第九話「ミルクコーヒー」
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放課後、真人は呼び出された通り、数学研究室のドアの前に立っていた。真人は、その白いドアをじっと見つめた。ごくり、と唾を飲み込む。喉仏が、音を立てて上下した。
阪野浦先生に呼び出されるのは、これが初めてではない。それは別に、真人が日頃から問題を起こしていたわけではない。阪野浦先生は生徒をよく個別に呼び出し、一対一で話すことを常としていたのだ。話の内容は、勉強、進路相談、部活などの真面目な話から、趣味、恋愛などの他愛のないことまで様々だった。
先生は、この手のコミュニケーションには、非常に長けていた。先生の単刀直入な切り口は、最初は何を言われるかとそわそわしていた生徒の不安を打ち消し、すぐに信頼を勝ち取っていた。この定例個別面談は、クラス内では「阪野浦タイム」と呼ばれ、生徒の方から悩みを相談しに行くほど人気のあるものだった。
真人も、自分から面談を申し込んだことはないが、この「阪野浦タイム」が嫌いな訳ではなかった。彼は、先生と話していると、どこか落ち着いていく自分がいるのを知っていた。しかし、今回は状況が違う。
あの白い女の子。コアが無くて、ピースキーパーに追われていて、亡霊のように生きている、緑色の瞳の、小さな女の子。どうしてもその子の姿が、真人の頭から離れなかった。彼女の存在は、知られてはいけない。いや、自分自身も知っているはずがないのだ。それを、僕は、なぜか知っている——。
先生は、昨日キャニオンで本当は何があったのかは知らないはずだ。先生と灯には、少なくとも記憶の改変があったことを確認してあった。もし記憶があったとしても、表向きは警報が鳴って、キャニオンの外に避難しただけにすぎない。あの子のことは、ピースキーパー以外は、自分しか知らないはずだ。
だがしかし、もしも、先生に、彼女のことを聞かれたら——。
真人は、それにどう答えるか、既に自分で決めていた。そう。答えは、もう出ている。
真人は、すうっ、と息を軽く吸い込み、そして吐いた。心の中で、自分の答えを、もう一度反芻する。
真人は、自分の答えに軽くうなずくと、目の前の白いドアを、少し躊躇しながら右手の甲で軽くノックした。もちろん、右手には黒いグローブをつけている。
「失礼します」
そういって、真人はドアを静かに右に引き、研究室の中に一歩踏み出した。研究室の中は、生徒が使うものより二回りほど大きい机が、向かい合わせに二つづつ並べられていた。奥の窓際には、小さなコーヒーメーカーが置いてあり、先生はそこに立っていた。
「おー、ちゃんと来たか。入れ、入れ」
阪野浦先生が、入口の方を振り向いて言った。先生は、上下紫色の、いつものジャージを着ている。右手には、コーヒーサーバーを持ち、左手には、白いコーヒーカップ。
「ほらほら、そんなとこに突っ立ってないで、座った座った」
両手が塞がっている先生は、あご先で椅子を指し示す。
「し、失礼します」
真人はもう一度そういって、手前の方の椅子に座った。
「麻野って、コーヒーは砂糖入れるっけ?」
先生がきく。
「え?」
真人は、少しうわずった声を出す。正直、コーヒーはあまり飲んだことが無い。
「砂糖派? それともミルク派?」
先生がもう一度振り返り、にこりと笑う。先生の黒く短い髪が、少し揺れる。その笑顔に、真人の緊張が少し緩む。
「あ、ミルクでお願いします。砂糖はなしで」
「オッケー。ミルクね」
先生は、そういって棚の下のスペースにあるミニ冷蔵庫から牛乳を取り出し、小さな銀色のミルクサーバーにそれを注いだ。そして、静かに白いコーヒーカップとそのミルクサーバーを、真人の目の前の机に置いた。白いカップの中で、真っ黒いコーヒーが少し揺れた。真人はその白いカップを見て、ふとあの白い少女の姿を思い出す。そして、慌てて頭を振り、そのイメージをかき消した。
「あ、ありがとうございます」
真人はそういって、その銀色のミルクサーバーを持ち上げ、カップの中に注いだ。勢い余って、カップの淵までなみなみ注いでしまう。色が変わったコーヒーが、カップの淵のこぼれそうな所で止まる。
先生は、だまって微笑み、小さい角砂糖を一つつまんで、自分の黒いカップの中に落とした。それをスプーンで数回かき混ぜた後、スプーンをコーヒーサーバーの脇に置いて、こちらに向き直り、真人の向かい側に座った。
「さて、と」
先生はそういって、黒いカップを持ち上げ、コーヒーを少しすすった。真人も、慌てて自分のコーヒーを飲む。少し甘かった。
「さて、麻野、ワタシが回りくどい話は得意じゃないのは、キミも知っていると思う」
先生は、そういって左手で前髪を掻き上げた。真人は黙ったままうなずいた。先生の奇麗な額に、真人は少しドキリとする。
「だから、麻野、キミには遠慮なく、単刀直入に聞こうと思う」
「……はい」
真人は、膝の上で、ぎゅっと両手を握る。手のひらには、じんわりと汗がにじんでいる。コーヒーカップは、机の上で湯気を立てている。
先生は、口元にカップを運び、コーヒーを少しすすった。そして静かに左手の受け皿にカップをのせ、顔を上げた。力強い瞳が、真人をじっと見据える。真人は、その視線に押され、背筋がぴんと張りつめる。 先生が、静かに口を開いた。
「麻野、キミは一体、どこまで知っている?」
来た。
心臓が膨れ上がり、一気にしぼむ。血管が膨らみ、どろどろとした血を体中に送り込む。体温が一気に上昇してゆく。手のひらと脇の下が湿るのが分かる。
落ち着け。真人は自分に言い聞かせた。そうだ。答えは、もう出ている。
「知っているって、何を……ですか?」
そうだ。僕は、何も知らない。僕は、キャニオンで誰にも会わなかった。
真人は、自分の心の中で、自分の出した答えを繰り返す。
例え世界中があの子の敵でも、自分はあの子の味方だ。
先生は、黙ってコーヒーをまた一口飲み、そして静にカップを横の机の上に置いた。
「……麻野。とぼけても無駄だ。今日のお前はどこかおかしい。いつもは自信たっぷりのお前が、今日はどこかおどおどしている。何より、私も昨日あの場にいたんだ。何も知らないでは済まされない」
何もかもお見通し、ってわけか……。
そうだよな。そう簡単にごまかせるはずがない。だがしかし、ここで簡単に折れてしまうわけにはいかない。
「……確かに、ちょとした電気のトラブルはありましたけど、僕は何も……」
ここは、知らないフリを通すしかない。真人の首筋が、きゅっと縮む。先に折れてしまった方が負けだ。
「あんなチンケな停電のことなど話しているわけではない。もっと重要なことだ。……麻野、昨日お前は、キャニオンで一体何を見て、何を聞いたんだ?」
先生の鋭い視線が、真人を捉える。真人は、その椅子の上から動くことができない。コーヒーカップを持つ手が、少し震えている。その手の震えを、真人は必死に抑える。背中が汗をかいている。
「……僕は昨日、ただ買い物に行っただけです。確かに停電騒ぎはありましたけど、それ以外に特に変わったことはありませんでした。僕が何を見たって言うんです?」
真人は、そういってじっと先生を見つめ返した。このまま、先生が視線を外してくれたら、どんなに楽かと思いながら。しかし、先生はさらに強い目線を真人に向ける。
「麻野。私はだてに教師をやっているわけではない。自分の生徒が何かを隠していることくらい分かる」
真人は、何も言い返すことができない。そうなのだ。誰よりも生徒に寄り添い、生徒のことを知っているのが、阪野浦先生だった。先生に、こんなハッタリは通じない。そんなことは分かっている。
でも。
でも、もう決めたのだ。世界中から追われているあの子に。ひとりぼっちのあの子に、俺だけは寄り添ってやるって決めたんだ。真人は、ぐっと奥歯を噛み締める。
でもどうする?
先生にハッタリは通じない。しかし、彼女に出会ったことを認めるわけにはいかない。真人は、必死に脳みそをフル回転させて考えた。考えろ。一番、先生を納得させて、この場を逃れる方法を。何を言えばいい?
どうする? どうする? どうする——?
……ダメだ。見つからない。
真人は、うつむき、目を伏せた。クソっ。一体どうすればいいんだ。
重く鋭い沈黙が、真人の胸を突き刺す。窓から差して来る夕日が眩しく、先生の表情はよく見えない。先生は、黙ってもう一度コーヒーを飲む。そして、もう一度真人を見つめた。
「さぁ、言うんだ麻野! 何も包み隠すこと無く。さぁ!!」
先生が強い口調でいった。真人は、黙って下を見つめている。
「説明してもらおう! 昨日キャニオンで何があったのかを。麻野! お前は鮎川くんの気持ちを、一体どこまで知っている?!」
先生は、そう言い放つと、バンっと手のひらで机を叩いた。先生の置いた、机の上のコーヒーカップが揺れる。
言うしかないのか——。あの子と出会ったことを。しかし、そしたら一体彼女はどうなる——。
待て。
そこまで考えて、真人はふと顔を上げた。
今、先生はなんて言った? 鮎川くんの気持ち……?
もしかして。安堵と同時に嫌な予感が真人の脳裏をかすめる。
「……あの、先生。一体、何の話をしてるんですか?」
「何の話って、そりゃぁお前、鮎川くんとお前の恋路の話に決まってるじゃないか」
先生が、訝しげに眉をひそめる。
「……は?」
真人は、一気に腕から力が抜け、持っていたコーヒーカップを落としそうになった。
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「ははは。悪い悪い。ちょっと話が唐突だったかな。なに、君たちの恋路をもうそ……いや、想像していたら、少し興奮してしまってな」
先生が、大きな笑い声をあげる。真人は、大きなため息をつく。
「……こ、恋路って、べ、別に灯と俺はそんなんじゃ……」
この人は何か大きな勘違いをしていたらしい。
「麻野」
先生の厳しい目線が、また真人に向かう。
「女の子の裸まで見ておいて、その言い草はないんじゃないか?」
「な、な、なんでそれを……」
真人の体中から、さっきとは違う汗が吹き出してくる。
「ふむ。なに、昨日キャニオンを定期巡回していたら、偶然、鮎川くんと会ってな。あまりにも取り乱していたから、少し事情を聞いたんだ」
うぐ。それじゃあ、反論できないじゃないか。真人はがっくりと肩を落とした。
「全く、そんなことまでしておいて、よく『僕が何を見たっていうんです?』なんて、シラを切れたもんだよ」
「ちが……あれは事故で……」
「そんなことは分かってるわ! 今時どこに堂々と人前で女の子の服を脱がそうとする奴がいる?! 犯罪だぞ犯罪」
先生が、さっきより強くテーブルを叩く。コーヒーカップが音を立てて揺れる。
「で、ですよね……」
「大切なのは、事故だったか意図的だったかとか、そういうことじゃない。お前が鮎川くんを困らせてしまったのは、事実。そうだな?」
「は、はい……」
それは確かに、疑いようのない事実だ。ぐうの音も出ないとは、このことだ。
「しかもその上、彼女を放っておいてそのまま帰ってしまうなんて。男として最悪だぞ、お前」
先生の真っすぐな言葉が矢のように真人に突き刺さる。何も言い返せない。真人は、一事のピンチを脱したものの、すぐまた別の危機に晒されていた。
「……まぁ、起こってしまったことをぐだぐだ言ってもしょうがない。当然、あの後謝ったんだよな? 麻野?」
「……そ、それは」
真人は言葉に詰まった。マズい。この展開は……。
「その反応……。お前まさか……」
先生が、目を見開く。
「……まだです」
真人は、ばつが悪そうに先生を見上げる。さっきより、視線を上げるのが辛い。
「麻野ォォ……おまえってやつはなぁぁァァ……」
先生が、静かに立ち上げる。その目はもう一段階大きく見開かれ、首筋の血管が浮かび上がり、耳元は赤くなっている。
ああ。怒ってる。怒ってる時の先生だコレ。
真人は覚悟を決めた。おそらく、さっきの覚悟よりより堅く、そして諦めに近い覚悟を。
「先生はなぁァ、お前がこんなに情けない男だとは思っていなかったぞおぉぉぉォォォ!!!」
そういって、また机の上をバァアンと手のひらで叩いた。今までで一番大きな音が、教室にこだまする。カップの中のコーヒーが上へ飛び上がる。
真人は、恐ろしさのあまり、ぴくりとも身動きすることができなかった。
やばい。アレが来る。
「……分かってんな、麻野」
先生が、どきつい目つきで真人を睨む。この人は、教師になる前はヤクザだったんじゃないかと思えた。
「は、はい……」
真人が、やっとのことで蚊の鳴くような返事をすると、先生は一回大きく息を吸った。
「歯ァ、くいしばれやぁぁぁぁァァァァァァ!!!」
先生の強烈な右手のビンタが、真人の左の頬に飛んできた。掌が、頬にめり込む。
その瞬間、真人の体は右方向にふっとんでいた。
痛い。超痛い。
体が横に飛びながら、真人は思った。
本当は、電話したときに謝ってたんだけどな……。
記憶の改変とは、残酷なものである。