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第8話 刺激的な出会い

 俺は不意に胸へと頭をぶつけたその華奢な誰かの背に、咄嗟に両腕を回して抱き締めていた。鼻先に向いた金髪の旋毛辺りから、ふわっとラベンダーの眩惑的な香りがそよいで、漸く思考が現実に追い付くと抱き止めたそれが同い歳くらいの少女であると理解した。

 背中まで伸びた長髪の先に、青いフリルの付いた可愛らしい白のショーツを着けた尻がプリッと突き出され、そこから踵まで美しく細い脚が露になっている。その少女が頭を俺の胸から離し、「助けて!助けてください!」と涙の滲んだ緑の瞳で見上げて懇願すると同時に、破れた小さな布切れを両手に持って辛うじて胸を隠しているのに俺の眼が移った。

 …心臓に悪いだとか息子に悪影響だとか色々思うことがあるが、どうやらそんな馬鹿なことを考えている場合ではなさそうだ。こんな往来でほぼ全裸の少女が泣きすがってくるなど、明らかに普通ではない。

 しかし、事件性などそっちのけで俺の頭はその肌の滑らかさ、柔らかさ、温かさばかりに意識を惑わされていた。偶然触れたショーツの、手応えなく滑っていきそうに繊細な軽々しさにさえ心を奪われていたのだ。…下着姿の女の子抱き締めたの初めてだし、正気なんて保っていられる訳なかった。

 そうした俺の混乱は、

「ど、どうしたの!?何があったの!?」

 という背後からの大声に掻き消された。アワアワと口が覚束無い俺に代わり、メーティスがクリスと共に駆け寄って慌てふためき訊ねていたのだ。クリスは急いで買い物袋からワンピースを取り出し、それを少女に押し付けて怪訝な顔をした。

「あなた、どうしてそんな格好で…」

 クリスは少女が元来た角から眼を離さず訊ね、対して少女は受け取ったワンピースを着る余裕も無い様子で俺を放しクリスに抱き着いた。

「暴漢が!暴漢達が襲ったんです!ここにいたら危険です!早くどこかへ…!」

 クリスの服をグイグイ引っ張って必死になっている彼女を、メーティスが周囲から見られないように両腕を広げて庇った。近くを通り掛かっていた大人達の内、男達は正義漢ぶって路地を覗きに向かい、女達は関わりたくないというように逃げていくか、惨めな姿をした彼女を立ち止まって不当に蔑むかしていた。路地からは絶えずバタバタと荒々しい物音が響いており、ある途端に覗いていた男達は悲鳴を上げて離れていく。

 彼女が指差したのを皆が一斉に見たのと同時に、その路地から怒声を上げた5人の若者が飛び出して此方を向いた。そしてそいつらは顔を真っ赤にして怒ったまま俺達の下へと駆けつけてきた。

「逃がさねぇぞクソアマ!」

「優しくしてやりゃ付け上がりやがって!」

「おい逃げんじゃねぇぞコラァ!」

 怒鳴られた少女は恐怖に震え上がってクリスを揺すり、「逃げましょう!早く!」と必死に呼び掛け始める。クリスはどうすべきか悩んでいて動き出さずにいた。

 クリスが引いても動かないと判断すると、彼女は息を呑んで男達と反対に走り始める。しかし、絶え間無い恐怖故か脚が縺れてしまい、盛大にその場にスッ転んでしまう。彼女は地に這ったまま振り返り、脇目も振らず近づいてくる男達の醜悪な顔つきに声も上げずおののいていた。

 俺は咄嗟に飛び出して先頭を走る男を横から殴り飛ばしていた。そして残る4人は足を止め、標的を少女から俺に変えてきた。

「走れ!その子連れて早く逃げろ!」

 俺は突の構えを取って声を張り上げ、一瞬戸惑ったクリスは無言で頷くとメーティスと少女を両脇に抱えて疾走した。直後、俺がそれを見届ける暇も無く、男の内小柄な1人が逆上して殴り掛かる。俺はそれを飛び退いて身を屈め、浅く剛の構えを取ると大振りで出来た隙を狙って回し蹴りで顎を刈った。

 早まったその男は膝から崩れて倒れ、黒目を忙しく泳がせて虫の息で痙攣していた。先程殴り飛ばした男は既に立ち上がり、クリスを追跡したがった奴らも諦めて俺1人に狙いをつけて取り囲んできていた。

 …1人倒して少し油断してたな。囲まれてしまっては勝ち筋が見えてこない。

 男達は俺を四方から睨んで、口々に吠えるような威圧を飛ばした。

「てめぇ余計な真似しやがって…目ぇ焼き入れてやろうか、あぁ!?コラァッ!」

「おう、お前のせいで折角のご馳走がおじゃんだろうが…」

「俺ら相手に出しゃばってぇ…カッコつけたじゃ済まされねぇぞ」

「やぁお兄さん、さっきの子3人呼び戻してきなぁ…そうすりゃあこっちも手ぇ痛めんで済むわ」

 …まさに小悪党というような台詞の数々に、…あぁ、マジでこんなのが都会にいるのか、と一瞬呑気で虚ろな心地がして、しかしすぐにでもどうにかしなくてはならない状況なので急いで周囲に大声で助けを求めた。

「おい、誰か!つーか見てる奴!ちょっと助けてくれ!俺1人じゃ流石にキツいって!」

 俺の呼び掛けも甲斐無く、俺を囲む不良達を遠目に見ている群衆は「おい誰か民兵呼んでこい!」とそれっぽいことを言い繕うだけで助けには来てくれなかった。…期待はしてなかったが、1人で4人相手にやるしかないのか…。

 不良達は早足に歩き出し、ニタニタと笑いながら俺に手を伸ばしてくる。…全員で俺を押さえつけてから袋叩きにしようということだろうが、生憎俺は1対複数の喧嘩にも少しは慣れているし、基本的な抜け出す術も心得ている。

 まず冷静に素早く、身体ごと回って1人1人の体格を見渡し(顔だけ回して済まさないのはその場に静止してしまわないため。僅かでも動かない時間があれば咄嗟の行動が取り難くなる)、直感で弱そうな相手を見つけて体当たりを仕掛ける。…焦ったりしなければ、大抵はこれで何とか出来てしまう。

 ひょろひょろと肢体の細い男を4人で最弱と判断し、まだ誰も近づき切らずバラけている今の内にその懐に上体でしがみつく。そのまま押し倒し、横に転げて立ち上がるも、その男は俺の服を必死に掴んで放さないでいた。

 俺は急いで残り3人と反対側に回ってその男を盾にし、脛を蹴り、肩への肘を打ち、そして両手首を掴むと打撃で緩んだ手を容赦無く引き剥がし、頭突きを食らわせて飛び退いた。

 …これで抜け出せた。これ以上戦ったら確実に敗ける。もうクリス達は逃げ切ったようだし、このままとんずらしてしまおう。

「逃げんじゃねぇこの野郎!」

 1人、俺と同身長の男が叫び、駆け出しながら少し振り返ると何かを投げつけてきたのに気がついた。それが何かと考える暇もあるはず無く、危機感から俺は左腕を振ってそれを弾いた。しかし、その際の激痛と眼に入った事実に仰天し、ただでさえ無理のあった姿勢での一瞬の思考停止から俺は自分の脚に引っ掛かって倒れてしまった。

 地面に強く胸を打ち、噎せながら腕を立てていると、地に突いた左手の甲がぱっくりと開いて大出血している。驚いて振り返ると、少し離れた場所には刃の先が脂っぽい朱色に染まったナイフが落ちていた。

 …ナイフ!?ナイフとか持ってたのかこいつら!怖ぇよ、都会の不良怖ぇ!頭沸いてんじゃねぇの!?

 呆然とした俺は、駆け寄る男の足音にすぐに気づけなかった。すぐ傍まで迫ってから慌てて仰向くが、起こした上体はナイフを投げたその男に蹴り倒され、そのまま踏みつけられてしまう。男達は一斉に蹴りを畳み掛けて、俺は身体を丸くして両腕で顔を覆い、背中、頭、腰、四肢を襲う非情な痛みに必死に耐えていた。

 男達は蹴ったり踏んだりして怒鳴り、その内1人が抜けてナイフを手に戻ると、

「おい、こいつ押さえろ!全裸で縛って放り出してやる!」

 と、面白半分な笑った口調で言い放っていた。

 …はぁ!?いやいや待て待て待て!ふざけんなこの野郎!何だお前ら、今度は俺を脱がせるってか!てめぇらバイか!そんなにヤりたきゃ自分らで掘ってろクソ野郎!

 俺は3人に掴まれた手足を全力で振り乱し、ナイフを持つ4人目まで動員して俺を取り押さえに掛かる。ナイフを所持していた男も両手が必要になってナイフを地面に置き、俺は何とか現状を切り抜けたい一心で暴れ回った。いい加減誰か助けて!

「おいてめぇ、じっとしてろ!往生際悪ぃぞ!」

「うるせぇホモども!俺の貞操もプライドもヤらせはせんぞ!」

「ホモじゃねぇ!いい加減舐めた口利かねぇで大人しくしやがれ!4人に勝てるわけねぇだろ!」

「馬鹿野郎お前俺は勝つぞお前!」

 1人とそうして言い合っている内に俺の体力が尽き、とうとうナイフがその手に上げられてしまう。もうダメだ…!と貞操の危機に観念したその時、建築物の壁を這うように走って俺達に飛び掛かる人影が眼に映った。その人物はサングラスとマスクを掛けてニット帽を深く被り、顔全体を隠して宛ら不審者の様相であった。

 彼はナイフを持った男を踏み倒して着地すると、男の手から離れたナイフを黒いグローブを嵌めた右手でキャッチして一気に3人の目を薙いだ。男達は3人共目を押さえて倒れ、瀕死の芋虫のようにぐねぐねと身を捩りながら絶叫し、踏まれたままの男も逆手に持ち変えたナイフで丁寧に両目を刺されて蹴り飛ばされた。…また、俺が顎を蹴った男は知らない内に目から血を流して失神している。

 ナイフを捨てた彼は、白いチノパンにピンクのTシャツを身に着け、その上に長袖を捲った黒い襟付シャツの前を開けた若々しい出で立ちである。ナイフを地面にカランと落とし、サングラスとマスクを取った。そしてニット帽も脱いでそれらを左手にまとめて持つと、彼――リードは「無事かい?」と俺に右手を差し出して笑い掛けた。

 俺は目をパチクリさせながら右手を掴んで立ち上がり、驚いて気の抜けた声で「…ありがとう」と返していた。恨み言を言いながら呻いている男達を冷たく見下ろしたリードは、声音だけ普段通り優しくして訊いた。

「こいつら、この辺りを縄張りにしてるゴロツキだよ。こんなおおっぴらで騒ぎを起こすとは思ってなかったけど、何かあったのかい?」

「…あぁ、えっと、…俺もよく分からんが、何か女の子襲ってて、その子が逃げたから追い掛けて出てきた感じだな」

「なるほどね」

 リードはふむ、と頷くと静かに歩き始め、1人ずつゴロツキの喉を打って気絶させていった。それが終わるとその場で声を張り、

「レムリアドくん、民兵には通報は?」

「いや、多分誰もしてないと思う」

「そうなのかい?これだけ人がいるのにおかしな話だね」

 リードは目を丸くしてキョロキョロと周囲を見渡すと、最も近くにいた1人に駆け寄って、

「すいません、民事取締兵の方を案内してきて頂けませんか?」

「はぁ、分かりました」

 頼まれた男は『何で俺が』と言いたげに渋々と駆けていき、リードはその背中を見送って俺の傍まで歩いてきた。そして、俺の身体を上下に見回すと、フッと軽く笑って告げた。

「レムリアドくん、全身傷だらけだよ。後で鏡でも見るといいよ。今から病院に行こうか。お金はこのゴロツキからくすねればいい」

「いや…いやいやいや、ちょっと待てお前…。何平然と盗む気でいるんだよ。病院には自腹で勝手に行くよ」

「そうかい?…いやぁ、悪いね。育ちの治安が良くなかったもんで、少しやり方が極端だったかな」

 リードの人懐っこい笑顔に狂気の影を見て、俺は意識無く血の涙を流している男達を見回すと、その所業の異常さ、冷血さに総毛立つ程の寒気を覚えた。

 取り巻きの民衆が興醒めて立ち去り、空間は更に張り詰めた。そこへ、タタタッと身軽く素早い足音が近づき、振り向くとクリスが急いで駆けつけていた。クリスは俺を見て一瞬安堵するも、俺が傷だらけなのに気がつくとカンと真っ青に顔を冷やしていた。

「レム、あなたその怪我…!は、早く病院に行かなくちゃ…!」

「あぁ、うん。丁度、今そう話してたんだ」

 ハの字眉のクリスに優しく笑ってやっていると、リードは踵を返して手を振り去っていく。

「用事があるからレムリアドくんのことは任せるよ。じゃあ、また学校で」

 クリスはその背中に目を見張って、「待って!何がなんだか…」と呼び止めようとしたが、俺は空かさず左腕で制して首を振った。

「あいつのお蔭で怪我だけで済んだんだ。今はとにかく病院に行こう。ゴロツキ達も民兵を呼んだから後を任せればいいし」

 クリスはリードを凝視したままおずおずと頷き、その視界に俺の手の甲が入り込むと慌てて俺の腕を引き寄せて傷を見た。

「…そうね、早く行きましょう」

「ああ」

 そうしてクリスは俺の右手を引いて病院に急いだ。…目に風穴を開けた男達のことにクリスが気付かなくて良かった、とそれだけに安堵してついて歩いた。


「…レム!大丈夫なの!?」

 診察や処置を終えて廊下に出ると、丁度クリスに連れられたメーティスは蒼白な顔色で廊下に悲鳴を響かせて駆けつけた。その背後について走っていた例の少女は、クリスが買っていた薄緑色のワンピースを身に着けて、俺に近づくと息を呑んで口を覆い、見開いた目から大きな涙を溢して立ち止まった。

「あー、まぁ、見ての通りだな。つっても、命はあったし、最悪は免れたから良かったと思うぜ」

 言っていて録なフォローになっていなかったと自らに呆れながら、包帯を巻いた左手を見下ろした。それの他にも瞼や肩、腰が青く腫れていたり、至る所に擦り傷が出来ていたりと満身創痍だが、やはり眼を引く怪我はこの左手だろう。そうすると、当然ワンピースの少女は、申し訳なさそうに、という程度を越えて悲愴に泣きながらよろよろと歩み寄っていた。

「…あの…そ…その手は……」

「…あー、…これな…ちょっと深く切れたから縫合してもらった。…2ヶ月くらいで治るらしい」

 少女は俺の両肩に手をやって詰め寄り、ぐしょぐしょに濡れて真っ赤になった顔のまま声を荒げた。身体が揺らされて痛みに目尻を上げて歯を食い縛り、しかし直後香ってくる女の子の匂いに忽ち元気になっていた。…やっぱすげぇわ、女子って。これだけで今日の嫌なこと全部ふっ飛ぶもん。

「あ、あのっ、ほかっ…他に酷い怪我とか…」

「あ、いや、左手以外はすぐ治るっぽいから…。うん、マジで大丈夫。安心してくれ」

「本当に…本当にごめんなさい…!治療費は此方に出させてください!…それとあの、良ければお詫びを…、いえ、そのために今日無理をさせてはいけませんよね。…また、必ずお詫びのために招待致しますので、どうかお名前とご住所を…」

 俺は照れ半分、いじらしさ半分に微笑んでその頭を撫で、「大丈夫だから、落ち着いてくれ」と諭してやる。彼女はハッと我に返って下がり、忙しなく何度も頭を下げて謝った。俺の手も同時に離れてしまう。

「すいません、すいません!痛かったですよね、私ったら本当に…。…あ、あの、シノア・サクレピオスと言います。…よろしければ、どうかお詫びをさせては頂けませんでしょうか?」

 俺は改めて、シノアの頭を撫でてやって、深く頷いて笑い掛けた。シノアの涙に潤んだ瞳がキラキラと俺の顔を映していた。

「アカデミーの1年生、レムリアド・ベルフラントだ。…『お礼』、楽しみにしてるぜ」

「……は…はい…」

 ほんのり頬に赤みを差したシノアは、クリクリと澄んだ目で不思議そうに俺を見つめ、僅かに口元を笑わせて頷いた。

 …メーティスはじっとシノアを見つめ、何かを察したらしかったが、何も言わぬまま俺に眼を移した。クリスはどこか懐かしそうに微笑んでシノアを見守っていた。

 3人が通じ合っているような錯覚に、俺は勝手な疎外感を覚えながら首を傾げていた。

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