第十話「帰り道」
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阪野浦タイムを、無事(というにはあまりにも痛々しく)終えた真人は、校門まで来ていた。もう、日が暮れかけている。
「おーい、遅っそいよ真人しぃー!」
校門のところで、タクミが手を振っている。隣には、灯もいる。灯は、ちらりと真人の方を見ると、すぐにうつむいてしまった。真人も、無意識に目をそらしてしまう。
「悪い悪い。ちょっと阪野浦タイムが長引いちゃってさ」
そういいながら、真人は小走りで校門へと駆け寄る。
「んで? 何やらかしたの?」
タクミはニヤニヤしながらいってくる。
「なんもねーって。ほら、帰るぞ」
そういって真人は、タクミの背中を叩いた。はいはい、と言いながらタクミも歩き出す。
灯に、謝らなきゃな。真人は、そう思いつつも、なかなか灯の方を向くことができなかった。灯も、2人の数歩後ろを、少しうつむきながら無言で歩いている。
「いいか、麻野……」
真人は、阪野浦先生の言葉を思い出していた。
「お前が鮎川のことをどう思ってるかは知らん。でもな、彼女はお前を、誰よりも頼りにしているんだぞ?」
「そんな……そんなことないですよ。確かに長い付き合いではありますけど……」
「いや、麻野。私は教師だ。生徒のことは分かる。それに、君が昔、彼女を『救った』ことも知っている」
先生が、うっすらとした笑いを浮かべる。
そうだ。灯とは、『あの時』からずっと——
真人の記憶がよみがえる。それは、ハッキリとした映像だった。暗く。寒くて。怖い。壊れたビル。巻き上る粉塵。流れる血。 伸ばす手。届かない手。 自分の名前を叫ぶ声——
「麻野、聞いてるか?」
先生の力強い声で、真人は一気に現実に引き戻された。
「すみません……少し、思い出してしまって……」
「……そうか、悪かった」
先生は、静かにもう一口コーヒーを飲んだ。
「まぁ、なんだ、麻野。それもそうなんだがな、お前、女の子が水着を一緒に買いに行ってくれ、って男の子に頼む意味をもう少し考えろ」
「……はい?」
考えろったって…………一人で買いに行くの恥ずかしいから?
「とにかく」
先生は、あきれたように笑みを浮かべながらいった。
「これからも、お前は、鮎川君の側にいてやるんだぞ。どんなときも、だ。いいな?」
頼りにしてる……か……。
確かに自分は、「あの時」、灯を助けはした。でも、灯を助けざるを得なくなった原因が、真人自身にあったことを、先生は知らない。
自分が灯に頼りにされる資格はない。真人は、心のどこかでそう思っていた。
「……はい。……できる限りは……」
真人は、そういうのが精一杯だった。
「なぁー、真人しぃー?」
タクミののんびりとした声で、真人の思考は一旦ストップする。
「なんだよタクミしぃーー?」
真人は、語尾に力を込めて言う。
「あのさ、来週の適性検査って、具体的には何やんのかな?」
皮肉のつもりだったのだが、タクミはそれに気づかなかったようだ。
「何オマエ、まさか本気で選ばれるつもりじゃないだろうな?」
真人は、驚き呆れて、親友の顔を見つめた。
「だってよー、せっかくやるなら、選ばれたいじゃん?」
タクミは口をとがらせる。
素質アリと認められた者を、世界政府が抜擢するアミラーゼ。真人たちの学校には、世界政府の中央組織はおろか、地区支部でさえ、今まで抜擢された者はいない。そんな敷居の高いテストで選ばれたいと、コイツは本気で言っている。
「詳しいことは知らないけど、去年の先輩の話だと、普通に体力テストとかアミーダ操作テストとか、そんな感じらしいぜ? デュアルコアの検査もするみたいだけど」
真人は、親友の半ば無謀な希望にため息をつきながらいった。
「まじかー。体力テストだけなら、自信あるんだけどなー」
「安心しろ。たとえ全校生徒が選ばれたとしても、オマエだけはない」
「うわ! それが親友に言う言葉かよ!! ひっでー!!!」
タクミは悔しそうに顔をゆがめる。
<<目的地に到着しました。電車の到着時刻まで、あと7分です>>
アミーダの乾いた音声が脳内で聞こえる。どうやら、くだらない話をしている間に、駅に着いたらしい。
タクミが、アミーダが連動する右手をセンサーにかざし、改札を通る。真人もその後に続く。
そして、灯も同じように改札を通った。
「あれ?」
タクミが、足を止めて、振り返る。
「灯しぃー、今日はアミーダつけてるんだ?」
真人も、その言葉に、はっとして振り返る。今、灯は、アミーダを起動せずに改札に入った。と、いうことは、元々アミーダを起動させていたということだ。いつもアミーダを必要最低限しか使わない灯は、絶対そんなことはしない。
「…………あ、あれ? おかしいな………なんかボーっとして、付けっぱなしにしちゃってたみたい……」
灯の声にはどこか力がない。
「灯しぃーがぼーっとしてるなんて、ちょっと珍しいね。何かあった?」
タクミが目を丸くする。
そういえば、灯は今日、どこかおかしかった。帰り道でも、いつもはタクミのしょうもない冗談をあしらっている灯だったが、今日はずっと後ろで黙っていた。
「…………………ううん。なんでもない。大丈夫」
灯の声が、真人の胸にささる。なんでもないわけではない。本当は、今すぐにでも、謝らなければならない。昨日のこと。水着のこと。助けられなかったこと。今まで謝れなかったこと。
しかし結局、真人は灯に謝れずにいた。
電車の中は空いていて、窓際の横一列の席に真人と灯は座っていた。バイトがあるからと二人の間に座っていたタクミは、途中の駅で降りていった。二人の間に空いた一つの席が、真人には異様に広く感じられた。
気まずい沈黙が二人の間に流れ、ただ電車の車輪の音が静かに響いている。すっかり暗くなった窓の外で、光が流れていく。
謝らなきゃいけない。真人は、そう思いながらも、タイミングが掴めなかった。灯も、黙ってうつむいたまま座っている。
そして、真人の頭の中に出て来るのは、なぜかあの白い少女だった。どうやって謝ろうか考えると、すぐに彼女の小さな影が頭にちらついた。あの時、自分は何を言えば良かったのだろう。どうすればよかったのだろう。謝る言葉より、そっちが先にきてしまうのだった。
<<野辺山、野辺山駅に到着しました>>
アミーダの音声が、謝れぬまま、降りる駅に到着してしまったことを示す。
灯は無言で立ち上がり、電車を降りる。真人もあわてて立ち上がり、降車した。
暗く、寂しい帰り道。通りには真人と灯しかおらず、点滅する街灯がいつも通っているはずの道を不気味に思わせていた。月が、不気味にオレンジ色に光っている。
灯は、黙ってゆっくりと歩いている。その後を真人は追いかけるけように歩く。
謝らないと。
そう考える度に、真人の頭の中で、また白い少女の寂しそうな後ろ姿がちらついた。
『……従うしかない。それが私の、運命ならば』
世界中から命を狙われるという、過酷な運命を受け入れると言った彼女。その彼女に、何も言うことが出来なかった。今、後悔しても、もう彼女はいない。もう、会うこともないだろう。
後悔するくらいなら——。
真人は、ふと足を止めた。
「……あ、灯っ……」
後悔するくらいなら、言わないとだめだ。
真人の声に、灯も足を止める。
「……そ、その……なんだ、ご、ごめんな、昨日は……あんなことしちまって、それで、勝手に帰っちまって……」
真人は、必死に言葉を絞り出した。灯は、まだ前を向いている。
「………………………………いいの。私こそ、ごめん……」
灯は、前を向いたままいった。
「い、いや、でも、悪いのは俺の方だし。ほ、本当にごめんな」
「……いいの。……………………………………それより、ねぇ、真人………………」
灯は、そういって、振り返った。
真人は、灯の顔を見て、驚いた。
恐怖。
彼女の目には、はっきりと、その感情が刻まれていた。瞳孔は開き、歯をがたがたいわせ震えている。
「…………………ねぇ、真人。昨日、キャニオンで、何があったか覚えてる?」
真人の心臓が、一気にしぼむ。今、灯は何を言った——?
「覚えてるって……何言ってんだよ、灯……」
まさか、灯は覚えている……? 昨日、キャニオンで本当は何があったのかを? 記憶の改変。それが、もし不十分だとしたら……?
「…………ごめん。変なこと聞いて。……分かってるの。昨日は、真人と買い物に行って、別れて、その後ちょっとした停電があった。それだけ……それは分かってるの」
灯は、両手を頭に当て、がたがた震えている。
「……そう。その通りだよ。昨日は、ただちょっとした停電があっただけ……」
「でも、違うの!」
灯が、ヒステリックな声を上げる。真人は、こんな灯の声を聞いたことがない。いや、一度だけ聞いたことがある。『あの時』、灯はこんな声で自分の名前を読んでいた。
「昨日私が感じたのは、そんなものじゃなかった! そんな停電なんかよりも、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと!! ………………ずっと、暗くて、寒くて、ひとりぼっちで………怖かった。どうしていいか分からなかったの……。立てなかったの……。そう、まるで『あの時』みたいに………」
灯は、その場にしゃがみこんでしまった。
「変なこと言ってるのは分かってる。………で、でも怖くて…………。また、『あの時』みたいに、ひとりぼっちになっちゃうんじゃないかって……怖いの…………」
涙声になって、しゃがみこんでいる灯を目の前にして、真人は腹の底からは、怒りが沸き上がってきた。
いたずらに人の記憶をいじって、作り上げた平和に何の意味があるっていうんだ。こうやって、一人を不安にさせて、泣かせて、何が平和だ。何がピースキーパーだ。ふざけるな。
そして、あの白い少女。
目の前の灯。そしてあんな小さい少女の人生を犠牲にして、俺はこの世界に生きているのか——。
その怒りは、自分に対して向けられていることにも、真人は気づいていた。
その感情は、真人が決意を固めるのに十分すぎるほどだった。頼られる資格があるとか、ないとか、そんなの関係ない。目の前で、友達が泣いている。それだけで、十分じゃないか。
真人は、心の中で、阪野浦先生に言われた言葉を思い出していた。
「大丈夫。俺が、いつも側にいてやる。どんなことがあっても。必ず」
真人は、灯のそばにしゃがみこみ、しっかりと灯の肩を掴んでいった。
「……………………………………………………ゔん。ありがと…………真人……………」
灯は泣き顔でそういった。
春の夜風はまだ涼しく、月の灯が二人を照らしていた。
真人はまだ知らなかった。決意するのが遅すぎたことに。ほんの数日後、この言葉を守れなかった自分に、怒り、失望していることに——。