えみりん
どのくらいの時間が経っただろう。
お互いに顔を合わせたまま、空いた口が塞がらず、世界の時間が停止したようだった。
「えっと…ま、待って待って、おい待て!」
私の両手での“待て”の合図から、時間は再生される。
なんだよ、と彼が私の両手の左手と右手を交互に見ながら怪訝そうな顔をした。
脳裏で色々と考えてみたが、全く綺麗にまとまりそうもない。
とっさに思いついた言葉が…
「…今、何歳?」
「は?」
顔の前に出された両手の隙間から、彼の「は?」という顔が見える。
ーこれは、きっと、何かの間違いだわ…。
間違いの発端は、あるインターネットサイトに掲載されている、一つの携帯小説によって起こる。
あるインターネットサイトとは、一般人が自由に携帯小説を読めたり書けたり出来るサイト。
恋愛、ファンタジー、文学、歴史…、ジャンルは様々。
このサイトに、もう一人の私が存在している。
“えみりん”
それが、私の著作名。
もう一人の私。
ネーミングセンスはさておき、
えみりんとしてこのサイト内で生きる私は、幸福感で満たされている。
何故なら、頭の中で駆け巡る妄想を一つの物語として成り立たせる事が出来るから。
私が著作する物語は、成人向けの小説。
所謂、アダルトや官能を主にした小説。
気づけば、幾つもの作品を書き上げ、ジャンル別でのランキングが上位になる事は珍しくなかった。
現在、連載中の小説も、官能的で刺激のある表現が主。
医師と看護師の禁断の恋愛からなる、官能小説。
舞台が病院という、一般の現実ではあり得ない設定によって、人気も上々。
読者からも高評価のコメントを貰う事が多かった。
中でも、“Shin”という名前がよく目に入っていた。
『描写が、素晴らしい』
『えみりんさんはきっととても情熱的な方なんですね』
『僕はえみりんさんの大ファンです』
毎日のようにコメントがくる。
ーどんな人なんだろう。
連載も順調に続いていた、ある日、
『ぜひ、お会いしたいです』
“Shin”から寄せられた、一つのメッセージ。
それはいつものコメント欄からではなく、個人的に送られるサイト内のメッセージからだった。
ドキッとした。
それがどんな鼓動なのか、自分自身でも分からない。
しかし、とてもストレートで迷いのない一言であると確信出来た。
ー会ってみようかな。
そう思うまでに、時間はかからなかった。
“Shin”が男性である事、偶然にも住まいが近所である事、初作品を連載していた頃からファンであった事。
たったこれだけの情報しか知り得ていないのに、何故会うことを決心したのか、自分でも分からない。
会った事もない男性と会う恐怖と、緊張、不安、そして期待。
今までにない感情を張り巡らせて、約束の日となった。
そして、今日はその約束の日。
私の視界に映るものは、イタリアンレストランのテーブル。
そう、テーブル。
「えみ姉、いつまでそうしてるつもり?」
テーブルに顔を伏せている私に、問いかける彼。
「………」
「ねえ」
「………」
「ねえってば」
「………」
「おい」
「………」
「えみりん」
「ああああああああ!!」
ボソっと呟いた彼の一言に咄嗟に顔をあげた。
「やっとこっち見た」
そこには満足そうに私を見つめる彼の顔。
自分が今、どんな表情をしているのか、彼にしか分からない。でもきっと酷い顔をしている。
「久しぶりだね」
「あ、あの…」
「ん?」
「な、なんで…」
「なんでここに居るのかって?」
「あ、あの、あの…」
「昨日帰国してきたんだよ」
金魚のように口をパクパクさせる私。
それを見て彼がクスッと笑った。
「えみ姉」
笑った顔がみるみると無表情へと変化していく。
彼の放った一言で、私は確信する。
「ネーミングセンスなさすぎ」
ー何かの間違い…
ではなさそうだわ。