第104話 エーデルワイスってよく見るとトゲトゲしてるのね
船体中央の細長いラウンジには客席が左右の壁に沿って並び、部屋の真ん中にも左右を向いて並んでいる。船長を始め乗組員は船橋で操縦に集中しており、俺達は一時の安寧をラウンジで過ごしていた。窓から外の景色を見ることが出来るので、状況が違えば海の景色を眺めても良かっただろう。甲板に上がれば景色に加え、所見の刺激に溢れていよう。耳に五月蝿い小波も潮と死魚の激臭も、大陸暮らしの俺には全てが珍しい物のはずだった。しかし、俺達は3人部屋の真ん中に所狭しと集まって、そこの客席にポツンと座らせた1人の女性を見守ってばかりいた。
俺達の視線に気付く様子も一向に無くクリスは鋼鉄のマスクに覆われた顔を重力任せに俯かせ、両手足は姿勢を気にする素振りも無く置かれたままに放り出している。ふと、メーティスがその傍にしゃがんで彼女のシャツの裾を太腿を隠すように引き伸ばした。未だシャツの他には何も身に付けていない彼女は、まるで守るべき体裁など残っていないと物語るように無防備な姿でじっとし続けていた。
「…クリス、起きてる?」
そっと声を掛けて、メーティスは彼女の指を擦った。クリスは暫しされるがままに揺すられていたが、不意にゆったりとメーティスの手を撫で返し始める。手の形を確かめるように繰り返し大きく撫でていくその動きは、愛撫と表現してよい優しい艶かしさを醸している。メーティスはそれを純粋に喜んで振り向いたが、クリスの反応の意味を察した俺やロベリアは取り繕った笑みを返すしか出来ない。メーティスは不思議そうに俺達を見ると立ち上がってクリスの前を俺に譲った。
「じゃあ、お願い」
「ああ」
後ろめたげな彼女に薄く微笑んで頷くと、早速俺はクリスの前にしゃがんで両手をマスクの頬に添えた。後方からロベリアに「レンチ借りる?」と訊ねられるが、「手でやるさ」とやんわり断って作業に取り掛かる。…ここまで時間が取れず後回しにしていたマスクの取り外し作業だ。これを終えて漸く俺達は彼女の顔を拝める。
一目見た様子ではその仮面は前と後ろとで別個の部品になっていて、それを両耳辺りにあるボルトで留めて頭を挟む構造になっているようだ。簡単に考えてしまえばその両耳のボルトを外すことで前後共にマスクを外してしまえるだろうが、工具作業に慣れていない俺の考えが当たっているとは限らない。顔部分にも感覚器に合わせてボルトが付いているし、マスクの仕組みがどのようになっているかを断言出来ない以上下手なことをしてクリスを不要に傷付けてしまう危惧がある。そのためここは顔に付いたボルト類を1つずつ丁寧に外していくことにした。どうせパンジャへの到着まで数日も掛かるため、その程度の手間を掛ける時間は有り余っている。
背後の左右から視線が集まり奇妙な緊張が走る。妙な気になって口元を弛めながら、マスクの口から伸びたチューブに触れた。チューブは持ち上げると重点の変動が激しく、中に何らかの液体が溜まっているようだと分かると笑みが引いた。拘束状態で食事を与えるためのチューブだとするならおそらく奥は口腔を抉じ開けるような着け方にされているだろうから、きっと垂れ流された唾液か食事の残りでも溜まっているのだろう。可哀想で、手早く済ませることに神経を注ぐことを心に決めた。
チューブの根元を左右から固定している小さなボルトを指で摘み、繊細な力加減でゆっくりと回していく。ボルトを潰してしまってはやり辛くなるので触れるような感覚を維持して腕ごと大きく動かす。レンチでやるより手で直にやる方が却って加減のミスも無い。すんなりと片方を外し終えると背後の2人も多少安心して息をついていた。
間も無くもう片方も外れると、試しにチューブを軽く引いてみる。奇妙に奥が引っ掛かるように感じたが、部品で留められてはいないようなのでこのまま引き抜いて良いようだ。俺はハンカチでマスクの口元を押さえてやりながら優しくチューブを抜いていった。そして隠れていた部分が顔を覗かせ始めてすぐに痛ましい事実が露呈される。
チューブは10cm、20cmと続いてなお口から落ちなかった。食道に物が詰まらないようにしたのか、どうやら直接胃に流し込むように作られていたようだ。チューブの後半は胃液とペースト食の残骸に塗れていてとてもハンカチでカバーできる状態ではない。すぐに気を利かせたロベリアが「タ、タオルと敷物借りてくる!」と船橋へ走り、メーティスは何をすべきか分からずワタワタと眺めていた。俺も慌てたい気分だったが、そうもいかないので表面上平静にしていた。
「…待っててもしょうがないよな。抜いたら床に置いて続きをやるよ。船長には後で謝ろう」
宣言してすぐにチューブはその先端を露にした。それと同時にクリスの口から抜け歯や胃液や唾液が零れ出し、急いでハンカチを押し付けて塞き止める。片手で押さえていては止めきれそうにないのでチューブは無言で差し出されたメーティスの手に預け、両手を使ってハンカチをクリスの口に押し込む。
…動転していられない。すぐに鼻の部品を外す作業に移った。鼻は下から鉄板が覆い、初めはそれを両穴の部分に付いたボルトが留めているように見えた。しかしよく見ればそれは頭の無いボルトを刺した上でナットで強く締めたものだった。容易に酷い予想がついて、深呼吸を挟んで取り掛かる。
まずは片方から、ナットを外し、ボルトを抜く。恐ろしく長いボルトが奥で引っ掛かっている。理由が分かってもどうしようも無く、せめて早く終わるようにサッと引き抜く。出てきたボルトは先が斜めに曲がって鼻水と黒い血の塊が付着していて、鼻腔の奥を突き刺していたことがありありと窺えた。無心でもう片方も抜くと両方の穴からサラサラと鼻水が溢れ、収まるまで受け取ったタオルで受け止める。タオルを返した時になって今更ロベリアが戻ってきていたことを知り、気をしっかり持つように自戒してクリスに顔を向ける。
次は目だ。…これ以上進みたくない。さっきの今で、何が起きるか分かりきっている。かつての想い人の悲惨な姿を平気で見ていられる人間などこの世の何処にいるだろう。彼女をこんな目に合わせた研究者達の神経を疑う。
「…代わろうか…?」
「…いや…やるよ」
おずおずと声を掛けたロベリアに、覇気も無く、しかし断固とした意思を持って告げ返した。急かされた思いでマスクの左目に付いた大きなナットを外し、溜めも無くボルトを抜く。潰れた瞳を想像していたが、実際には眼球どころか外眼筋までズタズタに貫かれていた。おぞましい殷紅の空洞には血溜まりがちらほら見え、肉体が再生を放棄した痕跡なのか黒い繊維のような物がヒラヒラと伸びていた。後ろで見ていたロベリアが呻いて床に跪く。振り向くが、メーティスが彼女の背を擦って介抱し始めてくれたので何もせず作業を再開した。
右目も同じに取り外す。全く同じ渇いた空洞。部品は用意されたビニールの敷物へと乱雑に投げる。最後に耳の部品を外していく。
目に比べれば此方は然程辛くない。軽いものだ。ボルトを外すと、耳の穴が入口の時点から抉れて原形を失っていた。…軽い…軽いものだ。
そうして遂に仮面は外れた。両耳の支えを失うとあっさりとそれは前後に落ちた。そして現れたのは、丸刈りに頭を剃られ、顔面の崩壊した誰かだった。…眉は剃られていないので、恐らくあの長髪がマスクの着用に邪魔だっただけなのだろう。害意は無く単なる事務的な行為だ。…寧ろ害意や悪意を持ってこの仕打ちをしたのならその方が彼女に対して礼儀を払っているようにすら思う。彼女にとってその長髪はただの装いではないのだ。それを何の感情も無しに取り上げるのは、彼女に対する最大級の冒涜だった。
「…どう、するの…?」
メーティスが、クリスを前に呆然としている俺にそう声を掛けた。彼女が何を言いたいか分からず、無理に発言する気力も湧かない俺は何の反応も示さなかった。
「…何処かに傷を付けたら、それと一緒に再生するかな?」
メーティスは改めて訊ね直す。ロベリアは項垂れたまま動く気配が無い。仕方無く俺がクリスの手を取ってその甲に爪で切り傷を入れてみせるが、治ったのはその傷だけで、顔の方は一切変わらなかった。益々メーティスが慌てて「…これ、どうしたら…」とブツブツ呟くのを放置して、俺はトボトボと後ろの壁へ歩いていった。そして纏められた荷物からチャームソードを取り、再びクリスの前に立つ。
…どうせ治るとは言え、クリスの首を斬り落とすのは感情が許さなかった。しかし、こうなってはもう仕方が無い。首に着けたままの魔力拡散錠も一緒に外せるので一石二鳥と考えてもいいだろう。どうにでも理由を付けて早く元の顔に戻してやりたかった。
首錠の下に刃を添えるとメーティスが手を伸ばして「待っ…!」と短く悲鳴を上げた。しかし振り向いた俺の顔を見てすぐに納得し、グッと両目を瞑って顔を背ける。ロベリアもそこで顔を上げた。俺がやることにすぐ理解が追い付いた彼女は、目の前の出来事が早く終わることを祈るように俯く。…俺はクリスに向き直ると躊躇無くその首を斬り裂いた。
取れた頭を左手に提げ、進みの鈍い再生を静かに待つ。首の断面から小さな触手達が伸びて絡まり、徐々に肉体を紡いでいく。
骨格と繊維が出来た端から肌に包まれる。スッキリと整った綺麗な顎が、瑞々しく紅い唇が、形が良く適度に高い鼻や赤みの差した三日月耳が造り出される。目の構築を助けるように先出されて出来た瞼は、内側に目が完成していくと一緒になって前に膨らみ、その長く上反った睫毛をピンと張っていった。…そして頭蓋を覆った頭皮にはプツプツと剃り跡のような細かい毛が生えただけで、かつての美しい金の長髪はどうしても失われてしまっていた。
再生が済むと途端にクリスの顔から生気が抜ける。唇が皺立って、豊齢線のような影が浮かび、目下は皮膚が垂れ下がったように丸い影と大きな隈が現れる。青白くなった顔が項垂れると半開きの口からシトシトと唾液の雫が落ちて、意図せず開いた瞼からは何を見ているかも分からない瞳が現れる。瞳の中は金の虹彩が一杯に広がって、瞳孔は無理矢理押し潰されたように酷く縮んでいた。
「…クリス…クリス……」
彼女と眼を合わせるために跪いて顔を仰いだ。彼女の返答は無く、またポタリと唾液が落ちる。ゴトンと音を立てて剣を手放し、その手を彼女の頬へ伸ばす。
「…俺だよ、クリス。…助かったぞ、もう大丈夫なんだ…」
やはり返事は無い…と、そう思われたが、暫く見つめ合っていると僅かに彼女の口角が上がった。声が伝わったのだと一瞬は喜んだが、それは違うと早くに理解した。…彼女の目はそれ程喜んでいない。見慣れた光景を前にして微笑んでいるような心情に見えた。…彼女は今、夢を見ているのだ。非道な現実の中妄想にしがみつき続けていた彼女は、きっとこうして俺達が自分を助けてくれるような夢を散々見てきたのだろう。…だから、この現状も彼女にとっては妄想の延長…幻覚に他ならない。彼女はとっくに自分が救われる世界など信じてはいないのだ。
「…クリス、一緒に旅に行くぞ。モルスムネに行くんだ。そこには俺達が平和に生きていける世界がある。もう傷付かずに済むんだ!それで――」
ボタ…ボタボタ……水滴が床を打った。音の方へ眼を移す。…彼女の股下に広がった水溜まりが客席から滝を作っていた。
「……クリス………」
彼女は物言わず体液を垂れ流した。…俺には呆気に取られたような感覚など無かった。彼女の今の姿を静かな気持ちで眺めていた。メーティスとロベリアはクリスの粗相に驚いて立ち上がり、慌ただしく船橋に走っていく。彼女らが戻ってくるまでの数分、俺は床に突いた膝が浸水していくのをぼーっと眺めていた。
乗組員の1人が付き添って、彼女らは諸々の片付けと処置を施した。クリスは医務室から貸し出された患者衣に着替えさせられ、床に置いた木製の簡易なおまるの上に座らされた。今回が公式な出港でないため船内に不備が多く、特に医務関連には人員が一切当てられていなかった。そのため船にオムツの用意も無く、用具庫にしまわれた何時の、誰の物かも分からないおまるに頼るしかなくなった。彼女1人にトイレを占領させている訳にもいかないとはいえ、これは見るに堪えない。患者衣の長い裾のお蔭でおまるまで隠されているのはせめてもの救いだろうか。彼女はそうした格好で客席に頭を凭れてじっとしている。
「…その、…部品の方は此方で処分してもいいんですが……そちらのは…」
乗組員の女は部品を敷物で包んで金具の擦り音を奏でながら立ち上がり、眼のやり場に困った様子で俺の手元を瞥見した。知らぬ間にクリスから離され、立たされていたらしいと気付く。俺の手にはハンカチを口に詰められて穴ボコだらけになった坊主の生首が握られている。掴む力が強過ぎてか指先がその骨格を凹ませて、額からこめかみに掛けてくっきりと手形を残している。俺は未だクリスの両脇に跪いて控えているメーティスら2人を乗組員越しに眺め、持ち上げた生首のがらんどうな目を見つめながら答えた。
「…甲板に上がって海に捨ててきます。問題になるでしょうか?」
「い、いえ……はい、それで…それでお願いします…」
乗組員は怯えた顔で生首と俺を見ると、またその顔を伏せて早口に、
「で、では、…仕事に戻ります。手が空いていないので…。あの、そちらの方のことは申し訳ありませんがお任せしてもよろしいでしょうか…。船内の設備は断り無しで自由に使っていただいて構わないので…」
「…はい、ありがとうございます」
「い、いえ…。ではあの、…失礼します!」
俺の返事を聞き遂げると一目散に乗組員は船橋に帰っていった。部屋の中を沈黙が泳ぎ、その冷たさに肺が凍える。何かを口にしなければならないという強迫観念を感じつつも、そんな気力が湧くはずもなく双方に責任を押し付け合っているのが交差する視線に窺えた。
「…甲板に上がって、これ捨ててくるよ」
「……捨てるの…」
メーティスが戸惑って此方を見つめつつ訊ねる。その視線は俺の手から、おまるの上で俯くクリスに向けられる。ロベリアは特に関与する姿勢を見せることもなく床に眼を逸らし続けている。
「…こいつは…別に亡骸じゃない。…クリスの頭はちゃんと治ったんだから、こいつは瘡蓋みたいなもんだ。だから、捨てるのに心を痛める必要は無い」
それは自分に向けた言い訳でもある。言い聞かせられたメーティスはそれ以上反論を取り下げ、ロベリアも何も言わない。俺はそれを了承と受け取ることにして1人甲板に上がっていった。その道中も誰に会うことも無く、後から後から沈黙が追い掛けてくるようだった。
内部廊下を進んだ先に柱に巻き付く螺旋階段。尺の短いその移動も重たい足取りに気を取られ延々と続く気配すら感じる。屋上に張ったそう広くもない甲板からは船首も見え、気が確かなら見渡す限りの海の景色を余すこと無く堪能出来ただろう。俺は真っ直ぐ右へと歩いて甲板を囲う手摺りに手を触れた。そして今一度生首を持ち上げて見る。
…これは、瘡蓋だ。彼女があの研究所で受けた数多の傷による腫れ物に過ぎない。抹消すべき過去だ。捨てるのが道理なのだ。
二度と目に触れないように全力で投げたつもりだった。しかし心の中で何かが引っ掛かったのだろう。尻窄みの投擲で視界から去らずにいる生首は、はっきりと落下の飛沫を見せ付けて、あろうことか一向に沈まずにいた。俺もそれを見届けるのが責任のように思い、眼を離すことが出来なかった。
絶えず進む船は確実に生首から俺を引き離していく。しかしそれでも視界から外れるには至らない。波の上で揺れている生首に、少しずつ飛沫が群がっていく。その大量の飛沫達に呑み込まれ、浮き沈みする生首は少しずつ少しずつその肌を食い千切られていく。瘡蓋の末路は雑魚の餌。果ては腐るか食べ尽くされるか、いずれにせよ藻に塗れた白骨に落ち着く。この光景が何時までも続くなら、せめてこの船が加速して視界からあれを遠ざけてくれと願う。…ふと、隣に何も言わずメーティスが並んだ。
彼女は俺の視線の先には気付かなかったろう。眼で追い続けた俺だから見つけられるだけで、途中に現れた彼女にはこの広大な海の中にあの残酷な景色を見つけられない。…しかし、彼女にも見えている景色は確かにある。茫然と海の一点を見つめる俺に彼女は想いを寄せ得る何かを見たのだろう。
しっとりと胸に染み込むような、潤んだ響きを伴う言霊。それが一時だけこの残酷な景色から俺の気を逸らせて、また改めて目の前の世界を認識させた。…彼女に意地悪い意図が無かったのは分かっている。しかし、そうとしても、言葉にされたところで後悔しか出来ない俺にとって、同じことでしかない。
「…クリスの痛みを、ほんの少しでも代わってあげれたら……救えたのかな…」
船縁を打ち付ける波の音だけが、答えるように大きく轟いた。




