3.サトられ婚約破棄(前)
「はぁ……とうとう明日! 楽しみだな~」
寝台に体を横たえ、リリィは一日が終わる充足感に満足げな息をついた。
学園に併設された寮は消灯が早い。寝台横の窓からは夜空の星が良く見えた。
窓越しの遠い瞬きを何とはなしに見つめてから少女は瞼を閉ざす。
星を望んで、少しセンチメンタルになったのだろうか。
緩やかな睡魔に身を任せるリリィの脳裏には、ここ数年の激動のような日々が蘇っていた――――。
リリィは拾い子だ。
下町の薄汚れた橋の下、朝靄けぶる中おくるみに包まれてか細い泣き声を上げていたのを、朝帰りの酔っ払いに拾われた。
リリィを拾った酔っ払い――養父は、腕っこきの呑んだくれ鍛冶師で賭場の親分だった。
養父が槌を振るう音が子守唄で、飛び散る火花にあやされて、丁半飛び交う鉄火場を学び舎にリリィは育った。
そんなリリィだったから、まさか自分に貴族の血が流れているなんて、夢にも思わなかった。
ある日家のボロ小屋の前に立派な馬車が止まって、リリィを男爵家に迎えるために来たのだと告げられて。
リリィは悩んだ。迷った。
迷い、悩み、そして――――
「――――親爺ぃ、天下獲ってくるわ」
そのようにして、リリィは愛する養い親に別れを告げた。
何を成して天下と呼ぶのか、リリィ自身にも判然としない。しかし、これが覇道の第一歩だと、そのような確信だけが少女の幼い胸の裡にあった。
そっと、無意識にリリィの左手が利き手に伸びる。
リリィの右手には、鈍く光る無骨なカイザーナックルが装着されている。
別れを告げたリリィに、“おう。”養父はただそう返して、それを放って寄越した。
不器用な男の、精一杯の愛の形。
それは彼が持てる力を尽くして誂えた、娘のための、娘のためだけの、ぴかぴかのカイザーナックル。
幾度となく血を吸い、輝きは鈍ってしまったが、金属の冷たさの奥に隠された温かな想いは変わらない。
眠るときはお守りのようにそれを着けるのが、少女のくせになっていた。
(親爺……あたし、頑張ってるよ)
男爵家に入り、リリィが知ったのは、実親は決して愛情などという生ぬるいもののために少女を迎え入れたのではないということだ。
彼女に期待されたのは、“学園”に入学しいずれか良家の子息と懇ろになって没落しかけた男爵家を再興させること。
リリィは鼻で笑って、実親の野望を打ち砕いた。(物理的に)
しかし彼女にとって僥倖だったのは、男爵家が魔術によって興り、魔術に一家言持つお家柄だったことである。
調査の結果、彼女にも魔術の才が――並々ならぬ才があるのが判明した。
そして彼女自身の弛まぬ鍛錬の結果、それは花開く。
体の裡を燻る熱が、劫火となって駆け巡り、やがてそれは螺旋になる。
熱く、赤く、迸る螺旋――――
それは少女の白い拳、鈍く光るナックルから出でて大気を巻き込み奔流となった。
――――これだ!
男爵家の屋敷を半壊させ、リリィは確信した。
これが、自らの覇道、正道、その芯だと。
魔術師の常道は、時間をかけた呪文と陣による中距離から長距離への遠隔攻撃。
リリィのように直接攻撃と魔術を組み合わせ瞬発的な攻撃を可能とする者はいない。
連綿たる魔術の歴史の内にも、誰一人成し得なかった新たな魔術体系の階を、少女は爪先に捕らえていた。
――この拳で天下を獲るッ!――
そのような気概を抱きリリィは学園への入学を果たしたが、その学生生活は意外や穏やかなものだった。
“学園”の設立理念は、魔術師の素養を持つ子どもたちを正しく導くことにある。自然、学園には、優れた魔術師を多く輩出する貴家の子女が集まる。
そんな中、異例の特待生として入学を果たした家格の低い娘は、入学時より悪い意味で耳目を集めていたが、リリィはただひたすらに勤勉な学生だった。
リリィの野望は、既存の魔術概念をぶっ壊し、自らが操る魔術を広く天下に知らしめることである。
単にその暴力性を誇示するだけでは成し得ない。
己の魔術を体感と直感から理論にまで落とし込み、体系として整理する必要があった。
少女はひとかたならぬ熱を携えて講義に臨み、休み時間には教師の下を訪れて教えを受け、同輩と議論を交わすことも珍しくなかった。
男爵家で仕込まれた令嬢としての振る舞いには覚束ないところがあったものの、大変真面目で向上心と探究心に溢れ、賭場で荒くれ者相手に鍛えられた物怖じしない性格と、愛らしく朗らかな笑顔を持つリリィが周りに受け容れられるのにさほど時間はかからなかった。
周囲に認められ、友人もできて、ごくごく平穏に流れていたリリィの学園生活に小さな細波を立てたのは、一人の生徒との出会いだった。
第二王子だというその少年とリリィは、試合形式の講義の最中に出会った。
リリィは何も考えずいつものように王子をこてんぱんに伸したが、立場は関係ないとばかりの態度が良かったのか、それ以来王子からよく声を掛けられるようになった。
幾度となく言葉を交わし、食事を共にし、いつからかリリィは彼のことを友人の一人に数えるようになっていた。
しかし、やはり男爵家の娘といと高き王家の息子が馴染むことをよく思わない人間も少なくなかったようだ。
こそこそと見えるように陰口を叩かれたり、通りすがりに嫌味を言われるようになったが、リリィはこれっぽっちも気にしていなかった。刃傷沙汰、流血沙汰が珍しくもない鉄火場で育ったリリィである。
血もドスも指も飛び交わない、ここはなんて平和な場所だろう!
むしろそのように、周りの反応を微笑ましく好ましく見守っていた。
たまに何やら色々拗らせたような男子生徒から実力行使を伴った『お話し合い』のため校舎裏に呼び出しを受けるときもあったが、そういう場合は拳で黙らせてきたリリィである。
順調に舎弟も増えていった。
そんな忙しく、けれど充足した日々において、ある一人の生徒の存在がリリィに衝撃をもたらした。
女生徒の名はベラドンナ。――友人、第二王子の婚約者である。
まず見た目が凄い。
制服着用を義務付けられている生徒たちの中で、ただ一人、彼女だけ何故かドレスを着ている。毎日ドレスを着ている。体育の授業もドレスで受けている。
長い金髪をくるくるくるくると幾つもの巻き髪にしているのも意味が分からなくて凄いし、常に扇を持っていて何かあるとすぐファサッファサッとすると巻き髪がブヮサッブヮサッと広がるのが凄い。
あととても親切だ。
呑兵衛鍛冶師を養父として育ったリリィにとって、教えとは見て盗むものである。教師のような教えること自体を生業にしている人間は別として、教えとは師から盗むもので、盗んでいることが知られたら、焼けた鉄が飛んでくる、そういうものだった。
だから、わざわざリリィの悪いところを細かく見つけて教えてくれるベラドンナの優しさにリリィは衝撃を受けた。
何しろベラドンナときたら、学園では王子に次いで高い身分の貴人であるのに、廊下などでしょっちゅうリリィを呼び止めては、後ろに友人と思しき生徒らを引き連れたまま、あれこれと微に入り細に入り忠告をくれるのだ。
やんごとなき女人らしく、遠回り過ぎて何を言われているのか分からないこともたびたびだったが……特に礼儀作法や貴族社会の慣習といったものに疎い少女にとって、ベラドンナからのアドバイスは大変ありがたいものだった。
一度、ベラドンナが学園の食堂で連れの生徒らと食事をとっているところにいきあったので、少女は日頃の感謝を伝えてみたが、どうやら余り褒められた振る舞いではなかったようだ。「話しかけてくるな」と珍しく直截に言われてしまった。昔は、人前で身分の低い人間が高い人間に話しかけることはタブーとされていたらしいから、きっとその辺りが理由だろうとリリィは推察する。
「ここまで通じていないなんて……」と、同席していた生徒らが何故か呆然と呟いていたが、リリィにはちょっと意味が分からなかった。
ベラドンナは古式ゆかしい雅人なのだ、と少女は得心し、ならばと文などしたため感謝を綴った。
ベラドンナからの返信は、細微に至りリリィの文章作法のお粗末さを指摘するものだった。
なんて親切な人なんだろう!
リリィは感動を覚え、教えを請うことを決意する。
それから今日に至るまで、リリィとべラドンナの文の交換は三桁にも上った。
月日にして凡そ半年――始めの頃は、リリィの質問に対する回答と、ベラドンナからは第二王子についての所感を求められることが多かった。
いかにやんごとなき身なれど、年頃の娘となればやはり婚約者のことは気になるのだなあ、と少女は不思議な感慨を覚えながら素直にペンを滑らせた。
『大技を繰り出す際、利き手である右の肩に力を入れる癖がある。それは筋肉の盛り上がりにて視認可能であり大きな隙、改善されたし。また、フェイントにもかかりやすく、熱中の余り視野が狭まっている様子が散見され――』
――と、このように。
いつも懇切丁寧な指導をくれるベラドンナへのせめてもの礼として、戦闘講義の折などは特に王子の挙動を注視し毎回のようにアドバイスを記していたが、その内ベラドンナから『もういい』と返答があってそれも終わりになった。
彼女がかの婚約者に件の助言を伝えたのかどうかは定かではないが、試合で相対する王子の瞳にも次第に熱が籠もり始め、彼のどこか講義を軽んじるような様子に少女が内心で募らせていた不満は解消された。また、王子の動作をつぶさに観察していた副次的な効果で、リリィ自身の観察眼も鍛えられ、戦闘時の立ち回りに磨きがかかったのは望外の結果だ。
なんと素晴らしい……!
リリィには最早、ベラドンナは幸運の女神である。
しかし、その“女神”は年相応の可愛らしい少女であると、手紙のやり取りを続けていく中でリリィは気づいた。
王子に関する問答が終わってからも二人の奇妙な文通は続いていた。それはリリィが毎回必ず手紙の最後に疑問文を記すせいでもあったし、誇り高い……直截に言えば意地っ張りのベラドンナが自分から“終わり”を言い出してなるものかと意固地になった結果でもある。
そうしてその内、文の内容に私的なものが混じり始めた。
リリィは、ベラドンナの趣味が菓子作りであること、しかしベラドンナほどの高位貴族の子女であれば、手づからのそれは褒められた趣味ではなく、誰にも秘密にしていることを知った。リリィにも繰り返し他言無用を念押しする流麗な筆致へ、少女は約束の証に自らの出自を語り、その出自ゆえ菓子には馴染みがなく是非食べてみたいものだと綴った。
別段ねだるつもりもなく、それはただペン先からぽろりと溢れた独り言のようなものだった。
――だから、次の手紙に可愛らしい小袋がついてきて、開けた瞬間小麦の芳しい香りが漂ったとき、リリィは純粋に驚いたのだ。
文に曰く、『たまたま多く作りすぎてしまったから卑しい下賤な娘に恵んで差し上げる』とのことだったが、それをそのまま受け取るほどさすがにリリィも鈍くはなかった。
意外にも、ベラドンナ手製の菓子は平民にも馴染み深い木の実を練り込んだ、素朴なクッキーで、仰々しく甘味は激しく脂肪分は重い、貴族御用達の高級菓子よりも余程リリィの口にあった。
入門税を徴収されないように、門番の目を盗んでこっそりと森へ木の実を拾いに行った幼い日の記憶を懐かしみながら、リリィは礼をしたためた。
幼少の時分に口にしていた懐かしい味であるとの言葉に、思いがけずベラドンナから反応があって、これにもリリィは虚を衝かれる。
どうやら少女の幸運の女神は、平民の生活に興味があるようだった。
将来は王子の妃として、領地を差配する夫の手助けをせねばならぬ身なれば、遍く人々の生活を識る必要がある――、と。
――リリィには野望がある。しかしそれは、自分と、せめても養父一人の幸せという小さな世界に終始するものだ。けれどベラドンナは、もっと沢山の人間の“幸せ”を考え行動している……。
これが尊き血というものか、と。
幾度目かの感動と共に、今度はリリィの方が問われるまま綴った。
また、数回に一度は文と共に手製の菓子が届き、体を動かすことの多いリリィは喜び感謝して、毎度あれこれと詳細な感想で応えた。
そんなやり取りを続ける内に、最近では互いに交わす文体も砕けてきて、話題も講義についての疑問やちょっとした愚痴や噂話、休日に何処其処へ出掛けたなどという他愛のないものがほとんどになっていた。
そんな折、何の気なしに少女が“茶会”に参加したことがない旨を綴ると、
――次の週には、茶会への招待状が届けられていた。
張り切りようを無理に抑えてツンと取り澄ましたような、そんな典麗たる筆致が綾なす雅やかな招待状。
それによれば、茶会の場所はベラドンナの邸宅。
ベラドンナは学園の近くに彼女個人の邸宅を所有しており、そちらから通学していることは文通を通してリリィも知っていた。薔薇の見事な庭園が自慢だとも。
事前の食事は軽め、もしくは抜いてくるのが望ましく、特に菓子は厳禁などと、別添の手紙にさり気なさを装った注意事項が記されているのを見るに、きっと当日はベラドンナ手製の菓子を、とりどり、山盛りでもてなしてくれるに違いない。
(手紙によれば『物知らずに茶会での振る舞いを教えて差し上げる』とのことだったが。)
参加者はベラドンナとリリィの二人だけ。“秘密のお茶会”だ。
招待状を読み終わったリリィの顔は、自然と綻んでいた。頬が桃色に色づいて、それは輝くような笑顔だった。
少女はその日を指折り数えて待ち――――
――――――ついに明日が、お茶会の当日である。




