第8話 イヤキチ 最終章
「イヤキチ」は、いつもより静かだった。
扉を開けると、薄いジャズが流れ、カウンターの奥で亜希子がグラスを磨いていた。
常連の数人が低い声で談笑しているが、笑い声にはどこか落ち着いた響きがあった。
昌司は扉の前で一瞬立ち止まり、店の中を見回した。
照明の下、棚やカウンターの上を目でなぞる。
「無いな」
あのオルゴールが、どこにも見当たらなかった。
「いらっしゃい、昌司さん」
亜希子が微笑む。
その声に促されるように、昌司はいつもの席に腰を下ろした。
「……誕生日、おめでとう。仕事がバタバタしてて来れなかった。」
「その辺は光宏から聞いているわ。ありがとう。あの日はね、いろんな人が来てくれて、賑やかだったのよ」
そう言って亜希子は、軽やかに笑った。
昌司は頷きながら、ふとカウンターの奥に視線を向ける。
グラス、花瓶、小さな置時計。
だが、あの黒檀の木箱は見つからない。
ほんの一瞬、胸の奥がざらつく。
気にするほどのことではない、そう思いながらも、言葉が喉の奥で滞った。
「ビールでいい?」
「……ああ、うん」
彼女が冷蔵庫を開ける音が響く間、昌司は無意識に掌を組んでいた。
プレゼントがどう扱われたのかを確かめるつもりではなかった。
ただ、知りたかった。あの音が、今どこで鳴っているのかを。
*
その夜、店が閉まったあと。
亜希子は薄暗い部屋に戻り、ベッドの脇の小さな台に手を伸ばした。
そこにあるのは、あのオルゴール。
木の香りを残したまま、ゆっくりと蓋を開ける。
ゼンマイを回すと、静かな機械音のあと、優しい旋律が流れ始めた。
《ラ・メール》。
海のさざめきのような音が、部屋の闇に溶けていく。
亜希子はベッドに身を沈め、目を閉じた。
心の中で、店に来ていた昌司の姿を思い出す。
彼がどんな顔でこの音を選んだのか、その思いを感じるように、
彼女は静かに息を整えた。
窓の外では風が夜の街を撫で、遠くの車の音が過ぎていく。
オルゴールの音だけが、部屋の中で絶え間なく続き、
やがてその音が、彼女の眠りとともに静かに消えていった。




