きみは、夏の匂いがした
八月三十一日。
空は、信じられないくらい青かった。
終わる日なのに、
どうしてこんなに綺麗なんだろうと思った。
出会った場所へ行く。
あの日と同じ、防波堤。
潮の匂いが、強い。
夏海は、もうそこにいた。
白いワンピース。
風に揺れる黒い髪。
「遅い」
いつも通りの声。
「……うん」
隣に立つ。
少しだけ距離が近い。
「今日で終わりだね」
あっさり言う。
笑っている。
胸が、ぎゅっと潰れる。
「終わらない」
子どもみたいに言う。
夏海は、少しだけ目を細めた。
「湊は、優しいね」
「優しくない」
「ううん、優しい」
風が吹く。
白い布が、ひらりと揺れる。
「ねえ」
「なに」
「わたしに会えて、後悔してる?」
そんなこと、あるわけない。
「してない」
「ほんと?」
「ほんと」
即答だった。
夏海は、ほっとしたように笑う。
その笑顔は、少しだけ子どもみたいだった。
「よかった」
少し沈黙。
波の音だけがする。
「湊」
「ん」
「大きくなったらさ」
そこで言葉を切る。
言い直すみたいに、首を振る。
「……なんでもない」
僕は分かってしまう。
未来の話は、できない。
突然、夏海が両手を広げる。
「ぎゅってして」
息が止まる。
「え」
「最後だから」
子どもみたいに笑う。
でも目は、少しだけ赤い。
ゆっくり近づく。
抱きしめる。
細い。
軽い。
ひんやりしている。
でも、確かにいる。
潮の匂い。
髪の匂い。
夏の匂い。
「湊」
胸の中で、声がする。
「好きって言わなくていいよ」
心臓が止まる。
「顔に、全部書いてある」
泣きそうな声なのに、笑っている。
「そのままでいて」
腕に、少しだけ力が入る。
僕も、離さない。
やがて、夏海がそっと離れる。
「振り向いちゃだめだよ」
「なんで」
「ずるいから」
意味が分からない。
でも、彼女はもう少し後ろへ下がっている。
「湊」
名前を呼ぶ。
あの日みたいに。
「会えてよかった」
夕日が、海に溶ける。
「ばいばい」
笑顔。
いちばん綺麗な笑顔。
怖くなって、思わず叫ぶ。
「待てよ!」
一歩、踏み出す。
そして——
振り向く。
そこには、誰もいなかった。
白いワンピースも。
黒い髪も。
笑い声も。
何も。
ただ、潮の匂いだけが残っていた。
出会った日の匂いと、同じ。
膝から崩れ落ちる。
声が出ない。
泣いているのかどうかも分からない。
でも、胸の奥に確かに残っている。
ひんやりした手。
ラムネの音。
白いワンピース。
僕は、言わなかった。
最後まで、言わなかった。
それでよかったんだと思う。
夏が終わる。
蝉の声が、止む。
潮の匂いが、少しだけやわらいだ。
きみは、
夏の匂いがした。




