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第6話 イヤキチ 中編

東門街のメイン通りから一本外れた路地を昌司さんに連れられて歩くと、やがて店内の照明で道を照らす小さな店が現れた。


外観だけを見れば、洒落たカフェバーのよう。特に看板のような物は無く、大きなガラス窓に白色のカタカナ文字で「イヤキチ」とステッカーが貼られている。


店の扉を押すと、微かなベルの音が鳴った。

琥珀色の照明が落ち着いた空気を作り出し、グラスの音が遠くで響く。

天井には真鍮のランプがいくつも吊るされ、古いガラス越しに灯がゆらめいている。壁一面には額縁に収められた古地図や、少しくすんだ油絵。棚には英国製のティーカップや、銀食器、ゼンマイ仕掛けの時計が並んでいた。どれも実用品というより、時間の記憶を飾るために置かれているようだった。


カウンターは濃いウォルナット材で、手入れの行き届いた艶がある。

その奥では、白いシャツに黒のエプロンを結んだ女性がグラスを磨いていた。

彼女の動きは静かで、まるでこの空間のリズムを保つための儀式のようだった。

流れているのは古いジャズ。サックスの低い音が木の壁に吸い込まれ、テーブルの影を少し柔らかくしている。

席は少なめで、二人掛けの丸テーブルがゆったりと配置されていた。

隣の客との距離も程よく、会話が重なり合わないように計算されている。

奥には棚があり、ワインボトルや洋酒の間に日本酒の一升瓶が無造作に並び、古い日本の徳利や陶器のぐい呑みも混ざっている。

それがこの店に居酒屋らしさを演出していた。

洋の香りと和の気配がゆるやかに交わり、時間の流れまで少し違って感じられる空間。

この店では、飲むというよりも「過ごす」という言葉が似合う。

そんな場所に思えた。


カウンターの奥にいた女性が、手を止めて顔を上げる。

昌司は声をかける代わりに、軽く目で挨拶をした。

女性も同じように目を細め、わずかに頷く。

その無言のやり取りには、常連同士の親密さと、言葉を交わすまでもない安心感があった。


「どうぞ」

昌司は、カウンター中央のいつもの席に腰を下ろした。

隣の椅子を手で軽く叩き、「悟くんも、こっち座れよ」と促す。

悟は遠慮がちに頷き、彼の隣に腰を下ろした。


「ママ、ビールとウーロン茶を」

昌司の声は穏やかだった。

ママさんは「はい」と柔らかく返事をして、冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、もう一方の手でウーロン茶のグラスに氷を落とす。


グラスに注がれるビールの泡が、ゆっくりと静まっていく。

その音を聞きながら、悟は店内を見渡した。

古い時計の針が静かに時を刻み、木のカウンターには長年の客の肘跡が柔らかい艶を作っている。


ママさんが二人の前に飲み物を置くと、昌司は軽くグラスを持ち上げた。

「じゃあ、今夜もよろしく」

悟もウーロン茶を掲げ、小さく「はい」と応えた。

グラスの軽い音が交わる。

その瞬間、店の夜がゆっくりと動き出した。


ママさんと呼ばれた女性は三十代の前半ほどだろうか。

栗色の髪は肩のあたりでゆるやかに波打ち、照明の光を受けると淡く金を帯びる。

切れ長の瞳と高い鼻梁には、どこか異国の血を感じさせる輪郭がありながら、日本的な柔らかさも失っていない。

口元には控えめな微笑が常に宿り、それが店の空気を穏やかにしていた。

仕立てのよい白シャツに黒のエプロンを重ね、指先には洗い慣れた布の感触が馴染んでいる。

ワインボトルを傾ける仕草も、グラスを磨く手の動きも、どこか上品で、無駄がない。

育ちの良さを隠そうとしても、立ち居振る舞いの端々に滲み出てしまうのだろう。


カウンターでは一人客が多く、それぞれが思い思いの酒を手にしている。ハイボール、レモンサワー、梅酒ロック。音楽は控えめなシティジャズで、氷の当たる音がよく響く。メニューには「出汁巻き」「ポテサラ」「アジフライ」といった定番が並ぶが、盛りつけはどれも丁寧で、器もセンスが良い。


ママさんは、常連の話を聞きながらも、グラスを洗う手を止めない。彼女の動作には、都会の速さと下町の優しさが同居している。外観こそカフェバーだが、扉の内側にあるのは人の温度の残る夜の居場所だった。


その光景を見ていると、この店の静かな美しさがどこから生まれているのかが、自然と分かる気がした。



ママさんと昌司は、カウンター越しに穏やかに話していた。

話題は取りとめのないものだったが、ママさんの笑い声に混じる昌司の低い声が妙にしっくりと馴染み、店の灯りに温かい余韻を落としていた。

その和やかな空気を割るように、奥の席で独り飲んでいた男が椅子を引いた。

酔いで頬が真っ赤に染まり、足取りは危うい。


「おい、あんた……」


と、昌司の方を指差しながら、ゆらりと近づいてくる。


「あまり見かけない人だね、えらく亜希子と仲がいいみたいだけど」

声は酒焼けで濁り、笑っているようで笑っていない。

昌司は軽く会釈し、「いえ、ただ話をしていただけで」と答える。

しかし男の目は、理屈を受け入れる状態ではなかった。


「話してただけねぇ……。」


テーブルに両手を突き、昌司の肩を覗き込むようにして睨む。

ママさんがすぐに声をかけた。「賢さん、やめて。」

だが男は聞かない。


「気取った顔しやがって……何だよ、お前、亜希子に気があるのか?」


吐き捨てるような言葉に、店の空気が一気に冷えた。

周りの客が静まり返る。グラスの中の氷が、ひとつ音を立てて沈む。

昌司は椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。


「そんなつもりはありません。ご迷惑なら、僕は帰ります」


その声音が落ち着いていたことで、かえって場の緊張が浮き彫りになった。


男の足取りが、いよいよ危うくなっていた。

カウンターの前までふらつきながら進み、昌司の胸倉を掴もうとした瞬間。

その動きの裏側で、悟がそっと立ち上がった。

まるで、落ちた箸を拾うかのような自然な仕草で近づいた。

店の誰もがママと泥酔客の言い争いに気を取られている。

その隙に、悟の足がわずかに動いた。

右足の甲で、相手のかかとを外側からすくう。

軽く、しかし正確に。

柔道でいう足払いに近い動きだった。

次の瞬間、男の体が前のめりに傾く。

「あっ」と短く声を上げたときには、もう重力の方が速かった。

鈍い音とともに、男は床に手をついて崩れ落ちる。

店中の視線が一斉に集まる。


「だ、大丈夫ですか」


悟はすぐにしゃがみ込み、手を差し出した。

誰が見ても、ただ転んだ酔っ払いを介抱しているようにしか見えない。

悟は何事もなかったように立ち上がり、倒れた椅子を元に戻した。


「危ないですから、ゆっくり座ってくださいね」


転倒した賢を、悟が支え起こした。

賢は一瞬きょとんとした顔で、何が起こったのか理解できていない。

その様子に、奥のテーブルで飲んでいた常連のひとりが椅子を引いた。


「おい賢ちゃん、もう今日はやめとけ。顔、真っ赤だぞ」


その声に別の客も頷く。「そうそう、ママに心配かけるなよ。ほら、水でも飲め」


気心の知れた仲間たちの口調は、叱責というよりも、長年の付き合いから出る優しい促しだった。


賢は俯いたまま、しばらくの間、息を荒げていたが、やがてふっと肩を落とした。


「……悪かったな、亜希子。ちょっと飲みすぎたみたいだ」


「私はいいけど…。他のお客さんに心配をかけることになるから、しっかりしてね。」


亜希子は微笑みながら、小さな声で店の奥に合図を送った。

裏口から光宏が顔を出し、「タクシー、呼んであります」と告げる。


やがて店の外でエンジン音が止まり、ガラス越しにヘッドライトの光が差した。

常連の二人が両脇を支え、賢をゆっくりと外へ連れ出す。

店の扉が開くと、夜風がひやりと流れ込み、酒と煙草の混ざった空気を少し澄ませた。


「また明日、顔出すからな」


賢が半分寝言のように呟くと、常連たちは苦笑してうなずいた。

扉の向こうでタクシーのドアが閉まり、車が静かに発進する。

亜希子はその音を聞きながら、グラスを拭く手を止めた。


「ほんと、助かりました」


と、隣に立つ悟と昌司に小さく頭を下げる。

店内には再び、低いジャズの旋律が戻ってきた。

亜希子も安堵の笑みを浮かべ、他の客もまた酒へと視線を戻していく。

誰もが何もなかったように酒を口に運ぶ。


昌司だけが、一瞬、悟の目を見た。

その目の奥に、ほんの刹那、鋭さが光った気がした。

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