正体
わけがわからない。
あの生き物は何だ?
あの黄色く光る目に、刃物のような爪。
どう考えても普通の人間じゃない。
あれは何だったんだ?
あれは――
ふいに左肩がズキン、と痛んだ。
あの狼もどきに切られたほう方だ。
血は今も少しずつ滲み、引き裂かれたTシャツのそでを濡らしている。
恐る恐る傷口に手を伸ばし、指先で触れてみた。
あまりの痛みにうっと呻く。
掌に目をやると、べったりと赤に染まっていた。
と、その輪郭が歪んだ。
てのひらに生温かい雫が落ちる。
それが涙だと気づいて、あわてて手の甲でぬぐった。
死ぬ、本気でそう思った。恐怖で体が動かなかった…
「助かっ…た」
寒さからか。いや恐怖からだろう、そういった声は震えていた。
――――生きてる。
そう思うと、また涙があふれてきた。
何だみっともない、初対面の人間の前でなんて泣くな!
こみあげてくる嗚咽を抑え込もうとして、無理やり息を吸い込み、大きく吐く。
だけど、なぜ?
俺はあいつの一方的な攻撃になすすべもなく、やられる寸前だったにのに。
そうだ。この男が?
「あんたが助けたくれた、んですか?」
相手は初対面だ。一応、ほとんど使ったことのない片言の敬語で聞いてみる。
が、言いながらあんた呼ばわりしていることにも気付いた。
男はそれを気にする風もなく、
「え?…ああ、あれはきっと僕のじゃなくて君の能力だよ。ぼくはちゃんとコントロールできるし。あ、でも似たような力かもしれないな。それにしてもよく…」
わけのわからないことを話し始める。
「ちょっ、待って俺の…なんだって?」
「『ロイズ』、君がいま使った力のことだよ。僕たちは能力のことをそう呼んでる。いちおう専門用語だから聞き慣れなかったね」
『能力』?
俺が使った?
予想だにしないあまりに突飛な返答に、一瞬、頭の中が真っ白になる。
「おーい、シオンくーん?」
フリーズした俺を心配したのか、男が声を掛けてきた。
「あ、…すいませ、え、でも…能力って?」
当たり前の質問をしたつもりが、男にはその疑問が意外だったらしい。
目を大きくあけ、驚いたような顔をして俺のほうを見た。
「…『能力って?』って、きみは能力者だろう?」
「―――いや。…なんかすいません」
「あっれ―、おっかしいなぁ。シオン、君さぁ、」
「あいッ!?」
急に肩をつかまれた。
あのオオカミもどきに斬られたほうではないが、衝撃で傷に痛みが走る。
「いままで周りでおかしなことが起こったりしたことなかった?物が突然壊れたり、浮いたり、燃えたりしたことは?」
「ない…けど」
「えっ、無いの!?変なものが見えたり、聞こえたりしたことも?」
「ないよッ、それって完全にアブナイ薬やってる人だからッ」
「えーッ、それって…どういうことだろう」
男はことごとく質問を否定され、頭を抱えて悩み始めてしまった。
なんだか不信を通り越して、だんだん気の毒になってきたな。
「無自覚かなぁ。あ、でもこの歳で覚醒は…珍しいけどない事もないし…」
「…話が全然見えないんだけど」
「ああ、ごめんごめん。僕もよくわかんないんだけどわっ!シオン、かか肩が!傷がッ!」
いや、遅いだろ。
「とっ、ととととりあえず…おお落ち着いて…きっ、君の家に行こう!」
「とりあえずお前が落ち着け」
目の前でだれか動揺しまくってると逆に冷静になってくるって本当だな。
斬られたのは俺なのに自分の事みたいにあわて始めた。
「そ、そんなに深くないみたいだけど早く手当てしたほうがいい、家は遠い?」
遠くないけど、こんな怪しい男を連れて帰って、みんなを巻き込んでいいのだろうか。
俺は少しだけ躊躇ったが、男が引く様子は全くないのを見て諦め半分に家の方向を指さした。
「向こうの方、もうちょっと歩いたところに木漏れ日の家ってのがあるんだ、…孤児院の」
「あっ…、あれ?『スズカ』ちゃんと同じ家?」
「そうだけど」
「そうか、なら…、ちょうどいいや。案内してくれる?」
男の顔に一瞬、何かを迷い、痛みをこらえるような表情がよぎった。まるで、何か大切なモノを奪って、そのことを後悔しているような―――罪悪感に満ちているような、そんな顔。
だがそれはすぐに消え、さっきまでの、ヘラリとした表情に戻った。
今のは何だったんだろう。
それに。
いいのだろうか、この男を信じても。
さっきから言っていることは意味がわからないし、おれを襲ったあの狼人間について何か知っているようだし。
悪意がある様には見えないが…。
「わかった」
おれはそう言って帰り道を振り返った。
とたん、全身の力が抜け、崩れるようにアスファルトの上にへたりこんだ。
急に徹夜明けの朝のような疲労が押し寄せてきた。
重ねて吐き気もする。
「シオン!?大丈夫かい?」
驚きと心配が混じった男の声が道に響く。
「ああもう、なんなんだよ、マジで。カンベンしてくれよ…」
「やっぱり力を使ったから体力を消耗したんだ。ほら、肩を貸すから、行こう」
肩を借りて歩くなんてみっともないと思ったが、足に力が入らない。仕方がないので差し出された手を握り返すと、こんな細い腕のどこにそんな力があるのかと思う程に、ヒョイッと軽やかに引き上げられた。
男が俺の腕を首に引っ掛け、担ぐように引きずる。俺は遠慮気味に肩を借りると、もうすっかり暗くなってしまった帰り道を、男と二人で歩いていった。
***
つめたく澄んだ空に、月が白く輝いている。今が春の初めなのにも関わらず、日も落ちて風の冷たさが服を通して肌を撫でる。はぁ、と息を吐けば白い息が漂い、消えた。
こんなに遅くなったんだ。李欄は怒るだろうな。
俺が肩を借りている謎の男はと言えば、ここは小さな町だね、とか、でも僕はこういう田舎のほうがホントは好きなんだよね、とかあんな事があった後なのによくもと思うくらいしゃべり続けている。
そういえば、俺はまだこいつの名前を知らないな。
「やっぱり星がすごく綺麗だ。都会だと街の明かりでかすんじゃうんだよね、こんなきれいな星は街じゃ見れないよ――・・」
男はグッ、と黒に近い深い青に染まった空を見上げ、銀砂をまいたような輝く星々を見つめて目をキラキラさせて喜んでいる。まるで子供だ。
「ふーん、星、好きなんだ?」
「好きなんだ!とくに詳しいわけじゃないんだけどさあ―――・・」
星か。
まだ俺も鈴歌も小さかったころに、みんなで星を見たことがあった。
特別何かある日ではなかったが、瑛が「今日は空がすごくきれいだから」と言いだしたのがきっかけで、みんなで屋根の上に寝そべって、李欄が持ってきてくれた毛布にくるまりながら空を眺めのだ。
秋の終わりのことでさすがに寒かったが、あまりの星の輝きの多さとその明るさに息をのんだ。
「わぁー、きれい!すごいねえ、シオン!」
鈴歌がはしゃぐ。
「うん、きれい。」
答えた声はかすれていた。
ひとつひとつの星があんまり大きく光って見えて、無意識に手を星空に伸ばしていた。
口から洩れる息が白いまま流れていったのも、つめたく冷えた手を、瑛が大きな手で温めてくれたのも、ぼんやりと覚えている。
風が木を揺らして吹く音と、まだ少し残っていたきれいに鳴く虫の小さい声がときどき聞こえるだけで、あとは不思議なくらい静かだった。
きっとあのころからだ。
胸を刺すような痛みが少しずつ、柔らかい温かさに変わっていったのも。
心を蝕む、真っ暗闇に独り残されたような孤独感が―――――・・
「――――シオン?次はどっちに曲がればいい?」
男の声でハッと我に返る。
いつの間にか、家のすぐ近くまで来ていたようだ。
星、か。
「あ、うん。ここを右に曲がったらすぐだよ」
角を曲がると、木漏れ日の家にはオレンジ色の外灯がついていた。
なんでか、ひどくほっとする。
「ここがシオンの――?」
「ああ、俺の家」
「ほお―、かわいい家だねぇ?」
「はあ、孤児院にしちゃちいせぇってか?」
「えっ、いやっ、そんなつもりじゃ」
「ふーん?」
違うってばぁ、と続ける男を無視して借りていた肩を返すと、玄関のノブをつかんで前に押した。
――リリーン・・
ドアを開けると鈴の音が響いた。
この家には「家に鍵を掛ける」という概念がない。町の人間を信用しきっているからだ。
事実、瑛と李欄は周りから慕われているし、町の人は俺たち家の子どもにも優しい。木漏れ日の家に、近所の子供を一時預かるのもしょっちゅうだ。
もし泥棒が入ってもあの二人なら、あったかい飯をやって、話して聞かせてそいつを改心させてしまうだろう。
今まではそれでもよかったけど、あんな生き物が近くをうろついてるんだ。
これからは用心しないと。
ダダダッ、と慌ただしい音がして俺の思考は途切れた。
「シオンっ?」
ほとんど泣き声の様に自分を呼ぶ声がしたほうを見ると、目を真っ赤に泣き腫らした李欄と、怒ったような顔をした鈴歌がいた。
「あッ、いやこれはちょっと理由がッ、うわッ」
俺が言いかけた説明は李欄が泣きそうになりながら抱きついてきたため強制終了させられる。
「よか、た、あたし、何かあっ、あったんじゃ、ないかって」
李欄は辛うじてそう言ったが、そのあとは声にならずに泣き出してしまった。
「ほら、大丈夫だって言ったでしょ?李欄は心配しすぎだよ」
鈴歌がなだめるように言う。
それでもまだ俺の右肩に額を押しつけて泣いている李欄を慰めようと、背中をポンポン、と優しくたたく。
「全く、こんな時間まで何やってたの?」
責めてるんだろう、鈴歌の口調が鋭い。
「や、だから大変だったんだって」
「心配したんだから、連絡くらいしなよ」
「そうだよシオン、みんな心配してたんだから」
そう言いながら瑛が部屋から出てきた。
それから少し落ち着いてきた李欄に目をやり、俺の左肩を見てはっと目を見開く。
「シオン?怪我してるじゃないか!」
「あ、いやこれは」
「えっ、ウソ、…何で早く言わないのッ」
鈴歌も服に滲む血に気付いて、今度はほんとに心配そうに言う。
「ホントに何があったんだい?」
瑛が眉をひそめて聞いてくる。
「あ、あの…シオンくーん?」
瑛、李欄、鈴歌の三人の視線が、俺の後ろから聞こえた聞き慣れない声の方に送られるのが分かった。
ああ、そういえば忘れていた。
「あ、今晩は。何かご用でしょうか」
「ああ、いやどうも」
いかにも微妙なタイミングで現れた(いや、ずっとそこには居たのだが)怪しい男に、瑛は素速く対処した。
「ちょっと、シオン。誰、あの人」
鈴歌が不安そうに耳打ちをしてきた。
「いや、俺にもよくわかんねぇ。なんか助けてもらったっぽいんだけど?」
「なんか怪しくない?」
「や、俺もそう思ったけどさ…」
やはり面倒の種を連れてきてしまったか、と少し後悔する。
と、今の会話が聞こえていたのか、男が口を挟んできた。
「ちょっ、シオンくんッ、それはちょっとヒドくない!?皆さんに僕のこと紹介してくれてもいいじゃないかぁ」
紹介って、
「え、でも名前言われてないよ俺」
三人は俺と男が知り合いだと思っていたのだろう。「え?」と思っているのが丸わかりな表情で、一斉にこっちを見る。(謎の男もだ)そしてその表情のまま、また一斉に男の方ほ振り返る。
男はきょとん、としていたが、徐々に違和感に気付き始め、眉根がよる。
「・・・あっ」
今のは何か重大なミスに気付いた時の声だ。男の顔が見る間に青ざめていく。
「しまったッ!名乗ってないじゃないか!?」
今頃かよ。
「うわああああ、怪しい、すごい怪しい恥ずかしい!ありえない、ありえないよ僕!」
相当ショックだったようだ。突然の大声に唖然としている俺たちをよそに、いい大人が一人で大騒ぎを始めてしまった。
ああ、もう気の毒過ぎて見ていられない。
が、さすが瑛。だてに毎日双子や近所のやんちゃたちを相手にしているわけではなかった。
あわてふためく二十代(仮)を前にしてその場にいた全員が硬直する中、いち早くたちなおり、
「と、とりあえず落ち着きましょう?時間も遅いですし、それに子どもたちが奥の部屋で寝ていて。起こしてしまってはかわいそうです」
冷静だ。
男はそれを聞いた途端、ばッ、と両手で口をふさぐ。
そしてやけにゆっくり口から手を離すと、
「・・・すいません」
と息だけで謝った。
「いいえ、よくあることです」
瑛がにっこり笑って言う。
反射的に「いや、めったにないだろッ!?」という言葉が喉まで出かかった。
だが、言えば話がさらに面倒になるのは目に見えていたので、ありったけの自制心をかき集めてそれを飲み込み、そのかわりに半ば呆れ口調で、
「で、結局あんたは誰なんですか」
と聞いた。
男はばつが悪いのか、ゴホン、と一回咳払いをすると、服装と姿勢をただし、まっすぐ前を見て落ち着いた口調で答えた。
「いやあ、すごく申し遅れました。僕は青少年能力者保護養成所の者で、ここの鈴歌さんを迎えに来ました、リオというものです」
この答えが、俺の運命をどれほど大きく変えるかなど、このときは露ほどにも考えていなかった。