第9話 盲目な恩返し
怪我をしてから連日、欠かさず病院に通って包帯の取り換えと消毒を受けている。医者からは神経まで傷が届かなくて幸運だったと言われたが、ぶっちゃけ不良に襲われて幸運もクソも無い。…いや、シノアと友達になれたからあながち不幸ということもないか?
身体は知っての通り包帯やガーゼだらけで、学校に出ると担任のマイクや、ルイ、それにロベリアも心配して訳を訊いてきた。トレーニングの時間も、あのニフラヌが見学の許可を出したくらいだ。ジャックだけ俺を見て爆笑していて若干腹が立ったが、どちらかと言えばその方が余計な気を遣われるより気分が良いという感覚であった。
どうやら汗を掻くのすら良くないらしく、熱も籠ってしまうので氷水の袋をタオルで包み患部に当てて過ごしている。怪我したのが左手だったので大半の場面では生活に支障も出ておらず、要所要所ではクリスやメーティスが身の周りの世話を焼いてくれるので快適だ。
…唯一風呂に入り辛いというのが難点ではある。一緒に風呂に入って手伝ってくれないかと持ち掛けるとメーティスに真剣な顔で怒られた。もう何も言うまい。
「はい、もういいですよ。終わりました。お疲れ様です」
レッドブラウンの髪をした美人の外科医――シノアの母イクレシアが、目尻に優しいシワを作って緑色の目を細めながら声を掛ける。俺は手放された左手を持ち上げて、巻き直された綺麗な包帯を見つめて彼女と、…彼女の手伝いをしていたシノアに頭を下げた。
「ありがとうございます。…シノアも、ありがとな」
イクレシアは楽しそうに笑ってシノアを振り向き、シノアは受け取った消毒液とガーゼ、ハサミをテーブル横の棚に仕舞いながらあわあわと顔を赤くして、後から滅相も無いと空いた両手と顔を振った。
「い、いえ!元々私のせいで怪我をしたんですから、これくらいはさせていただかないと…」
「お前のせいじゃないさ。治療費も出してもらってるし、こうしてケアの手伝いまでしてくれるんだから十分以上だよ。…ま、それはともかく、今週末お邪魔するからよろしくな。着替えは本当に無くていいのか?」
「あ、はい、是非ともお越しください!寝間着は此方で用意しますし、脱いだものは翌日までに洗濯して乾かしておきますので。…それと、お2人にもよろしくお伝えしてくださいますか?」
「あぁ、言っとくよ。…あいつらも遠慮しないで来ればいいんだが、変に意地張っててさ。悪かったな、誘ってくれてたのに」
シノアはアハハ、と胸に引っ掛かるようなどこか困った照れ笑いを浮かべ、返事を濁していた。
イクレシアはウンウンと何か納得した様子で俺を向くと、大人の貫禄を感じる甘やかな微笑を湛えた。俺には2人の腹の底が読めなかった。
「ごめんなさいね。私もちゃんと同席してお礼を言うべきでしょうに、なかなか帰られないものだから」
「いや、そんな。毎日綺麗なお姉さんに包帯を巻いてもらって俺はハッピーっすよ。お礼なんていいです。…でもまぁ、帰れる時はしっかり休んでくださいね」
イクレシアは俺の言葉にきょとんと目を丸くすると、続いて含みのある横細い笑みをシノアに向け、「いい子じゃない、レムリアドさん」とウィンクした。シノアは頬を赤くして眼を逸らし、かと思うとイクレシアを無視して俺の右手を取って微笑んだ。
「今日の診察は終わりなので、待合室に出ましょう」
その後、会計を終えて病院を出るまで、ここ最近そうであるようにシノアと談笑して過ごした。肩が触れる程近くに座り合い、時々その無垢な吐息が鼻先に掛かると、彼女は恥ずかしがって身を引き途端に無口になる。…その顔が妙に可愛らしく、俺は手を振って別れる時も頬を弛ませていたに違いなかった。
…ただ、不思議にも、俺は間近に見た弾むように艶やかな唇に、キスがしたいなどという気を一切起こさなかった。…自らの感覚の矛盾に気づいたのは、その夜、自室備え付けのバスルームにて左手を庇ってシャワーを浴び、滲みる痛みに顔をしかめながらのことであった。
それは不可解な発見だった。常日頃女の尻を追い掛けがちなはずの俺は、いざシノアと距離を詰めた途端にその気を無くしたのだ。…無意識に女を恐れているというのか。それとも、ただの勘違いなのだろうか。俺を形作る要素の1つが知らぬ間に腐り落ちて、今なお芋蔓式に俺自身を崩しているような違和感を覚えた。
相変わらず全身の痛みと戦いながら身体を拭き、ガーゼや絆創膏を貼って下着やズボンだけ履いて救急箱を右手に風呂場を出る。既に入浴を終え、珍しく勉強机に向かっていたメーティスと、その勉強を見ていたクリスが同時に振り返り、クリスは慣れた様子で机を離れて自分のベッドに置いていた俺の服を取って近づいた。俺は救急箱を部屋の縁に置き、ギブスカバーを外しながら待ち構える。
クリスが裾を広げた服の中に俺は両腕を伸ばして、手伝ってもらいながら着衣を終えると「いつもすまんねぇ…」と笑い掛けた。クリスはクスッと手で口を覆って可笑しそうにすると、首を振りながら俺の手を見つめた。
「それは言わない約束よ。…左手の調子はどう?」
「まぁ順調に治ってるぜ。来週の火曜には抜糸だ。…ぶっちゃけ左手のこの傷、縫った後の方が痛かったからさっさと抜いてもらいたいんだよ。見た目も痛々しいし」
「そうね。…どんな感じになってるのか見てみたい気もするけど」
クリスは俺の左手の指を軽く擦って頷くと、またメーティスの勉強を見に戻る。俺も2人の傍に歩き、ノートにずらっと教科書の内容を写しているメーティスの手元を見下ろした。
「あぁ、そういやシノアからお前らによろしくってさ。…つーか、マジでお前らシノアん家行かねぇの?別に今回のは俺だけの手柄じゃないし、一緒に来ればいいじゃん」
「何も遠慮して行かない訳じゃないのよ。私とメーティスはシノアさんに招待される前から出掛ける約束をしていたの。何よりあなたが1人で訪れた方がシノアさんも喜ぶでしょう?」
「そんなことないと思うけどなぁ。…まぁ、予定があったなら仕方ないか」
俺に答えたクリスはノートだけを一心に見つめ、直後手を止めたメーティスは俺を見上げて取り繕うような真っ白い笑みを浮かべた。
「レムだってあんなかわいい女の子に接待されるんだから嬉しいでしょ?お邪魔しちゃ悪いよ」
メーティスは言い終えると意味ありげにクリスと顔を合わせ、そのまま勉強を切り上げていた。そして椅子を立つと、「はい、レムの定位置」と椅子を指差してベッドに戻っていった。…そんじゃ、ご厚意に甘えて勉強させてもらおう。
…2人が俺とシノアに気を遣っているのには気づいている。シノアから俺への積極的なコミュニケーションも、何らかのアプローチに見えなくもない。ひょっとすると俺に気があるのだろうか、という淡い期待を胸に秘め、内心では1人でのシノア宅への訪問を心待ちにしていた。不快感などまるで無い。
…やはり、単に俺が恋愛に対し怖じ気づいていただけではないだろうか。クリスやメーティス、ロベリアとも違った関わり方をしている彼女を、女として意識し過ぎるが故の緊張ではないだろうか。
このまま仲良くしていけば、いずれは他の女子と変わらないように接する余裕が生まれるかもしれない。シノアを避けよう、遠ざけようなどとは考えたくなかった。
土曜日の正午手前、クリスとメーティスを送り出してから1人、アカデミーの正門前に佇んでシノアの迎えを待つ。背中が痒く、無性に浮き足立って、辺りを見回したり空を仰いだり、襟を整えて首を擦ったりしながらシノアとの約束を思い浮かべた。
先日シノアから、もてなしの準備を万全にしたいので夕方まで外で時間を潰そう、と持ち掛けられた。要するに唐突ながらデートの約束を取りつけられたのだ。クリス達と街で鉢合わせると懸念したが、クリスに言わせればそれは無いらしい。理由は教えてくれなかったが、安心していいだろうか。
…それより、服装はこれでいいのか?黒のジーンズに赤い半袖シャツと、精一杯のオシャレのつもりで用意した右腕の銀のブレスレット。今までファッションに関心を払わなかったツケで、どの服装が適しているのか全く判断出来ていないのだ。別に、友人と遊びに出るだけだと考えればそう悩むことは無いのだが、今日はシノアと1対1でデートすることになっているので、それ相応の格好である必要があるのではないかと考え込んでしまう。
胸から下を見下ろしてあれこれ考えていたところに、小さな影がゆらゆらと上下しつつ、パタパタとサンダルの踵を鳴らして小走りに近づく。ドクンと胸の鼓動に喉を絞められ、油の抜けたぜんまい仕掛けのようにカクカクと振り向くと、少し汗を掻いて頬を上気させたシノアが嬉しそうに笑っていた。
「すいませんっ、急いだんですけど…、遅くなりましたか…?」
手を膝について軽く喘ぎながら、シノアは俺を見上げて頬に掛かった髪を耳の後ろに掻き上げた。その仕草の色っぽさに、つい眼を逸らして「大丈夫…」と上擦った雑な声を返した。
シノアが息を落ち着かせると、姿勢を正して笑い合い、「とりあえず飯だな」とレストランへ歩き出した。シノアは俺の横にぴったりと並び、俺の左手を盗み見つつ歩く。
「可愛いな、その服」
こういう時の定番は『服を褒める』だろう。後になって少し調子に乗っていたかと気にしたが、その時は自然に言葉が出ていた。シノアはふわりとした白い花柄のスカートに水色のニットを着て、つばの広い麦わら帽子を被っている。これぞ女の子、というような可愛らしいその服装に、『デート』の実感が止めどなく湧いてきていた。
シノアは目を丸くして俯き、また俺を見上げて笑った。
「あ…ありがとうございます。…レムリアドさんも、かっこいいですよ」
「え、本当に?」
「はい、かっこいい…です」
シノアは俺の目を見て微笑みながら大きく頷いた。また笑い合って、変にコショコショと声を潜めて話しながらレストランへ進んだ。
レストランではシノアがカルボナーラを、俺はフライドポテトを頼み、談笑しながらそれらを平らげる。完食して手を拭く俺を、シノアは意外そうに見つめて、
「レムリアドさん、思ったより小食なんですね。男の人は皆よく食べるものだと思っていました」
「いや、左手がこうだと量より食べ易さを優先しちまってな。本当は食い足りないよ」
シノアはハッと息を呑み、それまでの楽しそうだった笑みを引っ込めて「すいません…」と頭を下げた。俺は失言だったと焦り、両腕を広げて首を振った。
「いやぁ、その、…じゃあさ、シノアが俺に食べさせてくれよ!そうすりゃ腹一杯、胸一杯で最高だからさ!」
シノアは驚いて顔を上げ、じっと俺の目を見入った。「…ダメ?」と半笑いで首を傾げていると、シノアは黙ってフォークで麺を巻き取り、「…どうぞ」と顔を赤くして差し出した。…今更言ったことを後悔し、羞恥心と緊張で頭がどうにかなりそうな中、唾を飲んでシノアとフォークとを見比べた。
…しかし、ふと脳天からヒヤリとしたものが降りてきて、そうしたあらゆる混乱がピタリと面影もなくいなくなった。目前には赤面して上目遣いでフォークを差し出すシノアがいて、俺はそれを絵画でも見るようなあっさりとした気分で見て、躊躇もせずパクリと食べていた。
「…美味しいですか?」
「おー、美味いぞ」
「…お口に合いませんか?」
「いや、美味いって。もっとくれよ」
俺の表情に変化が無いためかシノアは探るように俺を見て、またカルボナーラを取って与えた。俺は次々それに食いつき、2人の間にあった緊張は何処かへ消えていってしまった。レストランを出るまで、俺を見えない誰かが傍観しているような不思議な感覚が覆っていた。
アクセサリーを見たり、カフェに出向いたりし、気がつけば空は熟れたように赤くなり、その足でシノアの家へと訪れた。話には既に聞いていたが、その家は城のような豪邸であり、敷地を囲む石塀には鉄格子の門を構え、それを重々しい鎧を着けた兵士2人が警備していた。
兵士により開け放たれた門を何らおかしなことは無いと言うように平気に通過するシノアに横並び、俺は息を殺して幾度となく周囲を見回した。応接室へ通され、高級そうな紅茶とショートケーキでもてなされてもなおそうして落ち着きをなくしている俺を、シノアは面白そうに笑って見つめた。
「何か、意外でした。レムリアドさんの好物がイチゴって…うふふっ!」
「えー、いいだろ別に。美味いもんは美味いんだから」
「でも、だって、…フフッ、何だか可愛いんですもん…あははっ…」
シノアはそうしてクスクス笑いながら頬杖をついて、ケーキを食べている俺を慈愛を孕んだ眼で眺めた。居心地は悪くないが、そうやって優しく見つめられながらでは食べ辛くて敵わない。不貞腐れたフリをして顔を逸らし、ガツガツと勢いづけてケーキを頬張ると、シノアはこれまた楽しそうに、うふふっ、と黄色い声で笑った。
「何だよ、失礼だな…。ま、美味かったよ、ご馳走さん」
「はい、お粗末様でした。…夕食も入浴も用意は出来ているんですが、どちらが先がいいですか?」
「あー、じゃあ風呂に先に入っちまおうかな。飯食ったら眠くなる気がするし」
ここの所身体が痛くて授業に集中出来ず、追い付くための勉強で慢性的な睡眠不足なので、それも重なって余計に…。…もうじきテストなのにこれはマズいと思うが、…もう諦めちゃおうかしら。
「そうですか、わかりました」
シノアは応接室のドアの前で厳かに待機していたメイドを呼びつけようと向いたが、ふと気になったようで俺を振り返った。
「レムリアドさん、お風呂入る時っていつもどうしてますか?片手では大変じゃないですか?」
「ん?…まぁ別に大丈夫だよ。ちょっと時間掛かっちまうかもだけど、俺なりに急ぐから。あ、でもギブスカバー忘れたから何か袋とゴム貸してもらえると助かる」
シノアは「そうですか」と俯いて、膝の上で両手の指先をモジモジと合わせ、ほんのりと燃えるように耳まで赤く染まり、口を開く直前になって唾を飲んでいた。
「…い、一緒に……そ、その、お手伝い…というか…」
「……へぁ?」
間抜けな声を上げてポカンとした俺に、シノアは飛び上がるように顔を上げて突き出した両手を振った。羞恥心からかテーブルの下ではバタバタと両足を踏んでいた。
「すすす、すいません!はしたないですねっ!何言ってんだろ私…!そ、その、忘れてください!バカなこと言いました!」
呆然と動けなくなり、黙り込んでシノアを見つめていると、数回小刻みに眼が合って、耐えきれなくなった彼女は視線を足下へうろちょろさせながら椅子を立ち、
「お手洗いへ行ってます!早く入ってきてください!」
口早に告げて出ていった。残されたメイドは暫し状況を眺めてから足音を潜めて俺の下へ近づき、機械的にお辞儀をした。俺はシノアが消えていったドアを凝視したまま目を丸くして、頭の中で混乱の大群を走らせていた。
「必要でしたらお嬢様に代わってお手伝い差し上げましょうか?」
「はっ?…い、いえ、俺、別に1人で風呂入れますし…」
「承知致しました。では、案内をさせていただきます。どうぞこちらへ」
案内されて大理石の廊下を歩きながら、半ば朧気な足取りの俺は今日1日のシノアの言動を思い返していた。そうしている内に首から上が火照るような、そして喉につっかえた細い針が胸をチクチクと突つくような、しかし腹の中が凍てついて目眩がするような心地になった。
…間違いない、取り違いようもない。シノアは俺に好意を抱いている。それも、自覚はありながらもその扱いや伝え方を解していない純情な好意だ。…いや、俺だって恋人が出来たことなど無いのだが、それにしてもシノアのそれは剰りに不器用と思える態度だった。そこに気持ちが離れるではなく愛らしさを感じてしまうのも、俺が依然子供であるが故だろう。
…ただ、今の俺にはそんなシノアの可憐さより、自分への不理解の方が重大な問題に感ぜられていた。普段の俺なら、先程のシノアの提案、並びにメイドの申し出に一二無く頷いたはずであるが、今の俺にそんなつもりは無くなっている。いつかの勝負では、ふざけながらとは言えそれなりの期待を持ってクリスに入浴の同伴を賭けていたが、今回は他人からそれを提案された途端に性欲に歯止めが掛かったのだ。
…俺はシノアと恋人になることを恐れているのか?何故?シノアのことだって嫌だとは思っていないし、俺も年頃なのでそっちの興味は人並みにある。何なら人並み以上の気もしている。それにも関わらず、俺は今日、シノアとの裸の付き合いを拒絶したのだ。
「レムリアド様、こちらです。夜のお召し物は用意させて頂いております。脱衣したものは洗濯しますので、お渡しください」
脱衣場に通され、促されるままに着替えとタオル2枚が掛かった篭の前に立ち、篭の空きへと服を脱いで浴場へ進んだ。痛みに四苦八苦しながら全身を洗い、湯に浸からぬまま風呂を上がると、待機していたメイドに下着とバスローブを着せてもらう。
そこで今更に、こうなるならシノアに頼んでも良かったかもしれない、と軽く後悔した。それと共にメイドに見られている中で恥じらいも無く脱衣していた自分に驚愕し、しかし然程追及もしないでメイドの案内を受けた。
1時間後、用意された寝室で寛いでいた俺の下へ入浴を終えたシノアがバスローブ姿で訪れた。シャンプーの爽やかな甘い香りを漂わせ、ベッドに寝転がる俺に近づくと、緊張した面持ちで少し笑って見下ろして、
「レムリアドさん、夕食の用意が出来ていますので」
「おー、サンキュー。じゃ、行きますか」
2人で先程の応接室(食事用の部屋でもあるらしい)へと向かい、隣を歩く上気したシノアの横顔を見つめていた。…こんなに可愛い女の子が、分かり易く俺に好意を向けている。いつもの俺から考えれば、こんな状況、浮かれてはしゃぎまくって、ウザいくらいに猛アタックし、無理矢理にでもベッドインを試みて愛想尽かれているところだ。…なのに今、俺の心は理性を極めている。
自分で自分に何が起きているのか分からないまま、思い詰めていてはシノアに悪いという一心で色々な話題を出してシノアを笑わせた。出される料理は全てアーンとシノアに食べさせてもらって、その後は遅くまで取り留めの無い話をして過ごした。
その日は眠る寸前、もしくは夢の中で、何か恐ろしいことを思い出したような気がしていたが、翌日になるとスッカリ忘れていた。…楽しかった、ありがとう、と、シノアにはそう告げて寮へと帰った。シノアは少しも俺の胸中を疑わず、ひたすらに嬉しそうに頷いて見送った。
また来て下さい、と最後に言われたが、俺はそれに何も言い返さなかった。




