聞くに耐えない自己肯定感
大西巨人『神聖喜劇』の中でこんなエピソードを読んだ覚えがある。
主人公は徴兵された二等兵で、そこで剣術の調練を受ける。教官は「竹刀を水平に持て」と言う。主人公はその言葉のとおり水平に持とうとするのだが、それがなかなか難しい。すると教官が飛んできて、「おまえは何をやっているんだ? 水平に持てと言っているだろう」そう言って木刀で力一杯尻を叩く。仕方がないからなんとか水平に持とうとするのだが、何度繰り返しても水平にならない。何度も尻を叩かれる。
繰り返すうちに叱られているのは自分だけだということに気が付く。それでは、周りの兵隊はどうやっているのだろう。そう考えて周囲を観察して驚いた。周囲の兵隊は竹刀の剣先が眼の高さになるように持っていて、水平に持っている兵隊など一人もいなかった。剣先が目の高さになるように持つことをこの教官は「水平に持つ」と呼んでいたのである。それは言葉使いの間違いである。しかし間違いであろうと何であろうと教官はそう呼んでいて、周りのみんなも分かっていたのである。
ある短期大学の教官の言葉を聞いた。「大学の目的は、他人の考えに左右されずに自分の考えで行動できる自立した人間を育てること」で、その目的のために学生は「たくさん本を読んで学ぶことが重要なのだ」と言う。
「学ぶ」という言葉と「真似る」という言葉は語源が同じなのだと聞いたことがある。語源が同じというわけではなくても密接な関係にある言葉なのだろう。
「学ぶ」ということは、偉大な先人(どうして偉大なのか分からないが‥)の知恵を真似ることである。それは重要なことだが、そうは言っても「先人」は「他人」に過ぎないから、いくら学んだところで、結局のところ、先人、つまり他人の考えを真似しているのに過ぎず、「他人の考えに左右されずに自分で考え」ることとは違うだろう。
長いサラリーマン生活の間、わたしは特許の仕事に携わってきた。いつの間にか周囲から信頼されて、まるでわたしが特許判断を間違えることがないように見られることがあった。そんなわたしだって「間違えることがあるはずだ」と反発した若手がいる。
その通りである。わたしも間違えることがある。しかしこの仕事で「間違える」とはどういう意味なのか。わたしは常に判決例や学者の論文を学び、それを真似て判断してきた。自分の頭で考えたことはない。自分で考えるのは学者や研究者だけである。わたしは実務家だから自分で考えることはない(法律の実務家が自分で考えてはいけない。そんな法律家は誰にも信用されない)。ただ真似ているだけのわたしが「間違える」というのはどういうことなのか。あの若手は、わたしが自分では考えていないことを知らなかったのだろう。そんなことも分からない彼は法律家失格である。
わたしは昭和30年代の判決例から現役最後の日まで50年以上の判決例に目を通してきた。手に入る論文や論説も可能な限り読んできた。そうやって偉大な先人の教えを学び、真似てきたのだが、そんなふうに来る日も来る日も本を読んで真似ることを「他人の考えに左右されことなく自分で考える」とか「自立している」とかいう言葉で呼ぶ人がいるらしい。言葉使いが間違っていると思う。「自分で考える」のは、先人の教えを学んで学び尽くしたその果てにあるのかも知れないが、それでも「先人の考えに左右されない」わけではない。ニュートンが言った通り、誰よりも遠くを見ることができるのは「巨人たちの背中に乗ったから」だろう。「他人の考えに左右されずに自分で考える」ことはカッコいいがリスキーである。大抵の場合には「独自の考えは持たずに、評価の定まった優れた先人を学び真似る」ことの方が大切である。周りの信用も得られると思うし、安全でもある。




