第113話
…地獄が終わって数日、世界は平和だ。…静かすぎるくらいにこの世から争いが失われた。もはや詰る者も嗤う者も殺し合う者もこの世には残されていない。全てが終ったのだ。不運にも猛火に焼き尽くされず生き残ってしまった煤だらけの一軒家、その1階に俺達は過ごしていた。
屋根も2階も吹き飛ばされ、カーペットに横たわって見上げた天井には亀裂が走っていた。その隙間を覗いて仰いだ空は、臓物の雲とでも言い表せる何かに覆い尽くされている。太陽も、月も、小さな星々さえもその輝きを地球に届かせない。光と熱を失った生命の大船は今、宇宙そのままの温度に脅かされ凛然と終末を待ち構えていた。
身体を起こすと、腰の上に掛けていたマントが押し上げられ、水分も無くなり凍り付いたそれはパラパラと崩れて散らかる。室内に転がる物全てが似たような有り様だった。暖炉の火は早々に消えて木炭が凍り、木造の壁も白く染まって一部は内側に倒壊している。窓も割れ、あらゆる命を凍てつかせた冷気がそのまま屋内に忍び込んでいる。外の景色を見れば辺り一面暗がりの雪化粧だ。
「…どこに行くの?」
隣で寝ていたメーティスが胸を腕で隠しながら身体を起こし、もう片腕で姿勢を持堪えた。彼女の視線には純粋な疑問だけがあった。何処に行くつもりなのか、何処に行く宛があると言うのか…。俺は彼女にキスをした。そして「何処にも行きやしないさ」とその上に覆い被さろうとした。思えばこの数日はその繰り返しだった。そうして起きている間を過ごしては、またその姿で眠り、起きては彼女と寝て過ごした。何をしても報われない世界に怠惰以外の何を見出だせというのか。俺にはもう彼女と寝る快楽さえあれば良かった。だと言うのに、彼女はそんな俺を押し止めて勧めた。
「…ねぇ、クリスの所に行こうよ」
「何で…。今更、…」
「だって、もうじきだもん」
メーティスは押し倒す暇も設けず立ち上がった。そして、少し迷って胸から腕を離し、中腰になって両手を差し出した。その表情は寂しく、それでいて優雅な微笑だった。
「…もうじき、この世界が終わるもの」
俺は四の五の言わずその手を取り、特に躊躇いもなく立ち上がった。彼女が言うならそれに従う。どのみち此処にいたところで彼女を抱いてばかりいたのだ。最期くらい格好のつく行動をしていたいのも本音だった。
わざわざ廊下を通るようなことはなく、壁が倒壊した隙間から外へ出た。屋外は床から測って腰の高さまでしっとりと雪とも凍りともつかない白い結晶に溢れ、その上に登って歩いていく。それらは全て大気から液化したものが凍って出来たものだ。もう何日かすれば全ての気体がこの雪道に成り代わり、家屋も何も埋め尽くすだろう。しかし、そう待たずとも世界が終わるのは、この空を見るに明らかだった。
クリスの死後、魔人と魔物達との一大戦争の最中、臓物の雲はアムラハンの直上から凄まじい速度で広がって地球を覆い始めた。それが現在地球の裏側まで増殖して完全に蓋をしているのか、そうでないかは分からないが、結果としてアムラハンは氷河期の様相に逆戻りしていた。そしてメーティスの見立てでは、この雲はクリスの死と共に生まれ直した次なる光の神が他の神々と結託し、地球ごと全ての生命を終わらせるために作り出した最大の天使なのだと言う。あの雲は地球を完全に呑み込んだ後、何らかの方法で人間諸とも全てを消滅させるのだろうと、そういうことのようだった。クリスの憎しみや悲しみを少なからず受け継いだ光の神は、一切の迷いも無く人間を滅ぼす選択を取ったのだった。
行けども行けども雪景色。その中にちらほらと死体が埋まって見える。魔人達は魔物に殺され、人間達はこの冷気に凍えて死んだ。クリスに墓を作ってやってすぐ戦火を遠退いた俺達は、魔物達との戦いがどのように終息したのかさえ知らない。俺とメーティスとが人目を盗んで目合う裏で、ジーンもサラも、ヨヒラもメロカリスも死んだのだ。何と滑稽な末路だろう。不謹慎とは知りながら、流石に笑うしかなかった。
その内セントマーカ家の邸宅の前に辿り着いた。執拗に壊され瓦礫ばかりになった廃屋の庭に、添える石も無く掘った穴にクリスを埋めていたのだった。だから、厚い雪に隠れたその場所を見つけるのは容易ではないと考えていた。彼女の誘いに渋った理由の一つでもあった。しかし、着いてみればそこの雪には大きな窪みが出来て、墓が暴かれたようだと一目で分かる程だった。
「…何処まで行っても、か…」
そうした俺の溜め息に、彼女は何も言わず空を仰いだ。そしてやはり何も告げぬまま踵を返し、最期を過ごす場所を求めて歩いた。…最期を着飾って何になる。どうせ何もかも無に帰すのなら、無様だろうと何だろうと彼女の温もりを感じて終わりたい。そんな自暴自棄の欲望は一瞬振り返って手を繋いだ彼女の前に消えた。俺はまた空っぽの胸を惰性で埋めるようにトボトボと歩いた。
住宅地の入り組んだ道を歩いていると、不意に視界の縁に何か白い女の影が映った気がした。そこで俺が立ち止まると、メーティスは不思議そうに俺を、そして俺が見つめる脇の道を向いた。それから互いに示し合わせも無くそちらへ歩いていき、直感が導く通りに角を曲がっていった。
少し開けた場所に、細い木で組んだ十字架が高々と掲げられていた。それを取り囲むように数十もの影が雪に埋もれている。頭上に組んだために飛び出していた祈り拳や何の拍子にか転がった生首、立ち上がって胸に手を当てたまま死んでいる女達、とうとう祈ってもいられず暴動に走った男とそれを止めようとしていた中一遍に凍った数人…そのどれもが死に際して都合良くクリスに縋った愚か者達だ。十字架に掛けられていたのは、わざわざ墓から掘り出して生け贄とばかりに縛られた彼女の焼死体だった。
彼女は漸く静かに眠れていたというのに、彼らは悪びれもせずそれを吊し上げ天に祈った。彼らは自らの行為が矛盾だらけなことも、滑稽な笑い種であることも分からないだろう。人間などそれほど高尚でも温柔でもない。きっと自分が何をしているかさえ分からないまま死んでいったに違いない。ある意味幸せな馬鹿共だと思った。
「…此処で死のう。クリスもそこにいてくれる」
俺はそう呼び掛けてメーティスに正面を向いた。メーティスは無言で頷くと応えるように此方を向き、俺は彼女を優しく抱き締めた。…遠くの空に動く影があった。白い鳥を模した人型の魔物が、黄金の鎧を纏って笑い声を上げながら羽ばたいていく。それも眺めている内に消えていき、注意は再び彼女へと向く。あれが何者であろうと、誰を笑おうと関係無い。俺達はただ、この最期の日を幸せに閉じたいだけだ。
「なぁ、メーティス。…いつ、俺達は死ぬんだ?」
「分からないよ…。でも、そう時間は無い。光の神はクリスの心を受け継いで憎しみの下生まれ、人間を抹殺することを決めた。そのために大勢の神が協力してる。…魔石を通じて伝わってくるの、神々の力と心のざわつきが。私達、召喚師だけが神々に認められた人間だから、例外的に関与できるみたい。『関与』といっても、何が起きてるか察知したり、声を掛けたり出来るくらいだけどね。向こうは召喚師も殺すつもりだし…」
彼女は染々と、しかし然して恐れもせず告げた。それから十字架の方を向く。俺も同様にして見ると、何故だかその焼死体を一瞬生前のクリスと錯覚した。涼しそうなワンピースを着た彼女の肌は青白く、浮かべた微笑には危うい甘美さを覚えた。しかし次の瞬間には元の丸焦げに戻っていて、俺はそんな不可解に肝を抜いた。
「ねぇ、レム。見えた?クリスの魂はまだそこに残ってるの。光の神としての精神から解き放たれて、やっと自由を手にしたクリスの魂がね…」
「…そんな綺麗なもんか。あれは亡霊に違いないよ。この悪意だらけの世界と役立たずな俺達を呪った怨霊さ。あれを見れば、ヨヒラの話だって俺達がクリスを連れ出してから生き霊がアムラハンに留まり続けたんだって解釈出来る。それに、俺達は彼女に恨まれるべきなんだ」
「クリスはそんなこと思わないよ。それは、レムが一番よく知ってるでしょ?自殺したのだって、ただ耐えきれなかっただけ。多分今頃、とんでもないことをしちゃったって泣いてるよ」
メーティスはそうして微笑んだ。俺は何も思わないことにした。堂々巡りになるのが分かっている。しかし、それで心が収まらなかった俺は、思わず彼女に本音を語っていた。それにはメーティスも俺自身も驚いていたが、これが辞世の句になるだろうかと思い至ると止められなかった。
「クリスと同じように、俺はお前にも恨まれるべきだと思う。俺はお前を、不幸の道連れにした。ロベリアにも謝っていたことだが、あの時、俺はお前には謝ろうとしていなかった。それはお前が、俺と同じようにクリスの傍にいたからだと、当事者だからだと話した。…だけどそれは俺の甘えで、お前だけは無条件で俺の仲間でいてくれなくちゃ困るから、あれこれ理由をつけていただけなんだ。クリスのことを自分1人の責任に出来なかった俺の弱さなんだ。……ルイに、クリスのことを愛してるだろって迫られてから、少し考えてみたんだ。…俺、やっぱり今でもクリスが好きだよ。愛してるんだ。勿論、お前のことは好きだし、ずっと傍にいたいって言ったのも本心だ。モルスムネに逃げ切れていても、俺は約束通りお前と恋人でいて、いつかは夫婦になるつもりだった。だけどもし、昔のままのクリスとお前が並んでいて、そこにややこしい関係なんか何も無かったら、…俺は、添い遂げる相手を悩んだと思う」
彼女は不思議と、笑って聞いていた。…怒って欲しかった、悲しんで欲しかった。けれど彼女は笑って俺を抱き締めていた。彼女は俺の耳元に口を寄せた。そして誰にも明かさないつもりのように囁いて、彼女が抱いた本心を打ち明けた。
「…私はね、それでも良かったって思うよ。結果的にはこうして添い遂げてもらえたから。クリスは助けてあげられなかったし、色々嫌なことが多かったけど、それでも私は…君の傍に居続けて良かったと思う。君のお蔭で最期まで優しくいられた。君のお蔭で最期まで安らぎがあった。君のお蔭で、私の人生に目的が出来たもの…。それにね、私は幸せだよ。たった20年の人生だけど、その時々を懸命に生きたから全部が濃厚だった。苦悩も、悲しみも、楽しさも嬉しさも、全部が君に照らされた。百年をのびのび生きるより、君と過ごしたこの数年の方が何倍も価値があったって言い張れる。私は君が、大好きだよ…」
彼女は俺の胸に顔を押し当てた。俺はその言葉に返すべきか迷いつつも、恐る恐る彼女の背に回した腕に力を込めて「俺も、愛してる」と答えた。
その時、地上に風が吹き荒れ始めた。冷気が尖り俺達を足下から凍り付けた。そして辺りのあらゆるものが白く輝き、それは黒煙を上げて消滅していく。…遂に迎えが来たのだ。間も無く俺達もこの生を終える。俺は目を瞑り、彼女の柔らかい身体を潰してしまいそうに強く抱き締めた。
彼女にもそうして欲しく思った。この世を旅立つ苦痛と恐怖を互いにぶつけ合い、支え合い、そうして旅立ちたかった。今までそうしてきたように、今日もそうしていたかった。そう出来たなら俺も安心して死んでいけるはずだった。
しかし、彼女は愛しそうに背を撫でるばかりだった。彼女には恐怖など無いようだった。俺はその真意が分からず、堪らず目を開けて彼女を見た。まさにその時、彼女は唇を重ね、俺の眼に気付くと照れたように笑った。
「本当に、今までありがとうね、レム…。嬉しかった。楽しかった。幸せだった…。もう満足だよ。胸の中にしまいきれないくらい、たくさんのものを君から貰った。もう十分満たされたの。…もう私はいいよ。だから、次はね…」
「…次…?」
俺はそう訊き返した。彼女のそれは、最期の挨拶などではなかった。もっと清々しく、後腐れ無く、前向きなものに見えた。彼女は十字架を見上げて笑った。それは我が子に向ける慈愛のようでもあった。俺は訳も分からないまま彼女の視線を追って、それはそのまま空へと行き着く。臓物の雲が埋め尽くしていたはずの空に一筋の光が漏れ、それが少しずつ大きく広がっていく。闇を掻き分けて見えた青空が俺達を照らし出し、希望の熱が俺達を包む。
「…これは……」
思わず呟いた。何が起きているかなど、俺には分からない。説明を求めてメーティスに向き直った。彼女はそっと俺の腕を放させて身を離し、穏やかな笑みを湛えていた。
「レム」
澄んだ声に呼ばれ、俺は口を閉ざしたまま頷いた。彼女はゆっくり瞳を閉じて、「最後に一度だけ…」と唇を差し出した。俺は彼女の左肩に手を置き、そっと引き寄せてキスを交わした。えへへ、と彼女が照れ臭そうに笑うと、両目の端からポロポロと涙が溢れていく。俺は心配してその頬に触れ、指先でそれを拭う。彼女は笑ったまま一歩身を引いて俺の手を逃れ、両手を後ろに組んで眼を合わせた。
そして今一度、彼女の左手が俺の前に差し出され、
「愛してる、…また会おう」
同時に世界が光で満ちる。降り積もった絶望は幕を閉じ、光芒を差す新たな世界へと、彼女の手は俺を道連れに消えていった。




