概念戦士・本物川3 〜斬撃〜
概念は涙を流した。
概念戦士・本物川3 〜斬撃〜
長身の、スーツで素足の男は柔らかな仕草で手にした刀を構えた。
両手持ちの上段の構え。自然で無駄な力みのない、だが力強い構えだ。
対する本物川は同じく両手持ちの青眼の構え。
しかし対峙した敵ーー「斬撃」に対し勝てるイメージを抱けずにいるようだ。
その理由はミノルにも分かった。漫画などではよく目にする「隙がない」ということの意味を、今こそミノルは体得した。
『剣にも戦闘についても俺は素人だが、そんな俺にでも分かる。あいつは無茶苦茶強い。あいつには……剣では勝てない。そうだろ?』
「ああ。奴が本物の概念だった頃、十一回の模擬論戦の機会があったが、私はことごとく負けた。斬撃に特化した偽非概念となった今……奴の刃の冴えは私のそれを歯牙にも掛けていない」
『どうするんだ?斬られて終わりか?俺も。お前も。……この街も』
生温い風が重たく辺りのものを舐めて吹き抜ける。
本物川は玉のような汗を額に浮かべ少し深く息をして、早鐘のように鼓動を刻む心臓を落ち着けようとしているようだった。
「ミノル……頼みがある」
小さな声でとても苦しそうに、本物川はミノルに懇願した。
ーーーーーーーーーーーーーーー
これは夢だ。
霊魂のような、実体のない存在の自分。もう一つの愛しい魂。
柔らかな雰囲気から冷たく暗い雰囲気へ。
二度目だったので、ミノルはその不思議な感覚に身を委ねながらも、どこか冷静に状況を把握できていた。
だが、以前に視たシーンとは微妙に違うシーンのようだ。
愛しい魂は何か別の、不吉な黒い魂から干渉を受けている。害になる良くない干渉だ。
ミノルはそれを止めさせようとするが、愛しい魂はそれを拒絶する。触れればミノルもまた、悪しき干渉の感染を受けるからだ。
ミノルは叫び、嘆いた。
愛しい魂は柔らかく明滅しながら見る見る黒ずんで、力を失くしてゆく。
その傍で不吉な黒い魂は笑った。
怒り。悲しみ。憎悪。愛。
全てが入り混じる灼けた鉄のような感情が、叫びとなって辺りにこだました。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「おおッ!!!」
飛び起きたミノルは、自分が汗だくなのを知った。
息が荒い。胸にはまだ、さっきまでの憤りの残滓が燻る。やはり夢だった。
ミノルはふと、最近よく見るこの妙な夢の原因に思い至った。
「本物川。起きてるか?」
……。
返事はない。
概念も眠るのか、それとも人間に憑依してるからそうなるのか、答えの出ない疑問を抱きながら時計を確認すると午前9時半を少し過ぎた所。
「マジか……?やっべぇ!」
アルバイトに完全に遅刻する時刻だった。
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スーパーマーケット・ヨツバの事務所に、アルバイトを終えて帰りかけていたミノルは呼び出された。
呼び出したのは直接の上司の平田である。
「今日はすいませんでした」
ミノルは遅刻のことだと思い、謝罪した。きちっと七三分けにした頭に黒縁の眼鏡をかけた三十半ばの痩せた男は、ミノルに椅子を勧めた。
「ああ、珍しいな遅刻なんて。初めてだろう」
「ええ、多分」
「そういうこともある。次から気を付けてな」
「はい。ご迷惑をお掛けしました」
「で、君の今日のレジ、マイナス三千二百十一円出てるんだ」
「……え?」
ミノルは狼狽えた。
このスーパーで働き始めて三ヶ月余り。入ったレジから現金の過不足を出したことはなかった。
「二回数えたが間違いない。三千二百十一円、って額に何か憶えはない?」
「すいません、特に……」
「ダブルカウントは?」
「してます」
「小銭の授受にカルトンは?」
「はい。教わった通りに」
レジのトレーニングは平田に直接受けたのだ。
「うん。監視カメラの画像見たけどルール通りの運用してくれてるみたいだったね。なんで差異出たんだろうな」
「……すいません」
「うーん。岸君は今まで差異は全然なかったし、勤務態度も真面目で一生懸命だからな。クビだとかレジから外すとかって話ではないんだ。僕としては、君の仕事を信用してる。とにかくダブルカウントとカルトンの使用、額面は声に出して読み上げて、何か不審な事があったらすぐサービスコール。いいね?」
「はい。申し訳ありませんでした」
「うん。もう少し調べてみるよ。何か分かったら報せる。今日はもういいよ」
「ありがとうございます。申し訳ありませんでした。……お疲れ様でした」
頭を下げて事務所を退出する。
時計を見ると午後2時56分。
3時からの会報委員の集まりには遅刻が確定している時間だった。
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『ミノル、代わるか?私が屋根伝いに走った方が……』
「自転車を置いて行けない。それに変に目立つのは俺にもお前にも不都合だ。自分で頑張って漕ぐよ」
会報委員長である憧れの鹿野リョウコに遅刻する旨のメールを入れ、ミノルは学校までの道程を懸命に自転車で走っていた。
『すまない。ミノル。私のせいだろう』
「何が?」
『君が遅刻するほど寝坊したのも、就労の作業工程に誤処理が生じたのも、私というイレギュラーが君の日常に割込んだこと……その結果君に蓄積しているストレスが原因じゃないのか?』
「……どうかな」
『鹿野リョウコは君の意中の異性で、彼女との約束に対して社会的マナー違反である遅刻をすることは、君にとっては恥辱であるはずだ』
「まあな」
『私が君に入り込んで、とんでもない事態に巻き込んだりしなければ……』
「本物川」
『なに?』
大学の校舎が見えてきた。どうやら最小限の遅刻で済みそうだ。
「お前が俺に取り憑いたのは、お前にとっちゃ不可抗力だったんだ。別にお前を責める気はねえよ。レジ差異だって俺のミスだし、遅刻はその結果だしな」
『しかし……』
「それにお前がいなきゃ、俺はあの殴打にやられて死んでたし、この星ヶ谷の街は燃焼にやられて焼け野原だったんだ」
『……』
「思うところがなんにもないっつったら嘘になるけど、感謝してるし、今後もできるだけ手伝うさ」
『……ミノル』
「重隔離偽非概念。あいつらは野放しにはできねえ。それは俺たちにとって共通の思い……いや、誓い、だからな」
ラストスパート。ミノルはペダルを漕ぐ足に一層の力を込めた。
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広澤メイコは会報に使う用紙の束を運んでいた。
A4コピー紙二箱が平たい樹脂の紐で括られたそれに、彼女は一人悪戦苦闘していた。
印刷室までの道はまだ半ばである。
紐を解いて一箱ずつ運べばいいかも知れないが、とすると一旦はこの路上に用紙一箱を一旦放置することになる。万一その間に、かつかつの予算からようやく購入した用紙の半分に何かあれば彼女の立場がない。
最初から無理せず一箱で出発すべきだったのだが、リョウコ先輩の前でカッコ付けて安請け合いしたのだ。彼女はそれを後悔し始めていた。
そもそも非力で病気がちな自分である。それが板に付いたからか、見た目も幸が薄そうだと自覚している。分不相応な荷物をはぁはぁ言いながら運ぶ自分は、他人から見たらさぞ滑稽で惨めなことだろう、とネガティブな考えがメイコの心中に夕立の前の雨雲のようにもくもくと広がる。
腕の筋肉は悲鳴を上げ、握力は両手とも限界だ。
大体にして、自分は貧乏くじの星回りなのだ。誰もやりたがらない係は、いつも自分に回ってくる。
小学校の時の生き物係、中学校の時の保険係、高校の文化祭実行委員、そして大学サークルの会報委員。
断り切れず、決まらない会合の押し付けあいの空気に負け、なんとなく引き受けてしまう自分。
きっと自分は、一生こうして貧乏くじに四苦八苦しながら生きてゆくのだろう。
メイコはそう思うと目の前が暗くなったように感じた。
それでもなんとか引き受けた荷物を運び切ろうと、紐を持つ手を持ち直そうとした瞬間、
「あっ!」
指から紐はずり落ち、箱は重力に引かれて落下した。
スローモーションで緩く回転しながら落ちてゆくコピー紙の箱。角から落ちれば何十枚も紙がダメになる。
極端に遅くなった時の流れの中でメイコは絶望していた。
自分のダメさ加減に。引き受けておいて引き受けたことに後ろ向きで、ミスをする自分の不甲斐なさに。今後とも似たようなことを繰り返すだろう自分の将来に。
ダメになった分は自腹で弁済しよう。一体幾らくらいかかるだろう?ああ、今月はネットのし過ぎで規定容量超過分の料金の払いがあって苦しいのに。母は月末近くにまた米を送って来てくれるだろうか。母の米の宅配便があればなんとか凌げるだろうが、ないとなると今月を黒字決済にするのはかなり厳しい。母にお米をそれとなく催促するか。いや、それもどこかみっともない。どうしようーー。
そこまで実時間の0.0.4秒でメイコが考えた時。
「おっと!」
男の子の声を合図に、時の流れは唐突に元に戻った。
コピー紙の箱は地面すれすれでその紐を誰かの手にキャッチされて、ダメージを免れている。
驚いて振り返ると、いつの間にかメイコのすぐ背後に、同じサークルの岸ミノルが立っていた。用紙の箱を救う為、メイコに寄り添うような近距離で。
「セーフ!」
岸はそう言って、顔をくしゃくしゃにして笑った。メイコは咄嗟に可愛い、と感じてその愛敬ある笑顔から目が離せなかった。
だが次の瞬間、ふいに服が触れ合うほどの距離に同じ世代の男の子が立っていることを意識して、慌てて後ずさろうとした。そこに校舎沿いの、一段高くなった歩道の段差があった。
「きゃあ⁉︎」
足を取られたメイコはバランスを崩して転倒のモーションに入る。
彼女は本日二度目のスロー時間の中で、本日二度目の絶望をしていた。
「よっと!」
時間の流れを元に戻したのはまたも男の子の声、そしてその左手だった。
力強くメイコの左腕を掴み、倒れないように支える手。
見れば岸の表情は真剣な、険しいものに変わっており、さっきとは打って変わって若者らしい凛々しさが表に出ていた。
「大丈夫か?」
メイコは段差に気をつけながら足の位置を取り直すと
「あ……ありがとうございます」
小さな声でやっとそれだけのお礼を言った。
岸はメイコがしっかり立ったのを確認してから彼女の腕から手を離した。メイコの右腕の強く握られた部分は、手を離されてなお、少し、じぃん、と余韻が残った。
「いいって。こっちこそ遅れて悪かった。その分今から働くからさ。これ、印刷室までだろ?」
「う、うん」
慣れない男の子との遣り取りにどぎまぎしながらメイコは普通に振る舞おうと全力で努力した。
「よし、一緒に行こうぜ。んで何をすればいいか教えてよ。俺は今日が初めての会報委員活動なんだ」
「あ……うん。分かった。私は、広澤メイコ。すくすく子供会の」
同じ一年生だが、違う子供会で活動していると、意外と接点は少ない。だが週一の部会では同席して話し合いをしたり研修を受けたりしている。メイコは勢い初めて会ったような挨拶をしてしまったことを後悔した。
「知ってるよ。でもまあ改めて自己紹介ってのもありか。青空子供会の岸ミノル。今日からよろしくお願いします」
岸はそう言って深々とお辞儀した。
「こ、こちらこそ。よろしく……お願いします」
岸に負けないように深々と頭を下げながら、メイコは今回の役回りだけは貧乏くじではなく、当たりくじかもしれない、と思っていた。
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『物理媒体への情報の転写と、その複製か。なるほど。具象世界ならではの手段だな』
本物川はミノルの会報委員としての一連の作業に対して、そう感想を述べた。
文化会の印刷室は、中にコピー機が並ぶ一棟の小屋として独立している。
コピー機本体に差し込むソケット式のカウンターの四角いユニットが起動キーを兼ねていて、使用者はそれを総務課から借りて、使い終わったらカウンターの印刷数と部活やサークルの名前、代表者の名前をログに記載して返すのだ。
借り物であるカウンターを挿しっぱなしで放置はできないので、誰かが印刷中の機械を見ておく必要があるのだが、今はミノルがその役割だった。印刷小屋の中は事務机に頬杖をつきながらパイプ椅子に腰掛けるミノル以外には誰もいない。
「概念の世界に印刷の概念はないのかよ」
規則的な機械音とともに、会報の原稿を吐き出し続けるコピー機をぼんやり眺めながら、ミノルは本物川に尋ねた。
『私は接したことがない』
「燃焼の時、燃焼の概念があるから火が燃える、とか言ってたろ。印刷の概念があるから印刷できるんじゃないのか?」
『だろうな』
「だろうな、って……」
『概念の世界も広い。こっちに来て思ったが、恐らく概念の世界自体も幾つもの層に分かれているのだ。具象世界との意味的な距離に応じて』
「この世界と直接に関わる概念が住む場所は、お前が住んでた世界とは層が違うのか。同じ概念の世界でも?」
『例えば月というこの星の衛星。君と同じ具象世界の場所ではあるが、君は行ったことがないだろう』
「殴打、は具象世界固有の概念じゃないんだ」
『概念同士でも殴打しあうことはある』
「……そもそもお前はなんの概念なんだ?警察?」
『我々本物の概念は一義的な論理構成ではない』
「どういうこと?」
『本物の概念には様々な要素が複雑に絡み合いながら共存しているのだ。丁度君たち人間のように。そのバランスを崩し、何か特異な一義に偏り、その行使のみが存在理由になってしまったような概念がーー』
「偽非概念、か」
『そうだ』
「いろんな概念を共存させている……だからお前も殴打を使えたのか」
『論戦の訓練は受けている。殴打は基本的な論戦法の一つ。しかし我々本物の概念は様々な概念を内包してはいるが、同じ概念でも単一の概念に特化した概念……偽非概念のそれには及ばないことが多い。例えば元々の私の殴打は、偽非概念の殴打より弱かった。偽非概念の殴打は存在のリソースの殆どを殴打のみに割いているからだ』
「よく勝てたな」
『踏み込み、跳躍、慣性、体重とそれに伴う運動エネルギー……具象世界ならではの追加要素の力を上手く上乗せできたからな』
「燃焼と戦った時のお前の殴打、強くなってなかったか?」
『殴打を倒した結果だ。偽非概念として特化された殴打に触れて、理解し、取り込むことで私の殴打は飛躍的に強化された』
「倒した相手の能力を吸収できる、ってこと?じゃ、燃焼も?」
『偽非概念本人ほどではないが、この世界の戦いにおいて有力な武器となる程度には理解した』
「なんかどっかのゲームのキャラみたいだな」
コピー機が止まった。そしてそれはすぐに紙切れを示す警告の電子音を鳴らした。
「特異な一義に偏って、その行使のみが存在理由となってしまった概念……か」
ミノルは用紙トレイに紙を補充しながら独り言のように呟いた。
「犯罪者ってのはどんな世界でも……そういうものかもな」
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「本当にいいのに。まだ普通に人通りもあるし」
鹿野リョウコはそう言って申し訳なさそうな顔をした。
日もとっぷりと暮れた夜の街。
大学から北星ヶ谷駅に向かう道すがらである。駅向こうのアパートに暮らす鹿野を、ミノルが送ると申し出たことに対しての弁だった。
鹿野は人通りはある、と言ったが、大通りから一本入ったこの道を今歩いているのは、見渡す限り鹿野とミノルの二人だけだった。
「気にしないでください。駅ビルの百均にも寄りたいんで。駅向こうまでは送ります」
ミノルは答えたが、百均うんぬんの下りは嘘だった。
鹿野は徒歩、ミノルは自転車を押しながらの同道である。
駅ビルは既に見えて来ており、視界の中で徐々にそのシルエットは大きくなりつつあった。
「でも本当にありがとうね、ミノル君。会報委員手伝ってくれて。メイコちゃんも嬉しそうだったよ」
「いえ。約束の時間に遅刻してすいませんでした」
「珍しいよね、ミノル君が遅刻なんて。何があったの?」
一瞬の逡巡を経て、ミノルは正直に話す決意をした。
「バイト先で、俺の入ったレジから差異が出ちゃって……」
「あちゃー、やっちゃったね。怒られた?」
「いえ。いっそガーッて怒られた方が気が楽なんですが。いつも頑張ってくれてるから信用してる、今後気を付けるように、と。なんというか……期待を裏切ってしまった感じで。気持ちのやり場がなくて……へこんでます。正直」
「あー……さらっと許されたのが逆に辛いんだ。真面目だねぇ」
鹿野はミノルを見ながらクスクスと口元を押さえて笑った。ミノルはそんな鹿野の様子にどきりとしたことを意識してしまい、つ、と視線を彼女から反らした。反らした視線の先に、増築中の駅ビル新館の壁面、工事用のパイプ組みの足場と、部材落下防止のメッシュ生地の幕が目に入る。
「なるほどねぇ。バイトでミスしてそれが原因で遅刻しちゃったのか」
「……はい」
答えながらミノルは消えてしまいたい気持ちになった。
「散々だね。じゃあなんか美味しいものでも食べて、元気出さないと。ご飯を奢る約束、お店はどこがいい?」
「え⁉︎ あ、いいですよ。先輩にはお世話になってますし、恩返しのほんの一端です。逆によく憶えてましたね。大丈夫です。お気になさらないでください」
「こら。私を約束を守らないいい加減な先輩にさせたいのか。ダメです。お店を言いなさい。ここは気持ちよく奢られるのがあなたの後輩としての……」
鹿野がそこまで言いかけた瞬間、ミノルは彼女に飛びかかった。鹿野を抱きしめ、転がるように倒れ込む。余りにも予想外のミノルの行動に、鹿野がひっ、と息を飲む。
直後、寸前まで鹿野とミノルが立っていた場所に大きな音を立てて、鉄骨が突き刺さった。
危険を察知した本物川がミノルの身体を動かし、二人を救ったのだ。
「本物川⁉︎」
『ミノル、まだだ!』
見上げれば似たような鉄骨が三、四本、くるくると回転しながらミノルと鹿野がしゃがみ込む場所を目掛けて殺到する。鹿野を抱えて再度避難する時間は既にない。
ミノルは自分の身体に、殴打を含め数種の概念が疾駆したのを感じた。
「きゃぁぁぁぁっ!!!」
事態が飲み込めた鹿野が絶望の悲鳴を上げる。
げいん!
突き上げた拳を頂点に、すっくと立ったミノルの背中を、鹿野は信じられない思いで見つめた。
ミノルの拳で弾かれた鉄骨は次々と別の鉄骨に当たり、それらを周囲に弾き飛ばして、鹿野とミノルの居るエリアから完全に排除した。逐次落下したそれらが、ガンゴンと身がすくむような大音響を辺りに響き渡らせる。内一本は、閉店した洋品店のシャッターに当たり、それを大きく引き裂いた。たちまちけたたましい防犯ブザーが鳴り響く。
その鳴り響くブザーの中、ミノルは振り向いて鹿野の無事を確かめた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「え……ええ」
「すいません急に。でも他に手段がなくて」
「ううん、いいの。あ、ありがとう。助けてくれて」
ミノルの身体を操る本物川は、きっ、と駅ビル新館の上層階を睨んだ。
「偽非概念、か?」
ミノルは鹿野に聞こえないよう声低く本物川に確認する。
『ああ。落ちてきた鉄骨を見てみろ』
鉄骨は切断されていた。斜めに、非常に鋭利にだ。断面は磨いた鏡のように滑らかで街の灯りを反射してさえいる。
「切断の概念?」
『いや。もっとタチが悪い。恐らく……』
本物川は珍しく言い淀んだ。答えを得ているが、それを認めたくないといった様子だった。
『とにかくここを離れよう。鹿野リョウコを巻き込んでしまう』
「分かった」
ミノルは鹿野を助け起こすと、この場を離れるように促した。
「多分警察が来ます。俺がうまいこと説明しとくんで、先輩はこのまま帰ってください。ここにいたら、また危ない目に合うかもしれない」
「ミノル君は……平気なの?さっき……あの柱みたいの、殴ってたよね……手は、大丈夫なの?」
「大丈夫です。多分、火事場の馬鹿力って奴で」
「そんな……それにしたって……」
「とにかく先輩はここを離れて。あとは俺に任せてください」
「でも……!」
「エヒトフルスがいいです」
「え?」
「ご飯食べるお店ですよ。南星ヶ谷のレストラン・エヒトフルス。高くはないですけど、お店の雰囲気が良くて美味しいんです。割り勘でいいんで、良ければメイコちゃんも誘って、会報委員の壮行会にしましょう」
「ミノル君……」
「その時、話はいくらでもできます。だからお願いです。今は……ここを離れてください」
「……分かった。約束よ。だから、危ないことや無茶なことはしないで。絶対に」
「分かりました。約束します」
鹿野は更に何か言いかけたが、小さく首を振ると線路をくぐる高架下の道の方へ駆けて行った。
それを見届けたミノルは深呼吸を一つして、自分の全てを内なるもう一人の人格、本物川へと明け渡す。
駆け出したミノルの身体は、足元から柔らかな光を放つ。光はやがて全身を包み、光がまた足元から消えてゆくと、ミノルの姿は全く違う人物へと変わっていた。
ゴシックロリータな衣装をはためかせて夜の街を駆ける、一人の美少女へと。
金髪ツインテールの、凛々しい面持ちの概念の行使者へと。
ーーーーーーーーーーーーーーー
駅ビル新館の8階は床はあるものの、壁はそこかしこビニールシートか骨組みだけで、そこらに今後壁となるであろう壁面の石膏ボードや、コードのリール、床材や天井材が収まった大小の段ボール箱が置かれており、非常灯の緑の灯りにそれらが浮かび上がる様はどこかシュールな佇まいを醸し出していた。
「……いた」
『あいつが?なんの概念だ?』
二部屋分くらい先の少し広くなったフロアに立つシルエット。
夜の黒と、非常灯の緑のツートンカラーの中に立つスーツ姿の長身の男。手にはスラリと長い刀ーー鞘に収まった日本刀を携えていた。
「追いかけて来たのか、我々を」
スーツ姿の男がそう言った。
『しゃべった……』
「やはり……あいつは」
『知り合いか?』
本物川は答えない。
「久しぶりだな。さてお前をなんと呼べばいいのか。名前は決めたか?この世界には、この世界ならではの便利な概念が沢山ある」
「……本物川、だ」
「本物の……川。なるほどな、お前という概念を上手く表している。にしても少女の姿とはな。お前はこちらの世界で言えば、どちらかと言うなら男性的な概念だと思っていたが」
しゅら、とスーツの男の日本刀が鞘から抜かれた。
本物川は手の先に意識を集中した。そこ鋭く冷たい概念が幾条も疾駆するのをミノルは感じた。次の瞬間、びん、と空気を震わせて、そこに硬質な光の刃が具現化した。それを手に構える本物川がいつになく緊張しているのをミノルは感じた。
「奴は……元は私と同じ本物の概念だ。ある論戦技巧に傾倒するあまり、偽非概念に堕ちた」
『お前と同じ……本物の概念?』
「ああ。そして私のーー」
その時スーツの男がゆらり、と揺れた。
目の前に火花。ギラリと輝く十文字。閃く光に喜びに歪んだ男の顔。耳を撃つ金属の甲高い悲鳴。
「ーー教官だ」
「教官……か。お前はこの世界の言葉の意味を端的に捉えて上手く操るな。だが間違っている。今の私の名はーー」
一呼吸分、スーツの男が刃を引く。
だが次の刹那、その寸隙に弾けるように強烈な一撃が生じた。
本物川は身体ごと飛ばされて、むき出しの内壁とその骨組みのスチールフレームに派手に衝突して大きな衝撃音と盛大な石膏粉の噴煙を巻き起こした。
ゴシックドレスの胸が斜めに切り裂かれ純白のブラジャーはアンダーベルトのセンターで断たれて、白い肌が露わになる。
そこに真紅の線が一筋走っていた。
本物川の手の剣は根元から折れていた。
「ーー斬撃だ」
斬撃はわずかに腰を落とす。
その四肢には既に、次の一撃の為の膂力が十二分に満ちていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
『本物川!おい!本物川!』
「……う」
『起きろ!奴が……斬撃が来る!』
「 ‼︎ 」
ミノルの声に、か、と眼を見開いた本物川は瞬時に事態を察して倒れていた建材の残骸の巣を飛び退いた。
途端に彼女が倒れていた場所の石膏ボードが、四角い穴の並ぶ鉄の構造材が、目の荒いウレタンの保温・防音材が定規で引いたような直線で斬断される。
『どうするんだ⁉︎ 勝てるのか⁉︎』
「切るものだ」
『なに?』
「この世界の物理的な、何かを切る道具が必要だ。何かないか?」
『んなこと急に言われても……』
斬撃は振り返ると、肩越しに刃を背負うような異様な構えをとった。
そして間合いを詰めることもせず、本物川に向かいその場で鋭く刀身を振るった。
その白刃から迸った衝撃波は空気を歪ませ、疾走する斬切の幻影となって本物川に襲いかかる。
既の所で身を躱した彼女の、しかし右のツインテールが彼女に別れを告げて宙を舞った。
「概念飛ばし……!」
『概念飛ばし?』
「強く練った概念を、媒体を介さずに存在させて飛ばす技だ」
『そんなのアリかよ⁉︎』
斬撃から次々と放たれる概念飛ばしは、必死にそれを躱す本物川の肌や服に小さな傷を続々と刻み、また周囲の風景を斬り刻んでゆく。
「ミノル、切る道具だ!」
『あのな!剣や刀がそこらにゴロゴロしてるわけねーだろ!』
「小さくてもいい。人を斬るような道具でなくて構わない。切る、という具象論理構成を持つ物理媒体であれば……」
『ものを切る道具……デスクを探せ。引き出しかペン立て。カッターくらいあるだろう!』
「カッター……」
ミノルの脳裏に勝手に様々な種類のカッターの画像が何十種と想起され、それに伴って使い方や切れ味の体験的記憶が蘇った。本物川が参照しているのだ。
「……承知した!」
本物川は次々に飛来する斬撃の概念飛ばしを滑り込みや側転で躱しながら未完成のフロアを駆け抜ける。その視界の端が、事務机を組み合わせた指揮所のような一角を捉えた。
「あそこか……!」
『おい本物川!』
「 ‼︎ 」
一瞬。ほんの一瞬注意が逸れたまさにその時、斬撃の狙い澄ました概念が本物川に吸い込まれるように飛んだ。回避の動きの半ばでその衝撃に巻き込まれた本物川は、放り投げられた人形のようにくるくると回りながら夜の工事現場を飛び、目指すべき指揮所に叩きつけられる。
ミノルは視た。
一秒に満たない時間の中で、本物川の左腕が斬り飛ばされ、血の尾を引いて遠ざかってゆくのを。
本物川の身体でひしゃげ、数々の書類や、工具や、何かの測定器をばら撒く使い古された事務机を。
宙を舞う数々の紙片、破片、文房具、その中でキラリと非常灯の光を跳ね返す、黄色いグリップのカッターナイフを。
有り余るエネルギーで床面にバウンドし再び宙を踊る本物川の、残った右手がそのカッターナイフを空中でしっかりとキャッチするのを。
間髪入れず、斬撃本体が狂気の笑みをその顔面に張り付けながら本物川に殺到する。ミノルは思わず眼を閉じようとしたが、消し忘れたテレビのように本物川の瞳は目の前の土壇場をミノルの意識に明瞭に送り続けた。
閃光。カッターの意匠を残す巨大な剣。飛んでゆくスーツの裾を巻きつけたままの裸足の左脚、飛び退いて遠ざかる斬撃。爆煙。破片。片足で器用に着地するスーツの男。斜めに両断されて天井から外れ、地響きを立てて倒れる柱。
「ふむ……面白い」
そう言って斬撃は片足でひょこひょこと移動すると、飛ばされた自分の足を拾った。まとわっていたスーツの裾を剥いで捨て、そして中身を膝下の切断面に当てがう。傷のラインがぼんやり青く光る。たちまち傷は消え、足は元通り繋がったように見えた。
「仕切り直そう。ここは場所も狭いし、お互い準備不足だったな」
言いながら斬撃は瓦礫の中から本物川のほっそりした左腕を拾い上げ、本物川の前に放り投げた。本物川はカッターの剣を構えたまま、斬撃から視線を外さない。
「明日の夜。時刻は今。場所は南大橋だ。お前……いや、名は本物川、だったな。様相を変えても論戦の打ち筋は相変わらずだ。敵と決めたら叩きのめせ。教えたはずだ。戦いの中の迷いは自分だけでなくーー」
斬撃はガラスの割れた大きな窓に歩み寄ってゆく。
「ーー仲間をも殺すことになる」
そしてその窓から闇夜に向かって、無造作に身を躍らせた。
静寂が辺りを支配した。
どっ、と音を立てて本物川が片膝を突く。
彼女は荒く息をしながら、カッターの剣を床に落とし、右手で床の左腕を拾い上げ、左肩下の切断面に当てがう。そこに励起した心地よい概念は恐らく「治癒」だろうな、とミノルは思った。
「すまないミノル。借り物の身体を……」
『いいさ。大丈夫か?』
「ああ。とりあえずはな。危ないところだったが」
『本物川……あいつ、斬撃が言ってた迷いって……』
「……」
本物川は手をかざし、付与した概念から具象世界の文房具を解放する。巨大な剣は、一振りの普通のカッターナイフに姿を戻した。
「お前……もしかしてあいつのことを……」
『……少し休む。カッターは身につけておけ』
気がつけばミノルの身体も、ミノル自身に戻っていた。
(本物川は……斬撃には、勝てないかも知れない……)
左手を握ったり開いたりして具合を確かめながら、ミノルはぼんやりと、どこか他人ごとのように、そう考えていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
吹きすさぶ風が、本物川のツインテールをばたつかせる。
夜の街を見下ろす真新しい橋脚塔の頂上。
ペンキの匂い。目下を斜めに下ってゆく極太のワイヤーケーブル。吹き抜ける風。
建造途中の橋を支える鉄の支柱の頂点の、座布団ほど四角いスペース。ごつごつとその輪郭をかたどる大きなナットの突出を避けて、本物川は片膝を抱えて座っていた。
ミノルは少し迷った末、戦いを前にした本物川に話しかけた。
『本物川』
「なんだ」
『概念は恋はしないのか?』
「概念に、こちらの世界でいう性別はない」
『じゃあ恋愛はしないのか?結婚や出産の概念もない?』
「……お互いに好ましいと感じる概念同士が接近し、緊密に影響を与え合うことはある」
本物川は少し身じろぎをして遠くを見るような眼をした。その手に、黄色いグリップのカッターナイフが握られている。
「その結果、新しい概念が産まれることも」
『……それはつまり、誰とでもそうなるのか?この世界の人間が、メールを交換するくらいの感じで』
「いや……次世代の概念誕生までのことが起きるのは中々ない。環境からの影響や……概念同士の相性で」
『よく分からないが、好きになったり嫌いになったりはあるんだな』
「相性とそれに基づく接近や忌避を、そう呼ぶのならな」
『特定の他の概念を大事に思ったり……尊敬したりは?』
「……何が言いたい?」
『お前に……斬撃が斬れるのか?』
「……」
『お前が斬撃を斬れないことを、奴は知っているんじゃ……』
「斬るさ」
本物川の右手に、その先のカッターナイフに、彼女が内包していた斬撃に関わる概念が淡い光のラインとなって集中する。その束なった純粋な概念の累積は、ついにこの世界の物理法則の軛を断ち、小さなカッターナイフを抽象的なデザインの、しかしカッターナイフの意匠を残した巨大な剣へと変貌させる。
「この身体、この存在、この……命ーー今は私のものだけではないのだから」
立ち上がった本物川の双眸が、長い武器を手に閉鎖された橋を一人歩いてくる長身のシルエットを捉える。
「付き合わせてすまない。ミノル。君に埋め合わせがしてやれればいいんだが……」
『概念にも好きなものと嫌いなものがある』
「……ああ」
『この世界で何か気に入った……相性のいいものはあるか?』
「そうだな……歌、シャワー、食事……中でもハンバーグ」
『ハンバーグ?あの……肉料理の?』
「あれはいい。ハンバーグの概念とは仲良くしたいものだ」
『同感だな』
「それともう一つ」
『ラーメン?それともチャーハンか?』
「君だ……岸ミノル」
眼下のシルエット、斬撃は立ち止まり、こちらを見上げた。
「私が転移した先が……この世界で最初に出会ったのが、君で良かった」
『ストレートだな……OK、分かった。終わったらシャワーを浴びて鼻歌まじりでハンバーグを食べに行こう。だから……早く終わらせろ』
「……楽しみだ」
吹き付けた一際強い西風に身体を預けるように、本物川は橋脚の頂上から跳躍した。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「迷いは去ったか?本物川」
斬撃は刀を抜いてかつての同僚にそう語りかけた。
本物川は答えずに、カッターを強化した斬概念刀を構える。
「それが答えか。なるほどな。言葉より実態としての意味……我ら概念同士の戦いの意思確認に相応しい」
長身の、スーツで素足の男は柔らかな仕草で手にした刀を構えた。
両手持ちの上段の構え。自然で無駄な力みのない、だが力強い構えだ。
対する本物川は同じく両手持ちの青眼の構え。
しかし対峙した敵ーー「斬撃」に対し勝てるイメージを抱けずにいるようだ。
その理由はミノルにも分かった。漫画などではよく目にする「隙がない」ということの意味を、今こそミノルは体得した。
『剣にも戦闘についても俺は素人だが、そんな俺にでも分かる。あいつは無茶苦茶強い。あいつには……剣では勝てない。そうだろ?』
「ああ。奴が本物の概念だった頃、十一回の模擬論戦の機会があったが、私はことごとく負けた。斬撃に特化した偽非概念となった今……奴の刃の冴えは私のそれを歯牙にも掛けていない」
『どうするんだ?斬られて終わりか?俺も。お前も。……この街も』
生温い風が重たく辺りのものを舐めて吹き抜ける。
本物川は玉のような汗を額に浮かべ少し深く息をして、早鐘のように鼓動を刻む心臓を落ち着けようとしているようだった。
「ミノル……頼みがある」
小さな声でとても苦しそうに、本物川はミノルに懇願した。
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斬撃は刀を構えたまま、敵である本物川の様子を観察した。
攻防一体の青眼の構え。だがこの場面では消極的と言える。
そもそも実力に劣る本物川の勝機は捨て身の一撃にしかないはずで、それは彼女にも分かっているはずだ。
(……弱気な)
観察する間にも、斬撃は足の指を地に這わせて姿勢を保ったまま本物川との距離をじわじわと詰めていた。この世界の、人間の模擬斬撃戦の手法の一つ、にじり寄りだ。
斬撃が一足の間合いに迫っていることに、本物川が気付いている様子はない。
(しかも愚かだ!)
一足の間合い。跳躍。急速に大きく鮮明になるツインテールのゴシックロリータの少女の姿。
彼女は引かず、さりとて押すわけでもなく、その場で斬撃の一撃を受け止める気のようだ。
「甘い!」
「 ‼︎ 」
勢いの乗った斬撃の一撃は、それを真正面から受け止めようとした本物川の意図を軽々と粉砕し、その身体を地面すれすれに橋の袂まで吹き飛ばした。
「ぐうっ!」
橋の名前を刻んだ黄銅のプレートに強かに背中を打ち付けて、本物川は血を吐いた。一拍と置かず、吹き飛んだ本物川を追うように走りこんでいた斬撃がようやく身を起こす本物川に嵐のような連撃を見舞う。
「手足も短い。筋力もない。少女の姿を選んだのは本物川、お前のミスだ」
「くっ……!」
そこかしこに刻まれた傷から、千切れた布や血を垂らしながら防戦一方の本物川は、斬概念刀を大きく回転させてスペースを作ると、左手をそこに突き出した。
次の瞬間、ごう、と音を立てて高熱の炎が本物川と斬撃の間を満たした。
「燃焼、か……!」
斬撃は飛び下がって間合いを取り直した。スーツの右の前身頃とネクタイが焦げて煙を上げている。
「やるな……だが、接触時間が短かければ燃焼とて恐るるに足らん。次の一刀で、本物川。お前を倒す」
斬撃は刃を背負うような構えを取る。概念飛ばしの構えだ。
本物川は、またその場で受け止める構えのようだ。
斬撃は落胆した。概念世界にいた頃の本物川はもっと柔軟な、思い切った手を打つ概念だったはず。何故こうも凡庸な、消極的な打ち筋の概念になってしまったのか。
まあいい。弱い概念などに存在価値はない。私に簡単に負けるようならばそこまでの概念。器としただろう人間の命ともどもーー。
「消えてなくなれ!」
四連撃の概念飛ばし、同時に跳躍して飛び込む斬撃自身、合計五つの切斬の魔弾が本物川を目指して飛ぶ。
本物川は驚異の集中力で退かずに四連撃を弾き返し、斬撃自身の渾身の一撃をも受け止めた。だがそこまでだ。体重も筋力も劣る身体で、受け身の作戦など愚策なのだ。
合わせた刃に体重をかけながら、斬撃は嘲笑った。押し切れる。
「終わりだ。本物がはっ⁉︎」
川、と言おうとした斬撃の口が血を吐いた。
驚いた斬撃が視線を落とすと、自分の胸から血まみれの女の手が生えていた。拳を握り、強い殺意を秘めて。
「殴打……」
呟きながら首だけを巡らせて後ろを振り向いた斬撃は、背後に立つ哀しげな瞳の、ツインテールの少女を認めた。まさかと前を見直せば、自分が刀を交えているのはTシャツにジーンズの必死の形相の若い男だった。
「概念……飛ばし。まさか……自分自身の概念を……」
この世界の圧倒的な物理法則に包まれて、所々ノイズを走らせ半透明になりながら、本物川は斬撃を貫いた右腕にまた違う概念を励起する。
ごう、と音を立てて本物川の右腕が燃えあがりその炎はたちまち斬撃の身体を包んだ。
「燃焼……か」
本物川は斬撃から腕を引き抜く。
どさり、と燃え盛る斬撃の身体は真新しいアスファルトに倒れ伏した。
「まさかな……自分自身を媒体の人間から分離して攻撃するとは……柔軟で思い切った手だ。そのまま消滅の危険すらある、まさに捨て身の一撃……やられたよ。見事だ」
概念の炎に焼かれながら斬撃は満足そうな笑みを浮かべた。
「私は斬撃の、その戦いの魅力に取り付かれ偽非概念に堕ちた。だが……お前は純粋な、本物の概念であり続けた。勝敗を分けたのは、その差……か」
乱れて薄くなりつつあった本物川の像は倒れこむように再びミノルの身体と重なり、溶け込むように一体化した。
ミノルの姿は消え、そこにまた実体を持った本物川の姿があった。
「お前は……戦士だ。強く、賢く、そして美しい。私を倒すものがお前で良かった。これで、私の戦いも……終わる」
斬撃の身体は、しゅんしゅんと音を立てて蒸気のようなものを噴き出し、消失しつつあった。そんな斬撃の言葉を、本物川はただ黙って聴いていた。
「さらばだ。概念戦士・本物川。その意味を、貫き通せ」
斬撃は真っ白な煙の塊に変じ、それが風に舞い散ると、燃えていた炎とともに姿を消した。
後には本物川の血が付いた一振りの日本刀だけが残った。
その日本刀にぽたり、と落ちる水滴があった。
『本物川……泣いてるのか?』
「概念は泣いたりしない」
またぽたり、と水滴が落ち、焦げて黒ずんだアスファルトに跡をつける。
「雨、と呼ばれる自然現象だろう」
何かを振り切るように、本物川は夜空を仰いだ。
満天の星、眩いばかりに輝く月。
雨雲なんて出てないぜ、という言葉をミノルは胸の内深く飲み込んだ。