始まりの潮風
あの夏のことを、僕はまだ忘れていない。
小学六年生、最後の夏休み。
両親は仕事で忙しくて、僕はじいちゃんとばあちゃんの家に預けられた。
海のすぐ近くの、小さな町だった。
朝は蝉の声で目が覚める。
台所から味噌汁の匂いと、ばあちゃんの声。
「みなちゃん、顔洗ってきなさい」
縁側に出ると、風鈴がちりんと鳴った。
じいちゃんは麦わら帽子をかぶって、畑へ行くところだった。
「坊、海行くなら帽子かぶれよ」
「うん」
やることは、特になかった。
都会より静かで、友達もいない。
時間だけが、ゆっくり流れていた。
昼前、僕は坂道を下って海へ向かった。
潮の匂いが、だんだん濃くなる。
防波堤の上に、人が立っていた。
白いワンピース。
肩が少し出ていて、風を受けるたびに裾が揺れる。
麦わら帽子を押さえながら、海を見ていた。
同い年には見えなかった。
僕より、少しだけ背が高い。
横顔がきれいで、どこか大人びている。
僕が近づくと、その人はゆっくり振り向いた。
「ねえ」
声は、思っていたよりやわらかかった。
「きみ、ここ初めて?」
「……ううん。毎年来てる」
「そっか」
彼女は笑った。
その瞬間、急に子どもみたいな顔になる。
少しだけ、安心した。
「名前は?」
「水野、湊」
「みなと?」
「うん」
「いい名前」
どうしてか分からないけど、胸の奥が少し熱くなった。
僕も聞き返す。
「……そっちは?」
彼女は、ほんの少し困ったように首をかしげた。
「名前?」
波が、静かに寄せては返す。
彼女は海を見た。
それから、楽しそうに笑う。
「……夏海でいいよ」
「でいいよ?」
「うん。今、海が見えたから」
冗談みたいなのに、嘘には聞こえなかった。
その日、僕たちは並んで海を見た。
風が吹くたび、白いワンピースが揺れる。
潮の匂いが、すぐそばにあった。
それが、僕と夏海のはじまりだった。




