第16話 越えられぬ宿命の壁
翌週の月曜日に、とうとうクリスの戦闘訓練が始まった。指導に当たるのはAクラス担任ということでマイクに決まり、訓練時の手当てのため回復魔法演習担当教員のレイラ・アグナバル先生が同伴するらしい。ただ想定外なのは、本来予定されていた2年生からではなく、3年生から協力者が抜擢されたのだ。そしてその協力者というのが、ゴーレム事件の際にクリスの下に駆けつけた男女の先輩だった。これはクリスの希望と、教員会議での多数進言による決定らしい。
クリスは頑張っている。俺達1年生がトレーニングを行う時間も、毎日の放課後でも、俺達に見えない所で頑張って、気の抜けた顔で帰ってくる。…この一週間、俺とメーティスは常に蚊帳の外だった。
「…クリス、疲れてないのかな?…何か、最近元気無いよね」
「……無理してるのは明らかだよな。…そもそもあいつ、『私は疲れたりしないから』とか言って部屋でもろくに休まねぇし。…そんなに急いで、得することなんか無いのにさ…」
勉強机に向かう俺に、メーティスも隣に座って話し掛けた。何もしていないと落ち着かないのか、メーティスもこの頃は教科書を読み耽って過ごす。…落ち着かないのは俺も一緒か。
コンコン、と控え目にドアがノックされ、メーティスが振り返って「どうぞー!」と答えると、また控え目にドアが開かれ遠慮がちにロベリアが顔を覗かせた。
「…えっと、ごめんね。レムくん、今日忙しいかな?」
メーティスは「特に…」と答えようとしかけて俺を向き、返答を任せていた。…別に、何も用事は無いんだがな。…本当に、嫌になるくらい何も無い。
「何か用なのか?」
勉強道具を片付けながら身体を向けて訊くと、ロベリアは慌てた様子で首を振り、
「あっ、ううん、別に…。…ただ、部屋の女の子達が気を遣って出掛けてくれて、レムくんが良かったら部屋に呼びたいなって…思って…」
「…そっか。…メーティスも、来るか?」
もう片付けてしまったのでロベリアの部屋にお邪魔することにしたが、そうするとメーティスが部屋に独りぼっちになってしまう。そう思って誘ったのだが、メーティスは一瞬ポカンと俺を見てから心底怒った顔をして立ち上がった。
「行かないっ!そこは恋人同士で水入らず過ごすところでしょ!ロベリアさんに失礼だよっ、そういうの!」
「あっ……まぁ…そう、だよな。うん、そりゃそうだ。…悪い…ごめん。……ロベリアも、ごめんな」
メーティスはふんっ、とそっぽ向いて、ロベリアは両手を振って乾いた笑みを浮かべた。それを見てメーティスは腕を組んだまま溜め息を溢し、僅かに微笑んだ。
「ううん、そんな…。じゃあ、行こ?」
俺は頷き、ロベリアと共に部屋を出た。廊下を歩きながら、『クリスは毎日辛い思いをしているのに、俺はこんなことをしていていいのだろうか』と落ち込んだ。
…いや、他の人がどうあれ、恋人と一緒に過ごすことがいけない訳が無い。…そうじゃないのだ。俺にも何か、何でもいいからやるべきことを見つけなければならないのではないかという話だ。…今、俺に出来ることとは何だろう?
夕食を終え、ロベリアと別れて部屋に戻ると、既にクリスは帰って来て入浴も済ませた後だった。バスローブを身に纏ったクリスは勉強机に向かって図書館から借りた専門書を読み漁っている。薄紅色のシャツパジャマ姿をしたメーティスも隣で教科書を読んでいたが、俺が入室するとパッと振り返り「おかえり!」と笑っていた。
「ただいま。…じゃ、風呂入ってくるわ」
「うん、いってらっしゃい!」
帰ってくる前までと打って変わってメーティスは機嫌良さそうにニコニコして頷くが、クリスは忙しそうに「いってらっしゃい」と続いてすぐ机に向かい直っていた。俺は着替えを手にベッドを降りると、クリスの背中に声を掛けた。
「…明日、明後日は何するんだ?何か予定とかあるのか?」
クリスはペラッと頁を捲り、その問いには答えなかった。代わりにメーティスが振り返り、
「特に無いけど…レムはロベリアさんと遊ばないの?」
「いや、日曜日にシノアと会う約束をしてるんだ。土曜日はそうだけど…。…何も無いならお前らも呼ぼうかと思ってた」
「…そうなんだ。うん、じゃあ私も行くよっ。…クリスも行くよね?」
クリスはやっと本から顔を上げ、少し悲しそうに笑いながら首を振っていた。それを見て、メーティスは責めるように顔をしかめて俺に眼を逸らした。
「…私は、実家に帰って伝説の勇者のことを調べなくてはならないから。…まだまだ私が知らないといけないことばかりだし、休んでいる訳にはいかないもの…」
「…少しは休め。根詰めて何になるんだ。仕事が出来る奴ってのは切り替えがはっきりしてるもんだってうちの親父が言ってたぜ」
優しく諭しても、クリスは首を振った。そして本を閉じて立ち上がると、自分のベッドに歩み寄ってロッカーから鞄やらを取り出し始めた。メーティスも俺も呆気に取られたが、「何してんだよ」と呼び掛けるとクリスは鞄を持って俺を向いて立った。
「今から家に帰るわ。日曜の夜には戻るから」
「いや…何でだよ。そんな急ぐような理由無いだろ?」
「あるわよ。急いでも急ぎ足りない。…それに、ここにいたら言い争いにしかならないわ」
「だからさ、切り替えろって!休む時は休む、やる時はやる!そうじゃなきゃ何も効率良く出来ねぇだろ!」
「それは疲れを知る人間の理屈よ。私には当て嵌まらないわ。私は仕事でやるんじゃない、私が生まれた意味を果たすためにやらなくてはいけないのよ」
そう言うと、クリスは下を向いて足早に俺を通り過ぎた。手を伸ばしたがするりと抜けて、そのままクリスが去るのを黙って見送るしか出来なかった。クリスがどんな顔をしていたのかすら、俺には拝めなかった。
「…クリスもいっぱいいっぱいなんだよ。戻ってきてから、ちゃんと話そうね」
メーティスは俯いて静かに告げると、ぼんやり床を見つめたまま黙り込んだ。俺は何も言わず廊下に出て、大浴場へ向かう途中、むしゃくしゃして通路の柱を蹴り飛ばした。
「お越しくださってありがとうございます!またレムリアドさんとお会いできて嬉しい限りです!」
シノアは俺達が顔を見せるやストレートに告げて俺の手を取った。そうして張り付いた笑みを俺に向けると、「メーティスさんも」と遅れて付け加えた。メーティスは困ったような笑みを浮かべて俺達を眺め、応接室に通されると出された紅茶とクッキーに気を良くした。…メーティスが単純で良かった。
顔を合わせたのも久しぶりだし、ゆっくり話でもして過ごそう。ロベリアの件で謝るのも腰を折るようで憚られるため、話しながら様子を見たかった。しかし、そう穏やかにもいかないようだ。
それまでニコニコと微笑んでいたシノアは俺が紅茶に手をつけると、口元だけ笑わせたまま目を見開き、
「それで、レムリアドさん。…レムリアドさんの彼女さんは、どのような女性なんですか?」
前置きも無く、シノアは単刀直入に俺に詰め寄った。その視線の鋭さに冷や汗を掻く俺を一瞥して、「トイレ…」とメーティスはそそくさ出ていった。
「…いや、…まぁ、どんなっつっても…」
「同級生というお話ですよね。座学に秀でた方でしょうか?それとも容姿に富んだ方でしょうか?」
「いや、成績は俺と同じくらい…顔はまぁ、いい方かな…」
「『いい方』ですか、そうですか。…なら、レムリアドさんがそのロベリアさんという方を選んだ理由などは…」
「……一緒にいて、楽しかったし…。あっ、いや、シノアと過ごすのも楽しかったぜ?……だから、…何て言うか…」
シノアはじっと俺と眼を合わせたまま、俺が答えきるまで待つ気のようだった。その真っ直ぐな眼と、自分が答えようとしている内容とが頭の中でぐるぐる回って、…自分は何て浅はかな行動に走ったのかと後悔した。
そのまま黙っている俺を見つめ、シノアは悲しそうに顔を引っ込めて「すいません」と俯いた。数分そのまま静寂が流れ、メーティスが帰ってくるとシノアは場を取り成すためにメーティスと談笑し始めた。
…全て俺が悪い。そんなのは分かっている。…だが、ならば、俺はロベリアと別れるべきなのではないだろうか?…しかし、そうしてしまえばロベリアとの関係は崩れ、今度はシノアから交際を持ち掛けられたりはしないだろうか?…それは俺としては最も避けたい状況である。俺はまた2人と円満な関係に戻りたいのだ。
なら、2人と付き合えばいいと言うのか。愛してもない相手2人を同時に?…そんな馬鹿な選択肢は無い。2人ともそれを望まないし、そもそも俺がそんな状況を許せない。苦渋の末にそれを選び、2人が納得したとしても、俺はすぐ『いっそ全てぶち壊しにしてしまえ』と暴走するだろう。ハーレムの選択は滅亡にしか繋がらない。
…贅沢な悩みだな、とふと思った。クリスは恋愛すら自由に出来ないと言うのに、それを支えると告げた俺はこんなところで何をアホらしいことを考えているのだろうか。
………疲れた。もう、どうにでもなればいいんだ。ロベリアが、シノアが、俺を愛していようがそんなことを俺が心配する必要が何処にあるんだ。勝手に2人が俺を好いているだけだ。俺はどちらを愛している訳でもない。なぁなぁにして仲良くいきたかった所に無理やり選択を突きつけたのはロベリアだ。…全部、ロベリアの意思に任せてしまえばいいじゃないか。それでシノアとの仲が、場合によってはロベリアとの仲が崩壊したとしても、その責任はロベリアにあるじゃないか。
「…レムリアドさん、紅茶、お口に合いませんか?」
シノアが首を傾げて不安そうに俺の手元を見つめ、俺はその眼を追ってカップを眺め、僅かに冷めたそれを口一杯に流し込んだ。
「いや、美味かったよ。ありがとう」
そう言って笑い掛けると、シノアは困惑した笑みを返して「でしたら良いのですが…」と自分の紅茶の味を確認していた。メーティスは俺の様子を訝しみ、クッキーを口に放って見つめてきた。
…もう2人の顔色を窺うのはやめた。俺は俺の好きなように、気が向くままに仲良くすることにした。シノアとも普通に話すし、それにわざわざロベリアの許可を貰うようなこともしない。
愛想尽かされようと構うものか。
7月20日、月曜日。昼食をさっさと終えた俺はロベリアを食堂に放置して図書室へと向かった。無理をしてばかりで聞かないクリスに、せめて自分も同じ苦労を負いたいと思い、勉強のための参考書を探しに来たのだ。ロベリアも、俺が用事があると言うと無理に引き留めたりはしなかった。
…参考書など、入学して1度も見ようとしたことがない。当然選び方も分からなかった。これなら誰か付き合わせれば良かったかもしれない、とロベリアを置いてきたことを後悔し始めたその時、1つ先の本棚に向かって懸命に背伸びする生徒を見掛けた。その右腕を必死に伸ばして本を取ろうとする彼女に覚えがあり、俺はハッと息を呑んで駆け寄った。
「あれっ、…君は…」
眼を丸くしたその先輩は、俺に気づくとオレンジ色の髪を揺らして振り返り、俺は「どうも」と軽く会釈して本を取って渡した。
「これですよね、取ろうとしてたの」
「あっ、うん!ありがとうね、1年くん!…じゃなかった、えっと、…そう!レムリアドくんだ!」
先輩はポンッと手を叩き、本を受け取ると抱き抱えて笑った。
「俺の名前、知ってたんですか?…あれ?言いましたっけ?」
「だって君、クリスさんのルームメイトでしょ?クリスさんからいつも聞いてるよ、すっごく真面目な男の子だって!」
…クリスの奴、俺のことそんな風に思ってたのか。全くもって現実の俺とは正反対な評価だった。
かぶりを振って「それはどうも」と返すと、先輩は手を差し出して俺の目を見た。俺は困惑しながらその手を握り返し、先輩は力の籠らない握手を交わして人懐っこく笑い掛けた。
「私は3年Bクラスのサラ・ミーア。何か困ったことがあったらいつでも頼ってね」
「あっ、はい、ありがとうございます。俺、1年Aクラスのレムリアド・ベルフラントです。よろしくお願いします」
「うん、よろしく!」
手が離れると、サラはじっと俺を見上げ、俺から何か言われるのを待っているらしかった。そのまま別れるつもりでいたが、折角クリスの戦闘訓練に立ち会っている相手と打ち解けたのだからと、痺れを切らして歩き出しかけていたサラに少し訊ねてみた。
「クリス、戦闘訓練での様子はどうですか?」
サラは首を傾げ、ほう…、と口の端をニヤけさせて腕を組み、右手に摘まんだ本をプラプラ揺らしていた。
「んー、そうねぇ…。まぁ、頑張ってるよ。慣れない訓練に気を張りっぱなしだけど、最近は要領も掴めてきてるから。…でも、いちいち落ち込み過ぎるってのがネックかしらね。ジーンくんともよく話すけど、その辺はルームメイトの君や、…メーティスさんだっけ?その2人で慰めてもらうのがいいわね」
「そうですか…。…あの、俺やメーティスが放課後の訓練見学するってのは出来ますかね?」
サラは笑みを引き、真剣に考え込んでゆっくりと頷いた。
「まぁ、出来ないことは無いと思うけど。…それをクリスさんが了承するかどうかよね。…あの子はひょっとすると、自分の苦労を見せたがらない子かもしれないから、断られるかも…。本人に訊いてみて」
「…分かりました」
…あぁ、駄目だろうな。…もうその予感があった。
サラはにっこりと頷いて、「他に訊きたいことある?」と後ろ手を組んで顔を寄せた。ふわりと髪が香って一瞬鼓動が高鳴るが、その熱はすぐに冷めて胸から抜けていった。
「じゃあ、参考書…探すの手伝ってもらえますか?」
「ふふん、先輩にお任せっ!」
サラは嬉しそうに俺の手を引いて参考書のエリアに歩いた。…彼女の笑顔に心が揺れたのも、先程の1度きりだった。
ベッドに上がった俺を、「何してるの?」とメーティスが梯子を登って見た。スポーツウェアに着替える途中だった俺に、メーティスは耳まで真っ赤になって梯子から落ちた。バタンと大きな音を立てて尻を着いたメーティスを、俺はベッドから見下ろした。
「ちょっ、お前大丈夫かよ!?怪我してないか!?」
「うぅ…怪我は無いけど痛い…。…そ、それよりレム、どうしたの?そんな着替えたりして…」
メーティスは腰を擦って立ち上がり、俺はサッと着替えを終えて梯子を降りた。ピシッと身体を覆うコンプレッションウェアの感覚に、あまり慣れておらず違和感が激しい。全身真っ黒なのはまともに選んでいないためだが、…まぁ、別にいいか。
「ちょっとジョギングにな。…部屋にいたら息が詰まる」
「え?…あっ、じゃあ、私も!」
「お前は運動する服持ってないだろ?…それに、クリスが帰ってきた時迎えてやる奴がいなきゃ可哀想だろ。今日のとこは俺だけ、お前は留守番だ」
メーティスは残念そうに「うん…」と俯き、指先で髪をくるくる弄ったりしていた。俺はその頭を撫で、いじけた彼女に笑って、
「帰りに3人分アイス買ってきてやるから。…留守番頼むぜ。何味がいい?」
「…私、チョコ。…クリスはバニラかな。遅くならないでね」
「あぁ、サンキュー。んじゃ、行ってきます」
メーティスは俺に手を振って送り出し、俺も手を振り返しながら部屋を飛び出した。寮を出て、気が赴いた方へと走っていった。
コースくらい決めて出た方が良かったな。見切り発車だった。だけど、走り回るのは嫌いじゃない。ユダ村にいた頃だって、遊ぶ時はいつも走っていた。肌を撫でていく夕暮れの涼しい風や、遠く聞こえるひぐらしの鳴き声、それらを全身で受け止めて汗を流すと爽快な気分だった。近頃の鬱屈とした時間も忘れられた。
…クリスはそんな爽快感すらなく、ただ背負わされた宿命のために心を擦り減らされているだけなのだろう。そうと気づいた時、俺は堪らなく自分が薄っぺらく思えた。知らぬ間に叫んで、人通りの少ない場所を、ただ独りで走っていた。
その先に、以前メーティスと共に登った城への階段が現れる。膝に手をついてぜいぜいと肩で息を整え、少し休憩と思い階段を登っていった。身体は思いの外軽かったが、心は沈んでいた。
いつかの絶景。そこに夕陽が落ちていくのを眺めていると、静まった胸がまたざわついて、俺は手摺に背を向けて座り込んでいた。黄金に照らされた街も、少しずつ暗くなっていく。
昼休みにクリスと話したのだ。サラが言ったように、見学は断られた。部屋で傍にさえいてくれればそれでいいからと、クリスは優しく微笑んでいた。…俺からクリスにしてやれることは無い。やれることと言えば自分を磨くことだが、その先のビジョンが見えていない。単に磨いているだけだ。その場凌ぎの努力擬きだ。
…俺は何をやっているんだろう。何かをして、クリスの苦悩や自分の小ささから眼を逸らして、ただ満足したかっただけではないか。…何でこんなにも、俺は弱いのだろう。
フフ、フ……と、自嘲していると、左から黒猫が擦り寄って、胡座をかいた脚の上に乗ってきた。指を組んで正面に垂らしていた両手をその猫はクンクンと嗅いで、俺を見上げると小さく鳴いた。
「…どうした?…お前、迷子か?」
にゃー、と一鳴き。
「…前も1匹じゃなかったか、お前。…寂しくないか?」
猫は手の甲を舐めて、また俺を見上げる。俺はその目を見つめている内に、無性に胸が熱くなっていた。
「…俺も、1人だ。…周りに人はいるのにさ。…何か、…いつも1人なんだ。……分かるか?」
猫は答えず、見つめていた。
「ははっ…分かるわけねぇか。……何でだろうな…何で俺…こんなに女に気を許せなくなったんだろうな…。前は違ったよな…俺…」
猫を抱き上げ、背を向かせて脚の上に座らせると、その背中や喉元を撫でて愛でた。陽が落ちて、街は黒く染まる。俺も帰らないと。…そう思って猫を地面に下ろした時、ポタッと目から雫が落ちた。
涙だった。
「…ぁ……は、はははっ…はぁ?…何で…はは……」
それから暫く、俺は立てなかった。滲んだ視界の中で猫が見上げながら胸まで登ってきて、俺の頬を舐めた。…訳も分からず流れ続ける涙を腕で拭って、その間猫はずっと俺の頬を舐めていた。
…女に踏み込めない俺は、こうして猫に慰めてもらっていた。理由も分からず人を愛せない悲しみや、友達を助けられない未熟な自分を、物言わぬ小動物に身を寄せて埋めていた。それもこれも、俺が小さく弱いためだ。
それから1週間、ジョギングの度に陽が暮れるまで猫を愛で、自分を落ち着かせて帰宅した。『セス』と名前まで付けて…。…そうまでして俺は、人前では悩みも何も無い能天気な男になろうとしていた。




