第五.五話「暗闇の中の手」
5.5
真人が非常階段を駆け上がる二十分前、灯は、あてもなくキャニオンの中をとぼとぼと歩いていた。
あーあ、また失敗しちゃったな……。
灯は、ショーウインドウに映る自分の顔を、ふと見つめた。目の周りが、少し赤く腫れている。
真人のバカ……。私だって、勇気出して、誘ったのに。やっぱり、ちょっと勢い余って、派手すぎる水着を選んでしまったのが間違いだったのかな……。
灯は、少しうつむき、しょんぼりとする。そのまま歩いていると、中央の噴水の所についた。噴水の周りを緑色の植物が囲み、上から照らされる太陽の光で、水がきらきら光っている。ふと横を見ると、そばのベンチに同い年くらいのカップルが座っている。それを見て、また落ち込む。
どうしてこうなっちゃうんだろうな。
灯は、胸につっかえる、曇りがかった気持ちのやり場も分からず、そのまま左の奥の通路へと入っていった。
私だって――。
灯が、そう思った時、がたん、と大きな音がした。え、何?
次の瞬間、通路の照明が突然切れた。突如、灯の周りを暗闇が包む。
え、え、何? どうしたの? 停電?
あまりの突然の出来事に、灯はただ立ち尽くすことしかできなかった。まだ暗闇に慣れていない目では、何も見ることもできない。遠くの方で、かすかな悲鳴や、足音が聞こえる。さっきのカップルだろうか。そう思って、噴水の方に繋がる方角を見る。噴水の上にある窓から入る太陽の光のせいか、そちらの方がかすかに明るく見えた。
「すみません! 誰かいませんか?」
灯は声をふりしぼって叫んだが、応答はない。周りに、人はいないようだ。
暗闇に一人取り残される感覚――。
灯の脳裏を、かつての記憶がかすめる。そうだ。あの時も――。
「やめて!」
その記憶が、一気に戻りかけた時、灯はとっさに自分の頭を両手で抑えて叫んだ。
やめて。それだけは。その記憶だけは、今、思い出したくない。
しかし、記憶を完全に制御することはできなかった。灯の脳内で、「あの時」の映像が、ビビットに映し出される。狭い空間に、一人いる自分。手を伸ばしても、届かないもう一つの手。閉まる扉。暗闇の中にいる自分。やめて。やめて。やめて。
灯はその場にへたり込んでしまった。手と足、全身が、ガタガタ震えている。呼吸が荒くなる。うまく、息が出来ない。
どうしよう。身体が動かない。助けて。助けて、真人。
ビーッビーッビーッ。
その音に、灯は心臓を射抜かれる。それが、アミーダの警告音であることに気づくと、とっさに震える左手を広げて、アミーダのウインドウを出す。
<<DISCONNECTED>>
緑色の画面に、赤い文字でそう表示される。嘘。繋がらない?
灯がそう思った瞬間に、アミーダの警告音が灯の聴覚に直接働きかけた。
<<警戒レベル2。当エリア内に、問題発生。屋内は危険です。直ちに、屋外へ避難されたし。繰り返します。 当エリア内で、問題発生。直ちに、屋外へ避難されたし>>
嘘。問題発生? 何が起こっているの? なぜ、電気が消えたの?どうしよう。早く、ここから逃げなきゃ。
しかし、フルスピードで回る思考とは裏腹に、身体はどうしても動かなかった。その震える両足では、逃げることはおろか、立つことさえ困難に思えた。
がががぁぁぁああああああっしゃぁあああん。
通路の先、噴水の方へ繋がる方で、大きな音がした。かすかに見えていた光が、消えた。灯は、それが通路を封鎖する防護シャッターが閉まった音であることを、瞬時に理解した。
待って。まだ私が、ここにいるよ。どうして。どうして。待ってよ。
そう叫びたい思いは、声にすらならなかった。暗闇の中に、灯は一人取り残されていた。もうとっくに目が慣れてきていい頃だが、周りには何も見えない。ただ、暗闇だけがそこにあった。
灯は、もう一度、アミーダを広げる。緑色のウィンドウに、無情にも表示される、<<DISCONNECTED>>の赤い文字。
灯は、必死に何度も、その緑色の画面を指でクリックする。しかし、画面が変わる様子はなかった。
どうして。どうして。動いてよ。助けを呼ばなきゃ。どうしてこんな時に限って動かないの。
でも。
灯は、泣き出しそうになるのを、ぐっとこらえた。「あの時」も、助けてくれた。真人が。暗闇の中にいた私に手を差し伸ばしてくれた。だから、信じる。今度も。真人が、助けてくれるって。
カツン。
通路の奥の方で、足音がした。
真人? 灯は、さっと後ろを振り向く。そこにあるのは、暗闇だけだった。
カツン。カツン。
違う。真人じゃない。この音は、ハイヒールの音だ。灯の不安が大きくなる。身体が、さらに震え出す。どうしよう。逃げなくちゃ。でも、身体が動かない――。
カツン。カツン。カツン。
足音は、ゆっくりと、でも確実に大きくなっていく。
カツン。カツン。カツン。カツン。
足音は、灯に近づいた。暗闇でも、もう1メートルと離れていない所に、誰かいるのが分かる。
そして、暗闇の中から、白い手が伸び、灯の肩に触れた。




