第13話 甘えた選択
俺達はクリスと共に歩くと決めた。しかし、詳しい事情はまだ話せないと言う。それはクリスの一存で決めるべき問題ではない上に、クリス自身の口から告げられても信憑性に欠ける事態になりかねないためだ。おそらくは学校の再開日の放課後、教師と俺達を交え、『チェルシー』とかいうクリスの婆やが説明してくれることになるだろう。
とにもかくにも命を拾ったクリスを癒してやれるよう、その夜はメーティスと奮発してピザ屋へ向かった。初めてピザを食べるらしいクリスのどぎまぎした手つきにメーティスと笑みを見合わせ、クリスはそうした俺達にはにかんでいた。…目の前の、僅か16歳の儚い少女が伝説の勇者の末裔だと言うのは…共に歩くと告げた手前口には出さないが、未だ俄に信じ難い。
夕方には寮へ戻り、少し休んでから風呂に行こうと思っていた所に、ポタ、ポタ、ポタ、とノックにしても弱々しい女の手の音がドアから響いてきて、勉強机の前の椅子に腰掛けていた俺は左右のクリスとメーティスに視線を交わして、「どうぞ」と声を張った。
またも遠慮がちに、カチャ…とノブの音を立てて顔を覗かせたのは、風呂上がりなのか婀娜やかに髪を濡らして肌を赤くした寝間着姿のロベリアであった。
ロベリアは、見様に依れば下着のようなワンピース調のピンク色の寝間着に身を包み、ドアを閉めて入ってくると、両脇の2人を気にしないように俺だけ見て真っ直ぐ近づいてきた。その固い面持ちからずっしりと緊張が伝わってくる。
「何だよ、ロベリア。何か用事か?」
軽い調子で訊ねると、ロベリアは俺の目前でピシッと立ち止まり、何度か深呼吸を繰り返して両手を握った。その顔は耳まで真っ赤になって、俺は少し覚悟してその言葉を待った。
漸く口を開いたロベリアは、震え気味で細い声を必死に先走らせていた。
「明日、一緒に遊ばない?どこかに出掛けて、2人だけで…」
「明日か?…明日は…」
俺は返答を渋ってクリスの方を向いた。メーティスも俺とクリスを見比べ、クリスは気を遣って微笑みながら首を振って告げた。
「私、明日は1人で行きたい所があるから、ロベリアさんに付き合ってあげたらいいと思うわ。…メーティスはどうしたい?」
次にメーティスを見ると、メーティスは俯いて少し悩んだ後、
「…私、明日は寮でゆっくりしてるよ。レム、行ってあげて」
そう言ってロベリアを見つめていた。俺は未だにプルプルと震えたまま気をつけしているロベリアに顔を合わせ、
「じゃあ、一緒に遊ぶか。何時からがいい?正午からがベストか?」
ロベリアは引き攣ったままの顔ではにかみ、眼を逸らしたまま腰の後ろで手を組んで勢い良く頷いた。
「…う、うんっ!…えっと、じゃあ、12時頃に寮のロビーで待ち合わせで…」
「ん、了解」
口早に約束を取り付けると、ロベリアは逃げるように「じゃあ!」と手を振って出ていった。バタンと閉められたドアの向こうでバタバタと駆け出しながら何やら悶えるような高い声が透き通ってきた。その騒ぎを聞き届けたメーティスは俺を振り返り、
「デートするなら、レムがロベリアさんをどう思ってるのかはっきりさせるべきだと思うよ。じゃなきゃ酷いよ」
「お前、勝手に囃し立てておいて良くもまぁ…。…いや、実際そう言うのは尤もだとは思うけどさぁ…」
文句が言い辛い雰囲気の中、メーティスは俺の返事に口を尖らせてベッドから乗り出して、
「私、ロベリアさんの味方をしただけだもん。何にしても、レムはロベリアさんに…シノアさんにもだけど、自分の気持ちをちゃんと伝えて、2人を納得させなきゃだめだよ。曖昧にしたまま取り繕ってばかりいたら2人ともすっごく傷つくと思うもん」
俺は何も答えず給湯室へと出ていった。メーティスはそれ以上しつこく促すような真似はせず、クリスは最初から他に気になることがあるのか俺のことどころではなく、自分の足下を見下ろしたままぼんやりとしていた。
翌日のデートでは、相変わらずと言うのか、行き先のレパートリーが少ないため、既にシノアやメーティスと同伴したことがあるような店にしかロベリアを連れていかなかった。そして早々に買い物に見切りをつけ、2人して噴水広場のベンチに腰掛けて休むことにした。
傍に子供集りを作った引き車式の屋台が出ていたので、そこでイチゴと、リンゴのクレープを1つずつ買ってベンチへ向かうと、丁度トイレから戻ってきたロベリアはハンカチで手を拭きながら驚いて俺を見た。
「あっ、ごめんっ、ありがとう。…いくらだった?」
「いや、いいよ。これくらいなら俺の奢りで。たった数十アルグ返すだけに財布出すのもめんどいだろ。…ほら、こっちお前の。リンゴ好きだったろ?」
財布に手を伸ばしたロベリアを制してアップルクレープを渡し、それからすぐ、先程クレープの待ち時間の内に軽く濡らしておいた使い捨てのハンカチでベンチの汚れを取った。そうしてロベリアが座る場所を作ってやり、
「これで大丈夫かな。ほら、座って食べな」
「…ありがと」
ロベリアはどこか複雑そうに笑いながら頷いて座り、俺もその横に腰掛けて自分のクレープに手をつけ始めた。ロベリアと俺の鞄、加えて買い物袋も俺が傍らに預り、ロベリアは手持ち無沙汰なのかチラチラと俺や鞄を盗み見て落ち着かない様子だった。
「…ふーん、結構美味いな。もっと甘いもんかと思ったけど、意外とあっさりしてるっていうか」
ロベリアが変に黙っているので適当に会話のネタを提供してみたが、ロベリアはそれを無視して唐突な質問をした。
「レムリアドくんって…」
「おん?」
「レムリアドくんってさ、…彼女とかいたこと、あるの?」
「何で?」
「…だって……」
ロベリアはそれっきり口を噤むと、クレープを両手に持ったまま俺と眼を合わせて固まった。俺は大きくもう一口かじりついて、それを食べる間に返答をまとめた。
「交際経験無しで、地元には同い年の女子もいなかったさ。…だけど、妹がいたからな。どうしても女子との関わり方の基準にしてしまってる気がする。…もし、知らない内に子供扱いしてたんならすまん」
「…子供扱いじゃなかったけど、…過保護みたいかな。…ちょっとやり過ぎな感じもするかも。…い、嫌じゃ、ないけどっ…」
「…そっか。…ふむ」
…何がいけなかったのかよく分からないが、帰ったらクリスに聞いてみようかな。あいつは彼氏がいたらしいし、メーティスよりは経験があるだろう。…ただ、それで女子の扱いを学んで今以上にロベリアに好かれてしまってはいけない。
最高の結果は、好かれるでも嫌われるでもなく、ロベリアから俺への興味が霧散することだ。つまらない男だと上手く見透かせるために、女性の扱いを学ぶ。…これほど矛盾していてどうしようもない行為が他にあるだろうか。他人がそんなことを口にすれば俺はありとあらゆる罵声を浴びせて殴ることだろう。…ただ、自分を殴るのはどうにも難しいようだった。
「レムリアドくん」
ロベリアはまた俺に話し掛けた。少し思い詰めてクレープに口をつけたままでいた俺は、そのまま一口食って誤魔化して、「あぁ」と返事してその先を聞いた。
「レムリアドくんは、茶髪ってどう思う?」
「茶髪?」
「…やっぱり、地味だと思う?」
ロベリアは傷つくのを覚悟するようにクレープをじっと見下ろして、しかし期待も胸にして横目で俺を見たりした。…ここで、『地味だ』『つまらない』などと言ってしまえば、ロベリアから俺への好意は消え、代わりに憎しみが向けられることだろう。
しかし、俺はロベリアを悲しませたくも、まして嫌われたくもない。彼女と過ごす時間は楽しくて、出来ることならいつまでも友達でいたいのだ。…だから口下手な俺は、それがロベリアからの好意をより強固にしてしまうと悟っていながらも、彼女が期待する返事をするしかなくなっていた。
「世間的には、そりゃ派手な色の方が好まれるだろうな。でも、俺は茶色もそう悪くないと思うぜ。他の色にはない長所だってある」
「長所って?」
「柔らかくて優しいイメージだ。赤や、青、緑や、黄色…華やかな色はこっちだろうけどさ、ちょっと主張が過ぎて攻撃的に見える気がしないか?黒とかは、華やかとは違うけどまぁ綺麗で清楚って感じだな。だけど、黒も黒ではっきりした色だから、少し厳つい感じだ。…それに比べると、お前の髪は焦げ茶色だからさ、黒が持つ厳ついイメージがフラットになって、より親しみ易い感じになってると思うぞ。赤い瞳も合わさって綺麗だと思う」
ロベリアは驚いて目を丸くし、顔を上げて俺を凝視した。それに笑い返してやると、ロベリアは途端に泣き出して、俺は少し慌てたものの何とかポケットのハンカチを手渡した。ロベリアは「ありがとう」と受け取って涙を拭くと、ハンカチを膝に置いてクレープの残りを食べきった。
そしてやっと落ち着くと、「ごめんね」と頭を下げて笑って言った。俺は急に泣いた女子への正しい接し方というのが分からず、自分と全く違う生き物を相手にするようなただ恐ろしい心地で眼を合わせていた。
「髪の色、褒められたのって、生まれて初めてで…。私の親、お母さんは赤髪でお父さんは黒髪だから、私の髪は家族の中でも悪目立ちしてたんだ。お母さんが出ていってから、悪口は無くなったけど、褒められるようなことも無かったから…」
「そうなのか、辛かったな」
「…私のお母さんね、お父さんが奴隷を拾ってコソコソ世話するもんだから、堪りかねて出てったの。…捨て奴隷って、分かる?奴隷制度が無くなった今でも孤児がいろんな所で売られたりしててね、主人が手放したり、逃げてきたりすると捨て奴隷になるの。…売春でお金を刮ぎ取って、家庭を壊していく嫌な人達なの。…お母さんがいなくなってすぐ、その奴隷もお父さんを裏切っていなくなった。…みすぼらしい、汚い女が、私の家をめちゃくちゃにしていったのよ。許せないでしょ?だから私、奴隷って嫌いなのよ」
「うん、うん。大変だったな」
…髪の話をしていたと思えば、話題は彼女の家庭へと二転三転していく。俺はそれに対し、返す言葉を見失ったまま当たり障りのない相槌を打ち続け、彼女からはギュウ詰めのクローゼットを引いたように秘め事が雪崩れ込んだ。
最初こそ真摯に受け止める気でいた俺だが、終着しない会話に呆れ返り、とうとう表面で共感するだけの作業を始めてしまっていた。…女子の会話というのはどうしてこうも実りが無いのか、坦々としていて筋が見えない。導かれる結論すら無い。何分も何分も、吐き出される心に馴染むことだけを考えて過ごし、俺は既にそんな会話に飽きてしまっていた。とっくにクレープも食べ終わっている。
俺の興味が会話の中に見出だされたのは、また突然のことであった。彼女が不意に、入学の経緯へと会話を転じて、俺はそこに真の意味で共感して漸く真っ当に会話を試みたのだ。
空はとうに白くなり、陽は降りて赤澄んでいた。
「私の家、長男以外は皆討伐軍に入ってたの。だから、私も、何の相談も無かったのに、討伐軍に入らなきゃいけない空気になって…」
「…俺も、好きで入った訳じゃなかったかな。村の占い屋に、『いつか世界を救う助けになる』って言われてさ、それを親が真に受けて…」
「そうだったんだ。…レムリアドくんも大変だったね。…他の人も、大体は親に言われて入学してるんだよね。稼業は上の子が継げばいいからって、下の子は皆駆り出される。…大人の事情って嫌よね」
俺はロベリアに首肯しかけ、ふと思い返してそれをやめた。…クリスとメーティスはどうなのだろう、と気になったのだ。俺はあの2人に入学の理由を聞いていない。
あの2人も、俺やロベリアのように親に言われて入学したのだろうか、それともごく一部の者と同じに自分の意思なのだろうか。
「…レムリアドくん、どうかしたの?」
ロベリアが横から俺の顔を覗き込んで不思議そうに訊ねる。俺はそれに首を振り、「いや、何も」と立ち上がった。立ち上がった勢いのまま空を見上げ、陽が落ちたので傍らの荷物をまとめて左肩に提げ、
「よし、そろそろ帰ろうぜ。悪ぃけどこれ捨てて来てくれ」
そう声を掛けてクレープの紙袋を持った右手を差し出した。ロベリアはにこやかに頷いてそのゴミを受け取ろうとしたが、指先が触れるとハッと息を呑み、強張った顔を俯かせて俺の手を握った。
ロベリアは眉を寄せて更に下を向き、紙袋ごと握っている彼女の手には熱と汗が籠っていた。
「どうした?」
訊ねるも、返事は無い。
「…なぁ、ロベリア?」
繰り返し問い掛けても黙りだ。ロベリアは声を潜めて何度か深呼吸し、その度に言葉を呑み込んでいた。訳が分からないが、俺は彼女が勇気を振り絞る間、黙っているしかなかった。最後にまた、一層大きな呼吸があり、シンと静まって、顔を上げたロベリアが口を開いた。
…その目は、今にも泣きそうだった。
「…あの…ね、…今日、ずっと言おうって…決めてたんだけど…」
「うん?」
「………その…、断ってくれてもいいから…えっと、ね……」
それっきり、ロベリアがキツく唇を結んだ。また勇気が出てくれるまで待たないといけないのか、とそう思ったが、次の沈黙は予想ほど長くなかった。
ロベリアは堪えられず泣き出し、スンスンと鼻を鳴らして空いた手で涙を拭った。本当に何も分からず、ただ肝を冷やしていた俺に、ロベリアはぐしゃぐしゃの顔のまま掠れた声で告げた。絞り出された囁きに、それまでの俺の恐怖は吹き飛んで、…残ったのは、ただ、突然の選択に対する困惑だけだった。
「好きです…付き合ってください…」
…その時の俺は、彼女の愛に純粋な姿勢で答えることは出来なかった。俺は彼女を愛してなどいないし、だからと言って突き放したい訳でもない。…しかし、友達でいたいという願いが叶わなくなった今、そのどちらかを必ず選ばなくてはならなかった。
目の前で、泣きながら俺の返事を怯えて待っている彼女に、どうにか優しい言葉を…せめて彼女が傷つかない選択をしたかった。…だけど、そんな選択は、やはりどう考えても1つしか無いのだ。そしてそれを選ぶことは、この場において最も誠意に欠けた行為であることも分かっていた。
…それでも彼女は喜ぶだろう、…最初から相思相愛なカップルなど世間的に見ても一握りのはずだ、……あぁ、これは、何て浅ましく醜悪で、自己中心的な物言いだろう!こんなものは俺が傷つきたくなくて繰り返すばかりの自己暗示なのだ!愛してもいない相手に愛を囁き籠絡するなど、俺が何よりも嫌う行為ではないか!
……しかし、…しかし…、俺には結局、彼女を拒むことは出来なかった。断ろうとも勿論考えた。恋人を作ることを怖れる自分が、今も胸の中の何処かで叫び続けている。だがそれ以上に、俺はロベリアとの絆を失いたくなかった。
…付き合って、手を繋いで、分かり合って、…そうすれば、いつか俺は心からロベリアを愛するかもしれない。そうすれば、恋人の関係を怖れる自分が何処から現れたのか、それをどう往なせばいいのか分かるはずだ。…今この場の選択に誠意が無かろうと、いつかはそれが本物に成り得るだろう。
…そんな、甘えた考えで…、俺は…、
「…よろしくお願いします」
頷いて、その手を握り返した。




