獣
夕焼けに照らされ、茜色に染まった田舎町に男はあらわれた。
デニムのパンツにグレイのパーカと言うラフないでたちで、フードを目深にかぶり、片手には、今では博物館か資料データでしか見かけなくなった植物性繊維紙の地図を持っていた。
男はうつむくようにして地図を見つめながら、規則正しい歩調で歩みを進める。その後ろを、長くのびた影が滑るようについて行く。
通りに人気はほとんどなく、男の歩く足音だけがアスファルトに響いた。
もう春先だというのにマフラーや手袋が恋しくなるような冷たい風が吹きつける。はいた息が白く漂い、風の中に消えた。
ふと、足音がやんだ。
男が地図から目をはなし、顔をあげる。
「ははっ、まさかこんな所にいたとはねぇ」
男は口の端をあげ、怪しく笑った。
***
すっかり遅くなってしまった。
まともな店のある隣町まで行って買い物を済ませ、重い鞄を手に帰ってくると、もうあたりは茜色に染まっていた。
普通なら今頃は帰宅ラッシュの時間帯で、学生や仕事帰りの大人たちで混雑していてもいいのだが、人の少ないこの町に学校や大勢が通うほどの会社があるはずもなく、通りを歩いているのは俺一人だった。
俺と鈴歌、それに6歳になる夜海と海月は学校には通っていない。
学校は一番近くても街三つ離れた都会にしかない。通えないこともないが、朝が早いので面倒だし、瑛と李欄が「子供だけで都会に通わせるのは危険だ」と言っているからだ。
双子はともかく俺や鈴歌は大丈夫だろ?心配性の親を持つと大変だ。
まあ二人とも教育を受けさせない気はこれっぽっちもないので、都会の学校と同じ学習データで勉強はしている。
ただ、直接会って話せるような友だちはほとんどいない。
寂しいと思ったことは無い。
木漏れ日の家の瑛と李欄、俺と鈴歌と双子はほんとの家族みたいなもんだし、今は指一本動かすだけで地球の裏側の人間とも、月で暮らすやつとも画面越しに顔を合わせて話ができる。
寂しいと思ったことは、
ただ、隣にいて、普通に話したり、笑ったり、肩を抱き合ったりするやつが居るっていうのはどんな感じだろうと、考えることはある。
それにしても、寒い。
もう春と思ってわりと薄着で出てきたが、冷たい風がどんどん体温をかっさらっていく。
腹も減ったし。とりあえず早く帰っ
グルルルルルル
え?
ヒュウッと、冷たい風が俺の体を通り抜ける。体の中がスッと冷たくなった。
ゾクリ
背筋に寒気が走る。
今まで感じたことのない、嫌な悪寒。
寒さからではない。何か、違う。
グルルル…
肌をさす冷たい風と共に、低いうなり声が響く。
心臓が、ギクリ、と飛び上がった気がした。
頭の奥の冷静な部分が早く逃げろと叫ぶ。危険だ、はやく、はやく逃げろと。
その通りにすればよかったのだ。
が、得体のしれない物は正体を確かめたいと思ってしまうのが人間の悲しい性。
無意識の好奇心に負けた俺はゆっくりと後ろを振り返った。
これは――――・・ケモノ・・・?
そこには、黒っぽいかたまりと、二つの黄色く光る眼があった。
細長い手足に、少し長くのびた髪。
四つん這いになってうなり声を上げる「それ」は、一見すると普通の人間のようだ。
だが、はいているズボンはズタズタで、足は裸足だ。細いが筋肉質の腕と脚、上半身には黒っぽく汚れた包帯がぐるぐる巻きにまかれている。
黒? 違う! これは・・・
血の色
「それ」は俺に目線を向けたまま、一歩こちらに踏み出した。
そのせいか、「それ」の顔に巻かれていた包帯がハラリ、と解けた。
現れたのは―――
「狼…か?」
声がかすれている。口の中はカラカラになっていた。
ほどけた包帯の奥に見える「それ」の顔は、黒い毛に覆われていた。
低いうなり声に、黄色く光る鋭い目。狼のように黒い毛におおわれた顔。明らかに普通の人間のモノじゃない。
目の前の狼もどきの喉の奥からまたうなり声が響いた。
乱れた髪の下から覗く黄色い瞳が、じっと俺を睨む。
風が強く吹いて、解けた顔の包帯をさらにほどく。狼人間の顔はもうだいぶ見えるようになった。
包帯の奥からみえる黒い毛は、肌全てを覆っているわけではないようだ。中途半端に右の顔半分だけが覆われている。狼になりかけている、と言うことなのだろうか。
ギリギリと食いしばる『それ』の牙は、ナイフよりも鋭く光っていた。
長らく止まっていると、『それ』は口を開いた。
「シネ、ニンゲン」
ザリッ、とアスファルトの地面をけり出し、跳んだ――――――――のと同時に、左肩が熱くなった。咄嗟に右手で肩を押さえるとジクリ、と痛みが走った。手にぬるりとした感触がある。
見なくてもわかる、俺の血だ。俺は斬られたんだろうか。
気がつくと、目の前にいた狼もどきは俺の後ろに立っている。移動するのが見えなかった。
「ウソ・・だろ?」
『それ』の爪は鋭く尖っていて、その爪には俺の血と思われる液体が伝わっては、重力に耐えられずに落ち、地面を紅く染めていた。
逃げないと・・・。
そう思うのに、足が言うことを聞かない。
心臓が痛いほど鳴っている。
逃げないと、俺は――――・・死ぬ。
―――――――気をつけて。
李欄の声が頭に響いた。
家に出る前に、俺が聞いた言葉。どうでもいい言葉だと、聞き流した。
どうでもよくなんか、なかったのに。
嫌だ、
怖い。
死にたくない、死にたくない!!!
だが、そんな願いが通じるわけもなく、狼人間は喉の奥から威嚇するような声を上げると、けりをつけようと俺に跳びかかってきた。
「ーーーッ!!!」
――――――――・・生きたい
・・・真っ暗だ。
なにも見えない。
死んだのか?俺は・・・
死んだ―――・・?
にしては、左肩がまだ痛む。
恐る恐る瞼を持ちあげてみた。
俺の目の前にあったのは、顔をかばうようにしてあげられた二本の腕と、その間から見えるギラリと光る二つの黄色い目玉だった。
「うわッ!!なッ!」
攻撃を受けると思った俺は、腰ぬけみたいにしりもちをついて、そのまま後ろに下がった。
…が、相手に動く気配はない。
それどころか、『それ』は宙に浮いたまま微動だにしていない。
牙をむき出し、俺ののどを咬み裂こうとしてそのまま固まったような感じだ。
「なんだ、これ・・なにが起こって―――・・」
出ない声を必死に絞り出すと、視界に人影が入った。
グレイのパーカのポケットに植物性繊維紙の地図を無造作に突っ込んで、明るい栗色の髪を後ろで縛った大人の男。後ろ姿だから詳しくはわからないが。
その男が視界に入ったと言うことは、『それ』と俺の間に割り込んだと言うことだ。
「ちょッ・・誰・・?」
「さて、僕もキミの名前が知りたいな。同業ってことで、仲良くしたいし?」
「どう、ぎょう?」
「キミが『スズカ』かな?ぼくはてっきり女の子かと思ってたんだけど・・」
「鈴歌ッ!?お前鈴歌の知り合いか!?」
突然現れた男の口から、俺の身近な人物の名が出ることに驚いた。
男は俺の動揺した言葉に返事を返そうともせず、俺に背を向けたまま言った。
「あぁ、やっぱりちがうよねぇ。あれ?二人もいるなんて言われなかったけどなぁ…。じゃあキミの名前は?」
「え?あ。シ、オン」
何なんだこいつ。まだ背中しか見ていないうえに、鈴歌の名前まで出した。こいつがどこかの悪徳事業の人間だったらどうしよう、と考えていると、男は言った。
「じゃ、シオンくん。そろそろ能力を解いてあげて」
「ロイズ?」
聞き慣れない言葉に、首を傾げ聞き返す。
男は「あ、そっか。」と何かに納得するとこちらに向き直り、座り込んでいる俺の前にしゃがむと、俺の顔を覗き込んで手を取った。
「なっ、ちょッ、・・何!?」
「大丈夫、落ち着いてゆっくり目を閉じるんだ」
「はい?」
「体の力を抜いたら深呼吸して?リラックスすれば、自然と解けるはずだから。」
こいついよいよ怪しくなってきたぞ。
「あんた何言って――!?」
「いいから!早くしないと体力を消耗しすぎる」
「…わかったよ。とりあえず手ぇ放して」
仕方ない。言うことを聞かないとすまなそうだ。
冷たいアスファルトの地面に座ったまま、目を閉じ深呼吸を始める。
また真っ暗だ。
だが、ひとつ息をつくごとに少しずつ落ち着いてきた。
早鐘を打つようだった心臓の鼓動も、徐々に穏やかになる。
再びゆっくりと目をあけて、止まったままの狼もどきに目をやった。
途端、それは動いた。
体勢を崩して地面に落ち、「ぐッ」と息を詰まらせる。
「うわっ!?」
突然の事に声を上げてしまった。
狼もどきは俺の発した声に反応し、すばやく起き上がりこちらを睨んだ。再び、体中を恐怖が駆け抜ける。
が、突然現れた男を一瞥すると、形勢は不利と判断したのか、後ずさりをしてそのまま風のように走り去って行った。
あとには俺と突然現れた怪しい男とだけが、冷たい風の中、走り去る獣の後ろ姿を見送っていた。