2.ネトられ婚約破棄
「ストーーーーーーーップ!!」
シャンデリアの光が煌びやかな舞踏会場に、青年の絶叫が響き渡る。
「ど、どうしましたの殿下」
「び、びっくりしました」
眼前には高慢ちきな自分の婚約者、隣に愛しい娘を連れ、今まさに婚約破棄宣言を行おうとしたところで、突如王子に天啓ともいえるべきものが降りてきたのだ!
天啓は、この後の展開を何となく王子に伝えてくる。
“自分が誰かに『寝取られ』る”。それが天啓が示した未来だった。
「それはまずいだろ! ノクターンはまずいって!」
騒ぎ始めた王子を、婚約者のベラドンナと恋人のリリィは不思議そうに見つめる。
二人の少女からきょとんとした視線を向けられて、王子は少しだけ平静を取り戻した。顔を赤らめ咳払いなどして失態を誤魔化す。
「今夜予定されている楽曲の中に夜想曲はなかった筈ですが……楽団に確認致しましょうか?」
「い、いや、いい」
(“寝取られ”ってことは……きょ、今日、今夜、この後、致しちゃうわけ?
え? いいの? いいの? それってリリィ的にはオッケーなの? 俺はもちろんオッケーだけども!)
存外奥手で真面目な王子は、最近付き合い始めた可愛い恋人にちらりと視線を遣る。
いつもは背に流したままの栗色の長い髪を、今日は纏め髪にしてほっそりとしたうなじを見せている。パフスリーブのふわりとした桃色のドレスを纏い、まるで妖精のように愛らしい。
彼女がとうとう遂に今夜自分のものになるのかと思うと、自然動悸は早まり、頬に熱が昇る。
(……いや、待てよ。俺の心はリリィにある。彼女から俺を“寝取る”わけだから……。つまり、相手はベラドンナか!?)
王子は、愛しい恋人を虐げているという噂のある、自らの婚約者をキッとねめつけた。
その視線が、相手の胸元で止まる。
(お、おぉう……相変わらず凄いな……)
本日のベラドンナは、毒々しいまでの黄金色の髪を細かく巻いたお馴染みの縦ロールはそのままに、普段高い位置で結っている髪をいつもとは逆に下ろしている。
その毛先は、むき出しの鎖骨、その下の激しい起伏にかかっている。
ざっくりと肩の全てと胸元の半分までも露出した派手な赤いドレスを着こなす彼女が、愛用の扇子をゆるりと広げれば、ただそれだけで白い山脈がたゆん、と揺れた。
釣られ、視線が上下する。
(こ、これが、俺のものに……)
ごくり、と口中に溜まった唾を飲み込んで、王子は我に帰った。
(いやいやいや! 何を誘惑に負けそうになってるんだ俺は!! リリィというものがありながら……!
クソッ! ベラドンナ、この毒婦が! 俺を惑わす魔女め! 痴女! 恥知らず! おっぱい! おっぱ……
……こいつほんと顔と体だけはいいんだよなぁ……ほんと……。リリィもその内おっきくなるかなぁ……)
二人に知られれば腹ドン(腹に大穴を空けられること)床ドン(床の上で頭を潰されること)待ったなしなことを考えながら、王子はたぷたぷふるふるする双丘を目で追っていた。
「――では殿下、御前を失礼致します。リリィ、ついていらっしゃい」
王子の意識が揺れる谷間に吸い寄せられている隙に、ベラドンナとリリィの間で何やら合意に至ったらしい。
「はい! お願いしますっ」
ドレスの裾を優雅に翻したベラドンナのぴんと伸びた背を、子犬のように瞳を輝かせたリリィが追う。
「待て待て! どこへ行く!?」
王子は焦り声を上げた。
(え!? 何で二人ともどっか行っちゃうの!? ここは俺とどっちかが空き部屋にしけ込む流れだろ!)
学園でできた悪い友人の影響で、王子は最近スラングにはまっている。
「ご安心くださいませ。殿下の許可もなく退出は致しませんわ。ただ少しそこの物知らずに舞踏会での振舞いを教えて差し上げるだけですもの」
「ありがとうございます! ベラドンナ様って本当に親切な方ですよねっ」
真っ向から侮辱されたというのに、リリィは気にした素振りもなく尻尾を振らんばかりに嬉しそうだ。
ツンと顎を上げるベラドンナの耳が赤く染まっているような気がするがきっと見間違いだろう。
王子はそう結論付けて、ベラドンナが視線で示した方向を見遣る。
そちらは舞踏会場の奥、厚いビロードのカーテンが下りている。その奥には、実は幾重ものカーテンに仕切られた小部屋のような空間が多数あり、それぞれにティテーブルとソファが備えられている。踊り疲れた淑女たちの休憩に、一夜の恋に燃える男女が愛を囁き交わすために、権謀術数に身を侵す貴族たちの密談にと、様々に利用されているのだ。
王子は焦った。
彼女たちと離れてはならない――――。
天啓とも違う、恐らく直感と呼ばれるものに情動を支配され、引止めにかかる。
「――す、すぐそことは言え、君たちのような美しい花には悪い虫が寄ってこないとも限らない。俺にエスコートさせてくれないか?」
まあ、とベラドンナは血のような瞳を見開いて扇で口元を隠す。
しかし満更でもなさそうに扇の奥の瞳は細まった。
「殿下にそこまで仰っていただけるなんて……光栄ですわ。でもご安心くださいませ。今夜に限って、そのような不埒な真似をなさる殿方はいらっしゃらないでしょう」
だって、と。
甘美な毒を紡ぐように、赤い唇が孤を描いた。
――――――お月様がみてらっしゃいますもの。
「……え?」
その意味を、解せぬ王子が呆然とする間に。
婚約者と恋人は人の波を縫って彼の元を去ってしまう。
「待っ……!」
呼び止めようと踏み出した王子の肩を、ガッ! と力強く掴む掌があった。
「この……ッ!」
無作法にも程があり、王子は苛立ちも露に振り返った。
そこにいたのは、モブおじさんであった。
モブおじさん――主に二次創作物などで主要なキャラクターをひどい(いやらしい)目に遭わせることでお馴染みのおじさんである。
彼も数多のモブおじさんの例に漏れず、大変不快感を煽る容姿をしている。
頭髪は薄らと乏しく、暑くもないのに常に滝のような脂汗を流し、樽のような体を高位貴族に相応しい典雅な衣装に包んでいる。
社交界においては『豚侯爵』と名高い彼が、いかにも準備万端といった様子で鼻息を荒くし、ギラギラと王子を見つめていた。
因みに豚侯爵は無駄に有能で由緒正しい血統と幅広い人脈を持ち、王子といえども第二王子でいずれ臣籍降下が決定している彼の肩を掴んでも不敬罪が適用されない程度には多方面で力を持つ貴族であり、「美少年と美少女が大好物」と恥ずかしげもなく堂々と公言する、唾棄すべき真性の変態である。
「ぶ――あ、いや侯しゃ――豚――……え、あ――」
動揺の余り二の句が告げず、やがて震え始める美貌の王子へ、豚侯爵はぐい、と鼻息荒い豚面を近づけた。
そうして、彼は、吐き気を催すおぞましき吐息を王子の耳に吹き込んだ。
「や ら な い か」
アッーーーーーーーー!!
満天の星空の元、青い蕾を散らすような落涙を禁じえない叫びが星々の深淵に吸い込まれていった。
しかしそれは、銀河が一夜魅せた真夏の夜の夢だったのかもしれない。