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第40話 厳冬の猫

 日が回ってから路地裏で一眠りし、まだ空が明るくならない内から起きてまた街を廻り始めた。12月25日、クリスの誕生日だった。しかし俺にはもう関係の無いことだ。俺の居場所などそこにはない。俺が欲していたのは何の気兼ねも無く居座れる甘く温かい拠り所だった。

 午前10時、俺は寮にも帰らずシノアの家へと向かった。門前払いされると思っていたが、突然の俺の訪問にも兵士は寛大であり、速やかに俺をシノアの部屋に通してくれた。…シノアの部屋に入ったのはあの日以来だが、部屋はあの時のように温かくはなかった。

「何しに来たんですか?」

 シノアはおよそ外向きではないラフな部屋着姿で化粧台の椅子に腰掛け、俺はベッドに座るように誘導された。シノアと俺との場所には幾らか距離があり、いざキスをしようとしてもすんなりとはいかないようだった。

「左手の傷。魔人になって、身体が人間じゃなくなっても、この傷がある限り俺は人間でいられるんだ。シノア、お前がくれたこの傷がこの9ヶ月の間俺にとって心の拠り所だったんだ」

「私にどうして欲しいんですか?」

 俺は手の甲を擦って微笑みながら告げたが、シノアは変わらず眉を寄せて顔を逸らしていた。

「今日は突然で悪かったな。けど、いつもは突然だと入れさせてもらえないのに、どうしたんだ?」

「昨日、メーティスさんが訪ねてきたんです。レムが来てないか、って。…今、家の者に寮へ連絡させています。あと30分もすればメーティスさんもいらっしゃると思いますから、そのまま帰っていただけますか」

 シノアは無愛想にそう言って俺と眼を合わせた。

「メーティスが来たら困るんじゃないか?少なくとも俺はお前との時間を邪魔されたくないよ」

 シノアはそれを聞くと激しく睨んだ。そして俺の前に立ち歩き、俺が抱き寄せようと腰に腕を回しに掛かると1歩後退って見下ろした。

「…レム…、いえ、レムリアドさん、私が怒ってるの、分かってますよね。何で怒ってるか分かりますか?」

「照れ隠しだろ。お前が愛してる俺がこうして会いに来たのに怒る理由は無いはずだ。それとも、お前は俺が嫌いなのか?」

「嫌いではありません。…ですが、もうあなたへの想いは私の中で過去のことにしています。私達は友人として付き合っていくと約束したはずです。今更、自分の都合ですがり付かれても迷惑ですよ」

「丁度1年前、お前が自分の都合で俺と交わったことは棚に上げるのか?」

 シノアは黙り込んだ。…女はいつもこうだ。理屈で説き伏せようとすればこうして会話を断つのだ。それか、自分を悲劇のヒロインか何かと勘違いでもして喚き散らすのだ。

 そうと思うとシノアはギリギリと拳を震わせて口を開いた。目を赤くして潤わせ、嗚咽を漏らすように呟いた。

「私は人間、あなたは魔人です。もう法律が私達にそれを許しはしません。…それに、確かにあの日私はあなたとのケジメのために身体を重ねましたが、あの時の私と今のあなたでは動機が違いますよ。…私はあなたを愛してそうしましたが、今のあなたは私を愛してなどいないでしょう」

「愛してる」

「簡単にその言葉を掛けないでください!何も嬉しくありませんよ…!」

「ならお前は俺にどうして欲しいんだ。何をすれば受け入れるんだ?言えよ。何だってしてやるよ。だから俺を慰めてくれよ!ヤろうってんじゃないんだ!ただ抱き締めて、背中でも一つ撫でてくれればそれでいいんだよ!」

 シノアはキッと俺を睨みビンタを食らわせた。痛みは無い…。その一瞬で部屋は先程より雑音が静まった。

「誰でもいいんでしょう!?ならもうこれ以上私の恋を汚さないで!あなたなんか好きになるんじゃなかったわ!」

 シノアは息を切らせてそう叫ぶと背を向けて早足に歩き、大きな音を立ててドアを開け放った。

「さぁ、早く出ていってください!メーティスさんなんて待っていられません!もう二度とここには訪れないでください!あなたとの縁もこれっきりです!」

「シノア…俺は…」

「もういいから帰ってください!」

 シノアは泣いていた。無音に押し出され、俺はベッドを離れてトボトボと部屋を出ていった。


 寮へ戻り、自室に入るとメーティスはいなかった。シノアの豪邸へ連れ出されたために行き違いになったらしい。この場でこうして待っていればいいんだろうが、メーティスに会ってもシノアの時と同じようになる予感があった。暫く自分のベッドに横になっていたが、やはり何かに追い立てられて出ていかなくてはならなかった。

 ドアを開けようとすると、奇妙な程に手応えなくノブが動き、開かれたドアの先ではロベリアが驚いて目を丸くしていた。俺も同じく混乱して身動きが取れなくなり、先に声を掛けたのはロベリアの方だった。

「帰ってたの?さっきメーティスが迎えに行くって出ていったと思ったけど」

「…いや、入れ違いだったんだ。シノアに追い出されてさ」

「そうなんだ。…でも、帰ってきてくれてホッとしたよ。急にいなくなって私もメーティスも本当に心配したから」

 ロベリアはそうして笑ってくれた。その笑顔には屈託が無く、それを見て俺は、彼女なら受け入れてくれるような気がしたのだ。俺は徐に彼女を抱き締めて、勝手に閉まってきたドアを逃れるように部屋の中に引き寄せた。

 カチャンと金具の弱い音を立ててゆっくりとドアが閉じ、ロベリアはそれから少しして「どうかした?」と頼りなく訊ねた。俺は一層力強く抱き締め、決して突き放されないようにと必死だった。ロベリアはそれを痛がり、呻いて身動ぎした。

「ね、ねぇ、どうしたの?…痛いし、ちょっと怖い…」

「ごめん」

「ごめんって、…ちょっと、1回離れよう?…ホントに痛いの…」

 ロベリアは両手を上げて、弱々しくも俺を押し退けようとした。俺はそれに合わせて少し腕の力を抜いたが、ロベリアが俺を押して距離を取ろうとすると反射的に力を戻した。

「…大丈夫、逃げていかないから」

 その言葉を信じて、俺は漸く力を抜き切った。ロベリアは俺の両腕を掴むとゆっくりと離れて正面で両手を繋ぐ形に持っていった。そしてロベリアは俺に顔を寄せると「話してみて?」と目を覗き込んだ。

「ロベリア、気付いたんだ。俺はずっとクリスを追い続けてきた。クリスの力になろう、クリスを支えようって。けど、俺にはお前がいたんだ。ずっと傍に居てくれた。何でそれに気付けなかったんだ、お前は俺の彼女だったのに。そのせいでお前を泣かせてばかりだった」

「うん、うん」

「なぁロベリア、今度こそちゃんと恋人をやり直そう。もう俺とお前を引き裂くものは何も無いんだ。これからはずっと一緒に居てやれる。ジョギングや勉強、飲酒も、喫煙ももうすることはないだろうけど、それ以外なら何だって一緒にやろう。キスだって、ホテル行くのだって、何度でもしよう」

「うん」

「俺はお前が好きなんだ。愛してるんだ。だから、付き合ってほしい。お前じゃないと駄目なんだ。キスがしたい。抱き合いたい。寄り添って、いつまでも傍に居たいんだ」

「うん」

 ロベリアは逐一頷いて「うん」と答えた。それを了承と取って唇を奪いに顔を寄せた。しかしロベリアのそれは相槌であり、俺の口はロベリアの右手に押さえられていた。ロベリアはただ優しく、微笑を湛えながら首を傾げて囁いていた。

「…スッキリした?言いたいことは、それで全部?」

 相手になどされていなかった。怒りより先に、戸惑った。彼女はシノアとは違って俺との復縁を望んでくれていたはずだった。それが、こうして愛を伝えて交際を申し入れているというのに、彼女はそれを喜んでなどいなかった。

 訳が分からず彼女を凝視していると、ロベリアは笑みを引いて俯いて告げた。

「嬉しいよ、ありがとう。…でも、私、前に約束したよね?『ちゃんと好きになった人と付き合おう』って」

「…す…好きだよ…ちゃんと…」

「ありがとう。…でもね、今のレムくんはちょっとおかしくなってるの。だからひょっとすると、レムくんの好意は思い違いかもしれないでしょ?…私だってレムくんが好きだから、後になって望まない結果になるのは嫌なの。…抱き締めるくらいならしてあげるよ」

 ロベリアは微笑んで両腕を広げ歩み寄り、柔らかい手付きで俺を抱き締めた。しかし、唐突の悪寒と怒りに俺はその身体を突き放す。ロベリアは特に戸惑う様子もなくよろけて後退ると、また変わらず笑みを湛えた。

「…その気色悪い顔をやめろ…!」

「…慰めてほしいんでしょ?」

「俺を憐れむな、同情するな!そんな顔で優しくされたって何も嬉しくねぇ!黙って俺と付き合って、無抵抗に俺を癒せ!」

「でも優しくされたくないんでしょ?…身体だけ貸せっていうの?」

「ああ、そうだよ。悪いかよ…!?お前だって人の身体で好き勝手してくれたじゃねぇか!お前に文句を言われる筋合いはねぇだろ!」

「多分それは、レムくんのためにならないよ」

「誰が俺のためになることしろって頼んだんだ!?そんなもん知ったことか、俺を甘やかせよ、普通に優しくしてくれよ!あぁ、お前が思ってる通りだ、俺は誰でもいいのさ!けど俺がこんなこと頼めるのはシノアとお前くらいだからこうして頼んでんじゃねぇか!お前、俺が好きなんだろ!?良かったじゃねぇか、付け入る隙が出来たぞ!ここで親身に俺を癒してくれれば、俺はもうお前一筋だ!他の女に行く訳もねぇ!お前にだって得があるじゃねぇか!何でそこで意地を張るんだよ!?」

 ロベリアは悲しそうに笑って聞いていた。…あぁ、駄目だ。こいつはもう俺の言うことなんか聞いちゃいない。このまま押し切って関係を結んだとしても、そこは俺が求めるような甘やかな寝床ではなく、もっと冷たく渇ききった剣山にしかならない。

「…あぁ、そうかよ。もうお前には頼まねぇよ。一生独り身でいやがれ!」

 下らない捨て台詞を吐いて部屋を飛び出した。押し退けられたロベリアは、そのまま俺を引き留めなかった。俺はまた寮を出て外をほっつき歩いた。雪は止んでも曇り空、余計に陰鬱になるばかりだ。どいつもこいつも自分を棚に上げて俺を拒絶しやがる。

 …寮を出てからずっと、少し後ろをついて歩いてくる奴がいた。俺に話し掛けようとして躊躇い、そのままここまで付いてきたのだろうが、鬱陶しくて仕方がなかった。俺が立ち止まるとその後方の足音も焦って立ち止まり、俺は振り返ってそいつを睨み付けた。

「…何の用だ、ミファ」

 ミファはアワアワとたじろいで1歩下がると、「その…えっと…」と泣きそうに目を潤して舌を縺れさせた。俺は『早く言え』と苛つきながらそれを見つめ、ミファは俯いて漸くそれを告げた。しかしそれは俺の予想に違わず、これまた鬱陶しい提案だった。

「…私のせいで、レム先輩もパーティになれなくなってしまって…。本当にごめんなさい。…だから、そのお詫びがしたくて…」

「詫び?」

「はい。…その、私、何でもします。…レム先輩のお願いなら、何でも聞きます。一緒に、レム先輩をパーティに入れてもらえるようにお願いしに行くのでも、クリス先輩に謝るのを手伝うのでも、…何でも、レム先輩の好きなことを…」

 ミファが必死に許しを請いながら近づいてくるのを見て、俺は堪らず吹き出した。…馬鹿にも程がある。今、この状況において、『何でもする』というのがどれだけ責任の伴った重い言葉か分かっていないのだ。

「抱かせろと言っても従うのか?」

「は、はいっ!」

 ミファは急いで駆け寄り両腕を広げた。そのままじっとして、俺が抱き締めるのを待っている。…ミファがとぼけている訳ではないのは知っているが、その剰りに無知な仕草に「アホか」と鼻で笑った。ミファは一転して不安を顔に出し、「え…」と絶句して腕を下ろした。

 俺はミファを抱き寄せた。

「じゃあ、キスさせろよ」

「えっ、き…キ…」

「出来るのか?」

 ミファはただ慌てた。顔を赤らめる心境にすらない程に焦り、長いことあちこちに眼を泳がせていた。そして意を決し、ミファは目を瞑って唇を差し出した。

 その滑稽な姿を絵か何かに残せるものなら、一生その絵を指差して笑い者にしてやりたかった。俺は顎を突き出したその顔を少し眺めると、前触れなく罵声を叩き付けた。

「お前は俺を愛してない。お前が俺を慕ったのは恋じゃない。お前の好意なんかママゴトだ。友達と思った奴らに裏切られて、唯一心から信用できる男にすがり付いていただけだ。お前みたいなガキとキスなんか死んでもごめんだ。関わるのも嫌だ。お前が視界に入る度にクリスがチラつくんだ。これからはもう軽々しく俺の前に顔を見せるな。じゃあな」

 途中からミファは目を見開いて言葉を失っていた。俺は構わずミファから離れ、さっさと背を向けて別れた。ミファはその場に立ち尽くして俺を見送り、追い掛ける様子も無かった。


 また踊り場に辿り着いた。セスの墓には近寄らなかった。僅かに雪が溶けて水気を帯びた積雪が靴を濡らし、その気持ち悪さに怒りが煽られると、限界を超えたのか一気に平静へと立ち戻った。手摺りに触れて街を一望し、冷たい風を受けている内に孤独感が深く積もっていく。そうして今更になって、ミファに甘えてしまえば良かったと後悔した。それはもう叶わない。

 ジュクッと湿った雪を踏む足音が階段から登ってきて、振り返るとメーティスが泣いていた。俺が何か言おうとする前に、メーティスは駆け寄って俺に抱き着いた。そして顔を合わせると、何処か安心した顔で叱った。

「バカ!どこに行ってたの!?1日中帰ってこないで、皆心配してたんだよ!?何でシノアの家にいないの!?もう、本当に…!」

「………あ…その、…ごめん…」

「あぁ、…良かった…無事で…。ねぇ、早く帰ろう?ずっと外にいて冷えたでしょ?部屋で暖かくして過ごそうよ」

 メーティスは何でもないように帰宅を促した。大会のこととか、クリスのこととか、そんなものには触れてこず、純粋に俺の無事を喜んでくれていた。シノアともロベリアとも違って俺を大事にしてくれる。ミファと違って後ろめたい気持ちでの行動でもない。メーティスだけは、ずっと俺を心配して、自ら俺に寄り添ってくれていた。

 メーティスをぞんざいに扱いたくはなかった。だから甘えるにしても、メーティスは選ばないつもりだった。それが今、彼女の自然な優しさに満たされて、そうした自制心など何の意味も持たなくなっていた。

 …最初から彼女を選んでいれば良かったんだ。メーティスがいてくれればそれで良かったんだ。彼女はいつも俺を見てくれて、俺も彼女を大切にしてきたじゃないか。

 俺はメーティスを抱き締めた。メーティスは拒むどころか腕を回して受け入れた。俺は聞こえの良い言葉で飾った断りなどせず両腕に力を込めた。

「…レム、大丈夫?」

「ああ…」

「疲れたよね、もう休んでいいんだよ」

「……ああ…」

 メーティスは痛がらなかった。耳元でそっと囁いて、俺の背中を擽るように撫でた。その内風が出始めたが、もう寒くは感じなかった。

「レムは頑張ったよ。凄く頑張ってた」

「けど、どうにもならなかった。…結局、お前のこともクリスの所に連れていってやれなかった。…努力は裏切らないなんて嘘だ」

「嘘じゃないよ。結果は良くなかったかもだけど、私達はレムが頑張ったことを知ってるもん。だからレムのためになろうって思える。レムが努力したことを知ってる人は、皆レムの努力を認めてるよ。だから努力は裏切らないんだよ」

 ふと、顔中が熱くなって視界が歪んできた。涙が頬を伝ってメーティスの肩に溢れた。同時にメーティスが俺を強く抱き締めてくれて、胸の内から湧き出した声が痺れを伴って口から溢れた。

「…メーティス」

「…ん、なぁに…?」

「……付き合おう」

 好きだ、とは言わなかった。言おうとしたが何故か喉に(つか)えて言い出せなかった。メーティスは止めずに背を擦りながら、「うん」と頷いた。

 それ以上の会話は無い。その場でそうして抱擁し合い、寒空の下で暖を取り続けた。クリスの笑顔が、涙が、いくつもの表情が脳裏に浮かび、それを振り払ってメーティスを抱き締めた。

 クリスとのことは全て忘れて、この温もりに溶けてしまおう。この日から俺はこの厳しい冬を、メーティスと身を寄せて過ごしていった。

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