を傾げたが、俺は最後の意地で首を振り、袖で乱暴に目元を擦った。
それきり俺は喋られなくなり、もたもたと料理の残りを食べ進める。声を発すると泣き出しそうで、胸が痛くて、口腔はパサパサに渇ききっていた。クリスは俯き気味に食事を続け、時折俺を気にして上目で見つつ、俺より早く完食した。
「…行くわね」
クリスはおずおずと告げて立ち上がったが、俺は返事が出来なかった。クリスは暫し俺の返答を待ち、そのままトレイを持ち上げて背を向けた。…しかしすぐには歩き出さず、また此方を振り返って俺を見下ろしていた。
俺は顔を伏せていて彼女の顔を見れなかった。
「レム」
その声音は悲しく、優しく、――
「公園のこと許すわ。…元気で」
――気高くも、やはり何処か頼りなかった。
その後、俺は気落ちしたまま午後の訓練も終え、茫然としたまま寮へと帰宅した。クリスのことを考えると辛くてどうにかなりそうで、俺は必死で眼に付くものに意識を集中させたりしていた。
部屋に着いてからはベッドで仰向けに横たわったまま上のベッドの床板を見つめていたが、ロベリアとの長話を切り上げて帰ってきたメーティスは俺の様子に気付いて近くまで寄ってきた。
そうして枕元に両肘を突き、俺の顔を覗き込んで訊ねてきた。
「どうしたの?ずっと元気無いけど」
答えたら泣き出してしまいそうな気がして、俺は顔を背けた。メーティスはなおも心配そうに俺に顔を寄せ、1人で状況を整理していた。
「お昼、クリスに謝りに行ったんだよね?もしかして、それで許してもらえなかったの?」
メーティスはいとも簡単にそう言い当てた。俺はついそれに振り向いてしまい、メーティスは俺の顔を見ると気の毒そうにして「そっか」と頷いていた。
そんな彼女と眼を合わせたからか、俺はうっかり彼女に事情を話して聞かせようとしていた。そして口に出してしまうより感情の方が先に沸き上がってきて、その熱は止めようも無く目から流れていった。
メーティスは俺の涙に驚いて目を見張り、俺は寝返って彼女に背を向けた。…駄目だ、こんなことじゃ…。俺はもう逃げないと決めたんだ。ちゃんと自分で全部受け止めるんだ。…もうこれ以上、メーティスに甘えてはいけないんだ。
しかし、俺の決意も甲斐無く、メーティスはあっさりと俺を抱擁した。背中から抱き着かれるとその柔らかさと体温に涙が押し出される。俺は熱くなって痛む喉で何とか言葉を発するが、その声はみっともなく震えていた。
「やめろ…メーティス……俺は……もう…逃げたく…ないんだ……ちゃんと…1人で…」
メーティスはそれを聞き届けても退かなかった。そのまま俺の胸を擦って、「違うよ」と優しく囁いた。
「逃げるってことと、励ましてもらうってことは、きっとイコールじゃないよ。…だから大丈夫。私はただ、レムがこれからも自分で立てるように手伝いしてるだけ。逃げてる訳じゃないの」
メーティスの言葉に心が弛くなり、俺は振り返ってメーティスの胸に抱き着いた。メーティスは俺の頭を両手で掻き分けるように撫で、俺は後から後から溢れてくるその涙と嗚咽、そしてクリスとの思い出の数々を噛み締めた。
「だからね、泣いていいの」
メーティスはそう告げると黙って俺を撫で続けた。俺は声を上げて泣いていた。4ヶ月半という時間を経て、俺は漸くクリスとの繋がりが切れたことを自覚した。今日まで受け止められなかった感情が、怒涛の如く俺の胸に押し寄せた。
一緒に笑い合ったこと、時には涙を共にしたこと、声を荒げて喧嘩したことも、互いに赤面するような醜態を曝したこともあった。手の傷を労って毎日世話してくれた。勉強だって見てくれた。プールではふざけ合った。誕生日を祝ってくれた。
たった1年。…だけど、その時間で数え切れない程にたくさんの喜びがあった。彼女との日々は苦悩に滲んでも輝いていて、彼女のためになら何だってしたいと思った。傍にいるためなら、世界だって救おうと思ったのだ。俺が彼女の力になりたかったのは、彼女との時間をいつまでも過ごしたかったからだ。
…そっか…と、俺は今になって気付いた。もう顔を合わせることも、会話を交わすことも許されなくなって、全てが後戻り出来なくなった今になって、本当に今更に自分の本音に気付いた。
…俺、クリスのことが好きだったんだ。
俺の初恋はいつの間にか始まっていて、いつの間にか終わっていたのだ。




