ハジマリ
2XXX年
大都会の片隅の、真っ暗な路地裏で、野良ネコは大きなあくびをした。
街の中心の大通りはネオンやライトに照らされ、真昼のように明るく輝いているのに、その華やかで騒がしい雰囲気とは裏腹に、暗く、濁った水溜りのような空気が流れている。
じめじめとして薄汚いが、ぼろきれの上でまどろむ野良ネコには、この路地裏は、絶好のすみかだった。
その心地よい静けさを突然、走る様な足音と、荒く乱れた呼吸が遮った。
ネコはその黄色く光る眼を見開き、背中の毛を逆立出せてうなり声をあげた。群れていたネズミたちは驚き、キーキーとわめきながら散り散りになって逃げ去って行く。
雲間からこぼれた月明かりの中にあらわれたのは、異様にやせ細り、その体に不釣り合いなくらい大きなトレーナーを着た、今にも倒れそうな少年だった。
「一人逃げたぞ!!」
「ローグめ、手間取らせやがって!」
「逃がすな!探せ!」
「ガキでも油断するなよ、やつら何をするかわからねぇからな!!」
遠くから男達の怒鳴り声が響く。
立ち止っていた少年は、ハッと彼らの声を振り返ると、またその細い足を踏み出し、走りだした。
―――数時間後、暗い夜の道を走りぬけてスラム街の外れまで来た彼は、冷え切ったコンクリートの建物の壁に背中を預け、そのまま座りこんだ。
――――――なぜ
痛い、暗い、怖い、寒い、
――――――何故
嫌だ、冷たい、独り、独り、独り―――――‐!!!
どうしてだ!!
ローグの仲間が死んだ。あいつらが殺したっっ! !
どうして!!
俺が、俺たちが何をした!!
もう嫌だ! またこんな―――!!
もう、赦してくれ ――・・・
喉が締め付けられるように痛い。
手足は凍えるくらい冷たいのに、目だけは熱の塊のように熱かった。
膝を抱えてうつむくと、いつの間にか黒い雲に覆われていた空は雨を降らせ始めた。雨はやがて、ザァ―――と音を立てて、彼のまだ小さく、痩せた肩を容赦なくたたいた。
冷たい雨の中、彼は自分の頬を伝う涙に気付かなかった。
―――――――――どうして
***
「どうして俺が皿洗いなんかやんなきゃいけないんだよ!」
俺はうめいた。最悪だ。
なぜこんな悲劇が起こっているかと言うと、
「あんたがいつまでたっても起きないからでしょ、シオン」
・・・そう、そのとーり。
それがここ、木漏れ日の家のルールだ。
木漏れ日の家と言うのは、親のいない子どもたちの家。つまり孤児院。
木漏れ日の家には、三十幾つの若さで院長をやっている、瑛の作ったルールがいくつかあり、そのうちの一つが【朝食の皿洗いは一番最後に起きてきたものがやるべし】、だ。
そのおかげで俺は数十枚の食器を洗うはめになっているわけだ。
「そんなのちびたちのほうが早いに決まってんだろ、俺には読みたい漫画も見たいテレビもあるんだって!」
不満が口をついて出る。
「はいはい、ぐだぐだ言ってないで、さっさとやっちゃいなさいよ。手伝ってあげてるんだから」
そういって不満をつっかえしてきたこいつは同い年の鈴歌。
こいつもこの家の住人だが、両親は健在で、十数年ほど前に月に新しく出来た未来型都市で働き、暮らしている。
木漏れ日の家では俺達が最年長で、鈴歌はこの夏、俺は冬に十六になる。
「ほら、もうあたし半分以上洗い終わったんだけど」
「おー、その調子だ、ファイトっ」
「シオン!!!」
「ジョーダンだって、おぉこわっ」
そう言ってTシャツのそでをまくり上げ、水と泡の中に手を突っ込む。
「あー、めんどくさ。だいたいなんでいちいち料理なんか作るんだ?インスタントかチューブ食にすればいいじゃねーか」
――――前にもそう瑛に文句を言ったことがあったが、あっさり断られた
瑛に言わせると、「ぼくのかわいい子供達にチューブなんて気味の悪いもの、食べさせるわけないじゃないか」だそうだ。
「いいじゃない、だいたいシオンはチューブ食なんて食べたことないでしょ。絶対料理したほうがおいしいって。食べる時も楽しいし」
「わざわざ料理して食うのなんて、此処ぐらいだと思うけどな」
瑛と奥さんの李欄はナチュラリストで、家の裏庭で小麦や野菜を作り、それが毎日テーブルに並べられる。ここは超が着くくらいのド田舎で、土や野菜の苗でも手に入るのだ。
それに李欄は料理上手で、今まで出されたものに文句が出たことは一度もない。
「あたしは李欄の作ったご飯のほうがいい―」
「あたしも李欄のご飯がおいしー」
いつの間にか部屋と会話に入っていたのは、双子の夜海と海月だった。
「鈴歌ねえ、はやく遊ぼーよー」
「またお菓子作ってー」
「くまさんも直して―」
鈴歌に駆け寄ってせがむ。
「あれ、お前って菓子なんか作れたっけ?」
「つくれるよー」
答えたのは双子だ。
「李欄がせんせいでね、クッキーとマフィンとパウンドケーキと・・・」
「チーズケーキとシュークリームとブラウニーとプリン!ごはんも作れるよ!」
「えっ、そうなの?」
初耳だ。
「まあ、ここ2,3年は毎朝。李欄と一緒にだけど」
「へえ、すっごいじゃん。知らなかった」
「鈴歌ねえ、遊ぼ―?」
「うん、じゃあシオンのお皿洗いが終わったらね?」
「ええー」
「はーくしろよぉ、皿洗いのシオン」
なんだ!?この温度差は!
「うるせー!人を雑用係みたいに呼ぶんじゃ―――いっっ!? あ? あぁ――」
右手のひらに鋭い痛みが走る。食器の中にナイフが紛れていたのだろう。瞬間、カッと熱くなり、切ったところに心臓の鼓動を感じる。
「手!手ぇ切った!!」
「うっそ!?早く見せて!」
切った右手を引かれる。
「痛っ、痛いって!」
冷たい手だ。冷たくて細い指。痛みも引いて行くような―――・・
「ん?何でもないじゃない」
―――・・・え?
「待てよ、そんなはず・・・あ?」
鈴歌の手をほどき、手のひらを凝視する。
ほんとうだ。傷も痛みもない。
「えっ、えぇ――?」
「もう、びっくりさせないでよ」
ため息交じりに鈴歌が言う。
「鈴ねえ、あたし今日はプリンがいいー!」
「くまさんも直して―」
「あぁー、じゃあ後お願いね、シオン」
「おう、わかった・・」
鈴歌が連れ去られた後、ふと床を見下ろすと、赤い色の雫が落ちていた。
しゃがみこんで指でこすると、ぬるりと滑る。
指先に着いた赤を見つめる。
おかしい。
「切ったと思ったんだけどなぁ・・・」