君に触れる
八月の空は、どこまでも青かった。
でも、なぜか少しだけ焦っていた。
理由は分からない。
ただ、夏が減っていく音がする。
海へ向かうと、夏海は防波堤に座っていた。
今日は髪を下ろしている。
風が吹くたび、黒い髪が揺れる。
「どうしたの」
「なにが」
「顔、ちょっと真剣」
「暑いだけ」
嘘だ。
その日は、町のはずれまで歩いた。
人の少ない、少しだけ静かな浜辺。
波の音が、近い。
「競争しよ」
夏海が急に言う。
「なにを」
「向こうの岩まで」
言い終わる前に、走り出す。
「ずるい!」
追いかける。
白いワンピースが、光の中を駆ける。
転びそうになって、
笑いながらバランスを取る。
大人びた顔もするのに、
走り方は子どもみたいだ。
岩に先に着いたのは、夏海だった。
「勝ち」
息を切らしている。
僕も、隣に座る。
距離が近い。
肩が触れそうになる。
「ねえ湊」
「なに」
「この夏、楽しい?」
「……うん」
「ほんと?」
「ほんと」
少し沈黙。
波が、足元を洗う。
そのとき、風が強く吹いた。
夏海の帽子が飛ぶ。
「あっ」
反射的に手を伸ばす。
帽子をつかむ。
そのまま、彼女の手もつかむ。
ぐっと引き寄せる。
距離が、一瞬で縮まる。
目が、合う。
近い。
潮の匂い。
風の音。
白い布が揺れる。
胸が、苦しい。
これが何か、もう分かってしまった。
「……ありがと」
夏海が小さく言う。
その声が、いつもよりやわらかい。
「湊」
「ん」
「焼けたね」
僕の頬に、指が触れる。
冷たい。
でも、その冷たさが愛しいと思った。
その瞬間、はっきり思った。
ああ、僕は——
言わない。
言えない。
でも、もう戻れない。
「どうしたの」
夏海がのぞき込む。
少しだけ大人っぽい目。
でも、どこか不安そう。
「……なんでもない」
そう言うしかなかった。
帰り道、並んで歩く。
影が伸びる。
僕は、わざと彼女の手を握った。
夏海は、少し驚いて、それから笑った。
握り返す。
その温度を、忘れたくないと思った。
そのとき、僕は完全に好きになった。
たぶん、もうずっと前から。
でも、この瞬間に、認めてしまった。
夏が終わるなんて、考えたくなかった。
ただ、明日も隣にいてほしいと、強く思った。




